クラリアットの少女



【1】


 草原の国、商業の国、または「力」の国、クラリアット。
 突き抜けるような青空の下、コロシアムの町の大通りに、甲高い笑い声が響く。

 「お父さん! お母さん! お帰りなさい!」
並んで歩いてくる有翼人の夫婦。黄色い翼の男性が、槍を持った手を上げる。水色の
翼の女性が、傍らで微笑む。少女に向かって、何か言いながら。
 男性の名はオキファ。
 女性の名はティル。
 それに、黒い翼を浮力に使って、二人の方へとたとたと駆けていく女の子。肩まで
の黒い髪が、乾いた風に揺れる。
 少女の名は、アイム。
 アイム=ミラーフェルト。その時…七歳。

 ユン=ハヤシベはまどろみの中にいた。とろとろと、とろとろと。
 両親が商品の仕入れから帰ってくる。珍しいお土産が並ぶ。普段は祖母と二人だけ
の家が、一気に賑やかになる。
(普段は二人…)
夢の中のユンは、首をひねる。
(…じゃない、何だって、僕の家にはあんな――)

 「おばあちゃんおばあちゃん、大変大変!」
ユンの夢を打ち切ったのは、幼なじみで、隣の家に住んでて、おまけに一年の三分の
一は彼の家に居候している…同い年の少女だった。
 「ユン? またねぼすけ?」
黒いおかっぱが、まだ起きあがれないユンの方へ揺れる。
「おお、元気だねえ、アイムちゃん。ユンも少しは見習っ…」
祖母の声が近付いてくる。やっぱり、帰って来たのは彼の両親じゃなかった。
 「あのね、あのね、カナエおばあちゃん、お父さんとお母さんが帰ってきたの!」

「おや、今度は随分早かったんだね」
「うん! 後でおみやげ持ってくるから!」
そして、まだ寝ぼけ眼のユンの顔を覗き込み。
「……寝てたら、ユンの分取っちゃうからね!」
アイムはケラケラと笑った。無邪気な笑顔で。そしてとたとたと外へ走っていく。黒
い翼を左右に揺らして。
 ユンは祖母に見られないように歯ぎしりした。
(夢の通りだったら…どうして、僕の父さんと母さんより、あいつの方が先なんだ?
 そうじゃなかったら、思いっ切り自慢もできたのに……)

 アイム=ミラーフェルト。
 黒い翼と髪に、紫色の大きな瞳、歳の割に整った顔をした有翼人の少女。
 両親共非常に有能な槍使いで、しかも現役の傭兵ということから、夫婦の両方が戦
いに駆り出された時は、隣の家のカナエ…ユンの祖母が面倒を見ることになってい
た。
 ただ…口に出す程のことでもないが、ユンには引っ掛かっていることがあった。
 アイムの髪と翼の色が、彼女の両親と全然違うこと。もっともユンは有翼人の翼の
色の遺伝の仕組みなんて知らないし、髪が黒いのは、テーヴァ人の血を引く彼も同じ
だったが……。
 それにユンが物心付いた時には、アイムの体には、既に無数の傷が付いていたこ
と。

 賑やかな大通りを抜けて。辿り着いた門から、赤いキャンディーを手にしたアイム
とその父、オキファは巨大な建物に入っていく。むせ返るような人混み。売り子の甲
高い声。そして、観衆の凄まじい熱気。
「うわあ、これがコロシアム? 凄い人…ねえ、あそこでどうするの? 戦うの?」

