始まりのカオス



 最初の記憶は、ラジアハンドだった。
 最初に見たものは、海岸の砂。酷く身体に痛かったことを今でも覚えている。
 次に見たのは、明るい灰色の月だった。周りに星を携えて、まるで見守っていてくれるように輝いていた。
 三番目に見たのは、羽根だった。黒く、闇に溶けて目の前に落ちてきた羽根。
 四番目に見たのは、ムライと名乗る有翼人だった。黒い翼と、焼けた肌。

 最初に感じたことは、身体が重かったことだった。背中が重く、両手を突いて身体を起こすこともままならなかった。
 最初に聴いた音は、波の打つ音。打ちつけては引いていく静かな音。
 最初に発した言葉は、「誰」だった。目の前に現れた何かに対して、どうしてその単語がでてきていたのか、自分でもわからない。

 最初は真っ白だった。何もわからない。最初に見たものが砂であったことも、いた場所が海岸であったことも、自分が有翼人であったことも。
 どうしてか、言葉だけははっきりしていた。どうして、と訊かれても、やはり今も答える自信はない。
 自分に対して一番自信のない部分。自分の始まり――カオス。

 最初に聞いた言葉は
「ムライ」
 簡潔に答える言葉。

「むらい……?」
 繰り返して呟く。意味はなかっただろう。
「むらい……」
「ムライ、だ。お前はどうしてここにいる?」
「どうして……?」
 やはり繰り返す。ムライは繰り返すだけの自分に対して苛々したように髪に手を入れてかきまわす。
「どうして、だ。じゃあどうやってここにきた?」
「どう、やって……」
 ゆっくりとさらに繰り返す。半眼になってムライは自分の顔を見つめた。
「知らない」
 頭の中が真っ白だと言うことを、知らない、という単語で表す。その他に、分からないという単語も思い浮かぶ。
「分からない」
 目の前のムライを見上げながら、抑制をつけることも知らずに淡々と言葉をつむぐ。
 ムライは目の前に憮然とあぐらをかく。足に頬杖をついて長期戦の構えだ。
「じゃ、名前は? 名前くらいわからないのか?」
「なまえ?」
「そうだ、『名前』だ。誰だと訊かれて俺は『ムライ』だと答えた。それと同じように答えてみせろ」
「名前……」
 ぽっかりと口をあけて呟く。記憶を――真っ白な空間を歩く。やはり見つからない。
「知らない」
 今度こそ観念したようにムライは頭を抱えた。彼の周りで有翼人が三人ほど円を描くように立ち、見下ろしている。
「ムライ、だからほっとけって言ったんだ」
 槍を携えた有翼人がいう。
「遅くなるのは、いけない」
「おそくなる?」
 有翼人が顔を自分に向ける。半眼になり、睨みつけるように見下ろす。口を閉じて何も言わない。
「お前、メイサがいるくせによくそんなことが言えるな。……だいたい、こんな奴ほっといたら夢見悪いしよ」
 ようやく顔を上げたムライが、呆れた、と漏らす。正面の奥で、真直ぐな黒髪を肩から払いのけた有翼人を見つける。
「何気に良い奴だもんねぇ、あんたさ」
「そんなんでもないけどな?」
 ムライはため息を漏らす。「あぁあ」まったく自分に呆れると言わんばかりに。
 遠巻きだった有翼人たちがゆっくりと中心である自分とムライとに集まってくる。砂を踏む音さえ聞こえさせず、落ち着いているような音で。
 今でも理解できない発言がある。――今でも時々無意識に発している。
「死の匂いがする……」
 抑えたように小さな声でつむぐ言葉に、有翼人たちの顔色が一斉に変わる。その顔は鮮明に覚えている。今でもその表情の感情は理解できない。複雑過ぎる感情だっただろう、それくらい。
「誰か、死ぬの?」
 消え入るように小さな声音で、有翼人たちの気を逆撫でする。
 槍をもった有翼人が勢い良く矛先を自分の目の前に据えた。目じりの真ん中に付くか付かないかの位置で微動だにさせずに。
「くそっガキ……っ!」
 あれは、怒りだったろう。自分は槍を持つ有翼人を瞬きもせずに見つめていた。
 ムライが片手を槍に当てて制する。憤慨だった有翼人は、荒々しい仕草で手前に槍を引く――その軌道が見えるほど素早く。