「まあまあ、まずは席に…」
 試合の途中で入ってきた父娘は、暫し空いた席を探してうろうろする。やっと座る
と、リズマン対モンクの試合が始まった処だった。
 観客席を大きくゆさぶる歓声。時にはヤジも。そして闘いとの一体感。
「実はね、お父さんもコロシアムの大会に出たことがあるんだ、何回か」
「そうなの?! お父さんって強いんだね!」
「一回準々決勝まで行っただけだよ」
「でも、あそこで勝ったんでしょ! 凄いよ!」
勝負あった、らしい。リズマンが観衆の渦の中心で、勝利の雄叫びをあげている。
 次に出てきたのは……。
「ほう、ユースじゃないか。まだ現役だったのか」
オキファが指差したのは、灰色の翼を持った有翼人のランサー。銀色の長い髪。引き
締まった筋肉、それにオキファのものより長い銀色の槍。
「お父さん、あの人知ってるの?」
「戦友、さ。何度も一緒に旅をした。数年前にここに帰ったとは聞いていたが、コロ
シアムはある意味戦場より過酷だっていうのに……まだ頑張ってるんだな」
 試合の方は…その有翼人ユースが、開始から一分しない内に、見事に勝負を決めて
いて。ますます盛り上がる観衆。
 オキファの膝の上で、アイムは紫の瞳をキラキラさせていた。
「ね、お父さん、あたし、大きくなったらコロシアムに出る! 絶対出る! で、優
勝するの!」
「え……?」
 娘…アイム本人の口から、将来のことを聞くのは初めてだった。家に余りいないの
だから仕方がない。しかしよりによって、女の子からこんな言葉を聞こうとは。
「明日から、お母さんに教えて貰うんだ! 槍をね!」

 その晩。
「……正直言って、ちょっと参ったわ」
酒を飲むオキファの顔を眺めながら、ティルは言った。
「気が早すぎるのよ、次の大会に出るって…あの子今まで、槍を持ったこともないの
に」
「…まずいことしたかな? でも“明日から”って、本気だったのか……」
 そう。案の定コロシアムから帰ってくるなり、アイムは母、ティルに「とにかく明
日から槍を教えて」と、もの凄い剣幕で迫ったのだ。
 オキファは思い浮かべる。コロシアムの中央で、長槍を振るう未来のアイムを…だ
が、どうしてもかつての自分やユースの姿の方が、リアルに想像できてしまう。
 何しろ、アイムはまだ七歳の女の子。
「とりあえず、今度あの子が槍を教えてって言ってきたら、棍を使うわ。物置にあっ
た筈だもの、コーンズ先生から貰ったのが」
「良い方針だね」
ふふ、と実は稽古では夫に負けたことがない、ティルは笑った。

 そして翌日から、ティルは本当にアイムに稽古を付ける羽目になってしまった。
「いい、アイム。一人前のヴァルキリーになるには、まずは体作りが大事よ。槍を持
つのは、ちゃんと基礎体力がついてから」
「はい、お母さん!」
「お母さんじゃなくて、今は師匠…ミラーフェルト師匠、じゃ、まずいかしら?」
「駄目だよ、アイムだって、ミラーフェルトだもん」
師匠兼母親は気付かれないようため息をつき。
「うーん……ま、それは後で考えましょ。いい、基礎体力をつけるにはまず……」

【2】


 練習は続いた。次の日も、その次の日も。両親のどちらかが家にいる時は、必ず。

 ティルもオキファも、きっと途中で音を上げると思っていた。特に運動も得意でな
く、体格もお世辞にも良くないし、おまけに泣き虫のアイムのこと。
 けれど一度言い出したら絶対後に引かないのが、アイム。誰に似たのか…と心で呟
いてから、ティルは少し哀しげに微笑んだ。

 「アイム…いつから、ヴァルキリーになりたいだなんて、言いだしたのかしら」
寝室の会話の間を、アイムの寝息が静かに埋める。
「さあ…やっぱり僕がコロシアムに連れていったせいかな? 影響を受けやすい、年
頃だからね」
「それが……どうもあの子結構前から、自分がヴァルキリーになるのは当然だって…
思ってるらしいのよ」
深いため息を付くティル。
「さあ…親が親だからね、僕の両親も槍使いだったし」
オキファはティルに比べれば、かなり楽観的だった。
「そんなこと言ったら、私だって道場主の養女よ。でも……」
「何?」
「…私達の…傭兵の仕事は、人を殺すこと、でしょう?」
それをアイムは判っていない。それだけは間違いない。だが…それを、十歳にもなら
ない少女に誰が教えるのだ。
 自分の親が…まあ言い方は多少悪いが…殺人者である、と言う事実を。
 結論は出ないまま……次の日、オキファはまた戦場へと旅立った。

 「あんたの砂糖菓子は、テーヴァの茶にも良く合うでな」
「ありがとうございます」
 ユンの祖母…カナエは、ティルが家にいる時はいつも、隣家で茶飲み話をしながら
くつろぐことにしていた。訓練道具や棍が置かれて、今やすっかり「道場」のように
なってしまった、広い庭を眺めながら。
 「あの子…アイムが、ヴァルキリーになりたい、と…?」
カナエは少し顔をしかめた。
「はい……」
緑色の熱い茶を、一口すするカナエ。
「あの子は素直で優しい子じゃ。それが、人を殺す職業に就けるのかいな…まあ、こ
こはクラリアットじゃし、戦争で誰かが戦わなければ、他の誰かが……」
「それが……いや、決してカナエさんのせいじゃないんですけど、自分もヴァルキ
リーになれば、私達と一緒に出かけられる、一人で留守番しなくていいって……あの
子が考えてるのは多分それだけ……」
 そこへ。
「あ、カナエおばあちゃん! あたしね、棍使うのすっごく上手くなったの! それ
でね……」
と、アイムがいきなり走ってきて、二人の話は中断された。

 「ねえお母さん、お母さんの作るお砂糖のお菓子って、どうしてこんなにおいしい
の?」
台所に立つティルのスカートの裾に、顔中砂糖だらけにしたアイムがまとわりつく。
戦士の僅かな、休日の風景。
「え、普通のお菓子よ?」
「でも、お店では全然売ってないよ?」
「これは昔…お父さんと結婚する前、私がアスリースにしばらくいた時に…教えて
貰ったのよ」
ティルは少女のようにはにかんだ。
「実を言うと、お父さんと初めて出会った時に、お母さんがこのお菓子をあげたの
よ。そしたらお父さんたら、後で『毎日君の砂糖菓子に埋もれてたい』ってね、お母
さんにプロポーズしたの……うふふ、変な話でしょ?」
「あたしも、お菓子にうまっちゃいたい!」
「そんなことしたら、お菓子溶けちゃうわよ」
「いいもん、あたし、ぜーんぶ食べるから。だって、お母さんのお砂糖のお菓子は世
界一だもん!」
 そうして、アイムは窓の外を眺める。空の果て、彼方、遠く遠くの見知らぬ「生ま
れ故郷」を。
「アスリースかあ…あたしも、そこで生まれたんだよね?」
「え……うん、そうよ」
「あたし行ってみたいなあ…アスリース……おっきな森があるんでしょ、いっぱい魔
術師がいるんでしょ、それに、おいしいお菓子があるんでしょ。エルフとか、フェア
リーとか、それからそれから……」
母の言葉の澱みに、アイムは全く気付かない。それが…ティルにとっては救いであ
り、同時に不安の種だった。
「それで、あたしが生まれた町の外れには、魔術師が住んでいて」
「そう、凄く高名な人なのよ」
「で、魔法使いって何でもできるんだよね…会ってみたいなあ…そしたらあたしを、
すぐに一人前のヴァルキリーにしてくれるかな?」
 ふとティルが振り向くと、アイムは槍の構えをしていた。教えたこともないもの
を。しかし僅かな崩れもない姿勢。
「アイム、それ…」
「あたし、こっそりコロシアムに飛んでって見てきたの。えへへー。槍使いって、試
合の前、こうするんでしょ?」
ティルは笑顔を崩さないように、ため息を付いていた。