 ムライは閉じた目をゆっくりと自分に向けて開いた。他の人間のように感情を湛えるでもない、冷たい目線だった。
「お前に、何がわかる」
 しん、と自分は口を閉じた。また記憶を歩く。真っ白だった空間に少しだけ文字が刻まれている。
「分からない」
 単純な答えだった。それ以外自分は何もいえない。
 ムライはふん、と短く息を吐く。
「『分からない』か、気楽なもんだな。で、お前はそれでいいつもりか?」
「いい?」
 動かなかった表情を、頬の筋肉を釣り上げて変化させる。その仕草は目の前にいる有翼人たちの仕草をまねてみたものだ。
「いいの?」
 理由もなく、繰り返す。ムライはそれを聴いて短く笑ったらしい。息の漏れる音が聞こえた。
「悪い、といって解るか?」
「わるい……」
 記憶を歩く。真っ白で道さえもない道を歩いた。この記憶に前と後ろがあったのか解らない。その時自分はその記憶の『内』を歩いていただけであって、『中』を歩いてたのかはわからない。
 記憶になければ『分からない』。
「分からない。……は、誰?」
 自分を指す言葉が見つからずに口をにごらせる。
 『俺はムライと名乗った』。
「『俺』は、誰?」
 あやふやに手を上げて、顔を歪める。どうすればいいのか、記憶の中には書いていない。
「そうだな……」
 ムライは失笑すると顔を覗いて頬杖をつく。
「なら今日からお前はアザーだ」
「アザー……」
 惚けるように繰り返し呟く。
「『俺』は、『アザー』……」
 ぐしゃり、と頭の上で何かがこすれる音がして、上目遣いで見上げる。黒い手が頭の上に置かれている。いつのまにかムライが自分のすぐ傍にしゃがんでいた。
「そうだ、アザー。一応有翼人みたいだが、飛べるんだろうな?」
「ちょっ待てっ! そいつ連れていくつもりか! アスリースまでっ!」
「だからほっとくの夢見悪いって」
 至極緩やかな口調でムライは言う。槍を持った有翼人は青ざめて、唖然としている。
 自分は座りこんだままそれを眺めながら口を開く。
「あすりぃす?」
 目線が再び自分に戻る。ムライは真面目な顔で真直ぐに自分の目を見つめている。
「アスリース。場所の名前だ。そこで、お前は生きる……生きる、は分かるのか?」
「分からない」
「今度は即答だな、テンポついてきたじゃねえか」
 ムライは颯爽と立ちあがると、自分の身体を持ち上げる。身体に酷い抵抗があったが自分で支えずにすむ分だけ体が楽だ。
「いくぞ、月が、だいぶ傾き始めた」
 ムライは自分の身体を小脇に抱えるようにして持つと、黒い翼を伸ばす。自分は首を曲げて後ろを見やり、その至極自然な動きに茫然と見入っていた。
「そら、ここで俺らが死んだら、ともらいもできない」
 彼の目が細められた。先に虚空がある。
「もとから、できやしないだろう」
 誰かが呟く。それから逃げるようにムライは飛び立った。ぐん、と身体に抵抗が加えられて、首を垂らした。別に、死んだわけでもなければ、苦しかったわけでもない。ただ重さに耐えられなかっただけ。
「おう、死んだか?」
「しんだ?」
 相変わらず繰り返し問う。夜の冷たい風が海水で濡れた体に冷たく当たるが、それが冷たいとわかるのは、まただいぶ後だ。
「はなせりゃ生きてるな。そうだな、何もわからないみたいだから教えてやろう」
 ムライは翼を動かし、一行の先頭を飛びながら口の端を上げた。
「分からないことが分かるのは、教えてもらってじゃない。『死ぬ』という単語も、いつか自分で分かるだろ」
「それより、表現できない、とか言わないか、ムライ」
「やかましいわ。いいかアザー、俺は今のお前の生き方で一向に構わないからな、誰に言われたとかでかえるなよ」
「かえない?」
「そうだ、変えない」
 ムライは片目を閉じて、悪戯に笑って見せた。今思えばそのムライの言葉が自分を形成しているのかもしれない。

 二十歳を随分前に過ぎたように感じる今日。
 あの始まりは、今も忘れることなく記憶に残っている。
 それでも今も、自分はあの時が始まりではなかったように思う。


――そう、カオス。
 始まりは、カオスだ。