 「誕生日おめでとう、アイム」
八歳の誕生日。
 アイムが両親から渡されたのは、細長い包みだった。母との練習に使っていた木の
棍よりも、二倍近く長い。
「わあ、これ、本物の、大人用の槍!」
槍を高く掲げて、跳ね回るアイム。
「こらこら、あんまり振り回したら、家のものが壊れてしまうよ」
「ありがとう、お父さん! お母さん!」
アイムは満面の笑みを浮かべた。
「これで、あたしも、ヴァルキリーになれるね!」
そのあっけらかんとした言葉に、ティルの頭はずきずき痛んだ。
「でも、今のお前にはまだ大きすぎるから、練習して、大きくなって、力も強くなっ
てから、使うんだよ」
しかしオキファは笑っている。
「うん! あたし、いっぱい練習して、いっぱいごはん食べて、いっぱいいっぱい大
きくなる!」

 ……あれ高かったんじゃないの、とアイムが寝た後で、ティルはオキファにそっと
囁いた。
「…行きつけの店の、一番普通の槍だよ。子どもにはちょっと高いかも知れないけど
…励みには、なるだろう?」
 これ以上あの子を励ましてどうするのよ……と、どこまでも楽天的な夫に、ティル
は遂に言うことが出来なかったのだが。

【3】


 ユンは隣家の「道場」を眺めていた。少女がびゅん、と棍を振るう。大きくなって
きた黒い翼をにょきっと外に出した、奇妙な黒マントを着た…アイムが。生徒も教師
もアイム、一人。
「ほぉら、アイムちゃんは一人で頑張ってるのに。ユンもどっかの私塾にでも通った
らどうだい」
祖母は口調とは裏腹に…声は寂しげだった。最近は両親が遠征に出ていても、練習に
熱心な余り、ユンの家に来ない日もある、アイム。
 カナエはカナエで、旅立つ前のティルの言葉を思い出している。
『素質があったのね…あの子。もう私じゃ練習相手にならないわ。コーンズ先生が、
生きていて下されば……』
 子どもが親を越えても、親は親じゃよ……カナエはそうティルを慰めたのだが、効
果はあったのかどうか。

 ……そういえばいつも、アイムの周囲は男の子しかいなかった。全身に刻まれた醜
い傷のせいで。当のアイムは、怪我したことなんかないと言っていたが。
「強くなったねえ、本当に…アイムちゃん」
祖母の言葉が、完全には当たっていないのを、ユンは知っていた。

 ユンは忌々しく思い出す。ほんの一年、前のことを。

 「もしもし、アイムさん、どうしていつも傷だらけなんですかあ?」
いつものように棍の練習中に、近所の悪ガキ共に外に連れ出されたアイム。
「ひょっとして、悪魔払いのせいか?」
「だったら今ここにいないじゃん」
「ならやろーぜ、今。アイム払いだ!」
悪意に満ちた眼差しが、涙目のアイムに突き刺さる。また新しい傷跡が出来る。
 悪いこととは判っている。でも……。
「ほらユン、お前もやれよ」
そう言われると、躊躇いながらも…ユンは足元の石を投げる。
 話の真ん中で、蹲っている少女。その表情は…黒髪に隠れて判らない。しゃくり声
も掻き消され。……あの頃はまだ、アイムはあの黒マントは着ていなかった。
「悪魔の子ども、悪魔の子ども!」
 一人の男の子が、アイムの前に進み出る。他の男の子は、アイムの素足や翼を踏み
つけて。
 促され、ユンも輪に入る。自分の心を凍らせて。
 プリースト役の少年がうろ覚えの台詞を言うと、縄を持った少年が二人がかりで、
もう体力も気力もないアイムを木に縛り付けた。
 そして、また石は投げられる。
「ユンもやれよ、早く」
「……。」
 自分が理不尽に傷を増やしているのが、幼なじみの少女ということも、どうでも良
かった。
 ユンの意識は、静かに体から遊離していた。

 ……八歳になったばかりの頃、アイムがすがれたのは滅多に揃わない両親と、カナ
エだけだった。しかしカナエに、ユンのしたことを言える筈もなく。
 誰にも心配させたくなかった。必死に何事もない振りをしていた。泣き虫のヴァル
キリーなんて……。
 しかし母には。
「…どうして泣いてるの、可愛い泣き虫さん」
「泣いてなんかないもん……」
「じゃ、顔が濡れてるのは?」
「……だって、だって、体に傷があるの、みんなが…ねえ、何であたしの手とか、胸
とか、こんな傷だらけなの?」
ティルは言葉では答えず、ただアイムを抱き締めた。その白い腕に、服に、アイムの
体から滲んだ血が染み込んでいった。

 やがてアイムのすすり泣きだけが響いていた、暗い部屋のドアが開き…翼を背負っ
た影が映される。
 ティルが持っていたのは、ボタンの掛け外しで背中の羽根を出し入れ出来る、お手
製の黒マントだった。
「ほら、アイム、着てご覧なさい。これなら…傷も見えないわ」
アイムはマントを一目見て…また、泣き顔になった。
「…嫌? アイム」
「だってこれ…あたし、黒、嫌いだもん。…みんなが、黒い翼は、悪魔の翼だって」

「アイムはそう思うの?」
「アイム、悪魔じゃない……よね? だってお父さんも、お母さんも、悪魔じゃない
でしょ……」
一瞬だけ、ティルの表情が変わったが…すぐまた元に戻り。アイムは傷が増えた腕
で、涙を拭う。
「でもみんなが…マントも黒だったら、あたし、全部黒くなっちゃう」
 ティルは娘の肩に優しく手を置く。
「お母さんね、もしかしたらアイムがそう言うかなって、実は他の色のも作ってみた
の」
大きく見開かれたアイムの眼。
 奥の部屋に行ったティルは、沢山のマントを抱えて戻ってきた。赤、青、黄色、ピ
ンク、黄緑……全部同じ形の。
 アイムは無言で、一つ一つ、それらのマントを纏っていく。でも。
「ほんとに合わない……」
最後のマントから翼を外に出した時。ぽろ、とアイムの眼から、涙が落ちた。母親の
羽根の色…水色のマントの上に。
「やっぱり、黒じゃないとだめなんだ…あたし、でも……でも……」
 そうしてティルはまた、アイムを胸に抱き留める。
「あなたは他の誰でもない、アイムなんだから」
 他の誰でもない、アイムなんだから。


【4】


 ……そしてまた両親は、戦いの旅に出る。
 アイムは九歳。見送る背中も翼も少しずつ大きくなってはきたが…まだ、幼く。
 ユンは両親の勧めで、私塾に通い始める。一日中一人で槍の訓練をしているアイム
とは、もう、話すこともあまりなくなっていた。

 そうして、また何カ月かが過ぎ。
「アイム!」
我が家に帰ってきたオキファとティルが見たのは、雨の中、庭で一人あの槍を振る
う、アイムの姿だった。
「何してるの、アイム!!」
ティルが、昔道場にあったものを思い出して作った藁人形は、既に全く原形をとどめ
ていなかった。
 激しい雨が、少女の黒いマントを叩く。
「……たあ! やあっ!!」
アイムの体には、前よりもっと傷が増えていた。自分の身長よりずっと長い槍に、
散々振り回されたおかげで。
 ティルとオキファは走り寄る。
「アイム! 言ったでしょう、その槍は、まだあなたには大きすぎるって」
それでもアイムは、槍を振るのをやめない。
 オキファはアイムを背中から抱え、ティルは槍を取り上げる。アイムはしばらく必
死にもがいていたが、無理と悟ると体から力を抜いた。雨が、急に冷たくなる。
 アイムは母の胸の中で、しゃくり上げながら言った。
「…練習、してたの」
初めて娘に手を上げようとしていたオキファの…体が止まる。その一言で。
「あたし…早く、早く、すっごく強いヴァルキリーになりたいの。そしたらあたし
も、お父さんと、お母さんと、一緒に旅が出来るでしょ?」
怒鳴れなくなってしまったティルは、何とか言葉を選ぼうとする。
「……でもね、アイム。槍の先生として言うけど、槍にも相性があるの。背の高さと
か、手の長さとか、腕の力とか。だからお父さんとお母さんの槍は、同じじゃないで
しょう?」
「……。」
「こんなに体に合わない大きな槍をぶんぶん振ってたら、強くなる前に、ひっくり
返ってばかりで疲れて、体を悪くしてしまうわ」
アイムは涙と雨を、母の作ったマントで拭った。
「少し…マント、小さくなったわね。中にいらっしゃい、布を足してあげるわ」
「怒ってない…の?」
「どうして怒るの?」
「……。」
「さ、早く家に入って体を拭きなさい。お父さんがお土産を料理してくれるから」
 雨はまだ親子に降り注いでいる。母の笑顔と、互いの濡れそぼった髪と翼を確かめ
てから、アイムは、家に入った。

 「私達、本当に随分寂しい想い、させてたのね……アイムに」
ティルは夫婦の寝室で、少し顔を曇らせていた。
「僕も両親は傭兵だったけど、兄弟が沢山いたから…」
オキファも、考えていることは妻と同じだった。
「次で……最後にしましょ、ね?」
「ああ…厳しくなるかも知れないけどな、生活は」
「私は引退する。アイムの傍にいてやりたくて…最近、無性に」
「おいおい、不吉なこと言うなよ。だったら、僕も同じだ」
「そうね……道場でも開こうかしら。コーンズ先生のやり方は、十分学んだつもり
よ」
「頼もしいね…いつも、君は。戦友だった時から」
「アイムがいるからよ……」
「そうだな、アイムが……」
二人はそう言ってから、さっきとはまた違う憂いを浮かべた。
「……本当のことも、話した方がいいのかしら」
暫しの、沈黙。
「素直な子だ…ショックも大きいかも知れない…けど、隠しておいていいことなのか
…正直言って、僕には決められないでいたんだよ。ずっと」

 ……結局、二人の「結論」は出せないまま、また旅立ちの時はやって来る。
「ね、あたしが十歳になるまでには、帰ってきてね!」
アイムが父…オキファのたくましい腕にすがりつく。
「こらこら。誕生日は…早過ぎるよ。でも、おみやげは期待してくれてていいぞ」
「本当? やったあ!」

 ね、お父さんもお母さんも、早く帰ってきてよね?
 そしたら、もうずっとずっと、一緒にお家にいられるんでしょ?
 お母さんがお菓子屋さんやって、お父さんが手伝うの! いいでしょ?
 あたしも、コロシアムで勝って、うちのお金稼ぐから!
 だから、あたし、一生懸命練習して、待ってるから。
 すぐ、帰ってくるよね?
 絶対…だよ?

 「絶対…だよ?」
 アイムは呟く。別れ際の映像を何度も何度も思い出して。
 一人きりで、必死に槍と棍の練習をしながら、彼女はいつものように、両親が帰っ
てくる日をずっと、待っていた。

 時は流れる。碧月のアイムの誕生日も、いつの間にか過ぎていて。
 それでもアイムは待つ。ひたすら信じる。白月が来ても。黒月が来ても。

 絶対……だよ?


【5】


 ある日アイムの家を、オキファの戦友と名乗る男が訪れた。
「嘘……」
知らせを聞いたアイムは、玄関で崩れるようにしゃがみ込む。
「お父さんと、お母さんが…そんな……」
 幼いアイムが素直に受け入れられる…訳がなかった。愛する両親が、戦場で死んだ
ということなど。
「嘘なの! 絶対嘘! だって、言ったもん、お父さんもお母さんも、すぐ帰って来
るって! 絶対帰って来るって!」

 すすり泣きが、時には絶望の叫びが、一人きりの家に響く。
「お父さん…お母さん……」
 悲報を聞いてから、ずっと、アイムは。
「絶対…って、言ったのに、あたし……」
母がくれたマントに、涙を吸ってくれる部分が無くなっても。父がくれた槍に、すが
るようにただ、抱き締めて。
 ただ、泣き叫ぶ。
 カナエだけがアイムの家に通い、葬式の準備の傍らアイムの食事を差し入れていた
のだが、彼女は全く手を付けようとしなかった。
 ……部屋の片隅で、いつまでも涙をこぼすだけで。

 遺骨も、遺髪も、一枚の羽根も…遺品も何もない葬式。あるのは、オキファとティ
ルという仲のいい有翼人の夫婦が、傭兵に行った先で共に亡くなった…という事実だ
け。
 残された小さな娘のことは…カナエ以外は誰もが、忘れた振りをしていた。ユンさ
えも。
 「あの子…どうするの?」
葬式中、そしてその後も……孤児になったアイムの周囲で、堂々と交わされるひそひ
そ話。
「どうするって……」
「母親も孤児だったし、オキファ…父親の故郷はストレシアだろう。しかもあっちも
傭兵一族だ、生きているかどうか…」
「家は…どうする」
「誰か子どもの引き取り手がいれば、大家もすぐ明け渡させたいようだが?」
「十歳じゃ、自力で生きてはいけまい」
「そんなこと言っても、あんた、まさかあんな子を引き取るつもり?」
「葬式で初めて見たけど、あのアイムって娘、両親のどっちにも似てないよな」
「しっ、余計なこと言うんじゃないよ」
泣き続けていたアイムがそれを聞かなかったのは、多分幸運だったのだろう。

 「…………カナエおばあちゃんが?」
葬式から五日経ち。やつれた泣き顔で外に出てきたアイムに、膨れっ面で告げたのは
ユンだった。
「倒れたって…どうして?」
「……働き過ぎだって」
 祖母はアイムを引き取ると頑固に主張していた。両親は一貫して反対し、争い、そ
して、祖母が倒れた。
 ユンの表情は終始歪んでいた。

 「気の毒だねえ、他人の子の世話で、体調を崩すなんて」
そんな陰口も、アイムは聞くことさえ叶わなかった。
 ……お父さん。お母さん。カナエおばあちゃん。
 あたしを、あたしを置いていかないで! あたしを一人にしないで!
 ただ、槍を抱き締めて。父がくれた形見の…槍を。そうしてさえいれば、哀しみだ
けに心が染まらない気がして。
 泣いて、泣いて、泣いて、そして夜が来て…アイムは槍を抱いて、眠った。

 ユンの家では、テーヴァへの引っ越しの準備が始まっていた。残り少ない命を悟っ
た、カナエの望みで。
 引っ越しの前日、アイムは一人ユンの家にやってきた。お別れの手紙と、花を持っ
て。でもユンは、彼女を決して祖母に会わせようとはしなかった。
「ユン……」
「お前なんか知らない」
すっかり頬もこけたアイムは、見たことのない眼をしていた。哀れな、色の。
「……ユン、どうして?」
ユンはアイムに背を向けた。
「お前のせいで…お前のせいで、おばあちゃんは具合が悪くなったんだ! お前がい
なかったら、僕だってこの町にいつまでもいられたんだ! 父さんも、母さんも……
悪魔め!」
「え……」
少年の言葉が、アイムを引き取ることに猛反対した両親の…全くの受け売りであるこ
とを、彼女は、知らない。
「…お前なんか、大っ嫌いだ! お前なんか、お前なんか……一人でどっかいっちゃ
え!!」

 よろよろと帰ったアイムは一人、何も考えられないまま…ただ槍を抱いていた。生
気のない顔で。もう、涙すら、出ない。心まで渇ききったから。
 明日には、この家を出ていかなければならない。そう、知らない大人に言われた。
どうしようもなくて…ただ、膝と一緒に、槍を抱きかかえて。
 ……酷く、奇妙な感覚だった。自分の周囲を、黒い霧が覆っている。それが、槍に
吸い取られていく。
(大丈夫だよ)
誰かが何処かで、そう言った気がした。


【6】


 次の日。
 ユンは家族に混じって、引っ越しの荷物を馬車に載せていた。
 もうこの町には戻ってこないかも知れない。そう思うと、急に見慣れた景色がいと
おしくなった。
「ユン、まだ家の前に荷物、残ってるわよ」
「…はーい」
 ふとユンは、隣の家の方を見やった。もうすぐ大家が、立ち退きかせにやって来る
頃だ。好奇心からか、近所の悪ガキどもがこぞって家の前に集まっている。多分、ア
イムの泣き顔を見に。
 と。
 そちらから、不意にざわめきが起こった。
「どうしたんだ……?」
「あいつ、アイム、じゃない……」
……一体何が起こってるっていうんだ?
「ユン、待ちなさい! ユン!」
母親の制止を振り切り、ユンは隣家の前に走る。何時の間に出来ていた人混みをすり
抜ける。
 そこにいたのは。
 おかっぱの黒い髪を全部剃り落とし、父親がくれた槍を手にし、母が作った黒いマ
ントに身を包み、紫の目は鋭く、酷く冷たく光り……。
 そこにいたのは、もう、ユンの知っている、十歳の女の子ではなかった。
 一人の、「戦士」。

 「アイム、どうして……」
笑顔の似合う幼なじみの、元気少女の面影は、もうどこにもなかった。
「どうして…そんなんなっちゃったんだよ!」
 アイムはユンを見ない。誰のことも、見ない。ただ虚空を睨み付け……。歩き出す
と、周りが脅えたように道を開ける。もう一度、ユンは彼女の名を叫びかけ…でも喉
の処で引っ掛かり。
「……。」
 ……本当にアイムは悪魔になってしまったのか。
 黒い翼とマントの小さな有翼人は、向かい風の中を、町外れに向かって歩き始めて
いた。
 誰にも、彼女を止める…資格など、なかった。


 *  *  *  *  *  *  *  *  *


 それから、五年の月日が経った。

 コロシアムの町を、黒髪の青年が荷馬を連れて歩いている。ユン=ハヤシベ。十五
歳。両親の跡を継ぐことになり、商人見習いとして、生まれ育った町に帰ってきたの
だ。
 約束を、果たしに。
 祖母カナエがテーヴァに渡り、一年後に亡くなる寸前のこと。いつかアイムに会っ
たら渡してくれ、とユンは小さな包みを託されたのだ。
 その中身は、彼も、知らない。

 「アイム? あの黒い奴? ……確か前、コロシアムに出てたけど、もうこの町に
はいないよ」
久しぶりに会った悪友は、顔色も変えずにそう言った。
「コロシアム…アイムが?」
「ああ、毎年いいとこまで行ってたらしいけど。もう背なんか凄まじくでかくなっ
て。『漆黒の悪魔』なんて、呼ばれてさ」
 ……悪魔。
 昔は友人達にそう言われ、そして今度は自ら望んで、彼女はコロシアムの悪魔に
なった……?
(それは……僕の、せいか?)

 あのアイムはもういない。
 いや、正確には彼女が「戦士」になった時、一人きりで生きることを選んだ時、ユ
ンの幼なじみは消えてしまったのだ。
 永遠に、この世から。

 大通りを、ユンは肩を落として歩く。
 落ち込む理由なんか少しもない筈なのに。

 ふわ、と横を、黒い風が通り抜けた。
「……?」
それは人混みと騒音ですぐ掻き消され。振り向いても、ただ昔と同じ風景があるだけ
で。
 と、ユンの手から祖母の包みが落ちた。
 慌てて拾い上げようとしても、もう行き交う人に次々に踏まれてしまい、既にユン
の拾える処にはない。
「アイム……」
今どこにいるのだろう。何をしてるんだろう。知ることすら、叶わない。

 アイムが、本当はティルとオキファの娘ではなく、アスリースの港町の宿で引き
取った捨て子だったこと。ユンが心の底では、幼なじみの少女をずっと好いていたこ
と――どちらにしても、もう昔の話。
 コロシアムの町に。
 温く埃っぽい風はずっと、吹き続けていた。


≪Fin≫


 ■

あとがき
予想(本当は四章位のつもりでした)よりも、かなり長くなってしまいました……こ
れは「アイムの過去話」ではありますが、FANTASIAのシリウスにある、“アイムが
「決して語らない」過去”というのは、この後の…大体アイムの十二歳から二十歳位
の頃のことで、ここでもやっぱり語っていない…んですよね。
ともかくお楽しみ頂ければ幸いです。

萩 梓