〜失われた肖像〜





■1■

 以下は、<0381:フォルクス−32>より抜粋。

 996年前半、ラジアハンド国ステンダー領を疫病の猛威が襲った。半ば閉塞されたような山中という土地柄からか、他の地域へ広がることは防ぐことができたものの、多くの領民はもとより、国内きっての名門の一つであるステンダー家の後継候補の大半が命を落とすなど、被害は甚大であった。
 その疫病の流行の初めごろ、小さいながらも領主一族の住まうストーク村で、一人の白い赤ん坊が生まれた。もとより朴訥な田舎の小さな村の人々はそれに恐れおののいた。
 本来在るべき色を奪われた、神の恩寵なき、あるいは神々に認められざる子供である。でなければ魔性に魅入られた呪われし者である。
 収まる気配が無かった疫病への恐怖とあいまって、それはそのまま疫病の元凶と考えられた。
 その結果、ただでさえ平常心を欠いていた人々は白い子供とその母とを生け贄に、あるいは元凶として断つことで、恐怖と現実から逃れようとしたのである。
 ステンダー領主は領内全域への対処で手一杯で、細かいことにまで気を回している余裕はなかった。
 ラジアハンド王国本宮の行政府は他所への感染を防ぐのに必死であった。
 白子の母子が恐怖と妄信から火焙りという私刑によって死を遂げていたと公式に判明したのは、疫病が治まり、各所の被害や領主の後継問題などがどうにか落ち着きはじめた碧月の半ばの頃に、ようやくのことであった。




 987年蒼月、ラジアハンド王宮。
 二人の貴婦人が、ラジアハンドで行われる舞会に出席するために、はるばるストレシアからやってきたことを記憶している者は少ない。ただ、一方の年長の女性が、どこか不安げな表情を隠しきれずにいたことを、当時の受付係であった女は覚えている。
 提示された招待状の宛名は、アルスター侯爵家。そして、貴婦人の一人は、鳥の羽で装飾された扇をかざして、
「アルスター候ヨハルの妻、シシリア・リース・アルスターですわ。こちらは、わたくしの従姉妹ですの」
 と言い、にっこりと微笑んで見せた。
 受付係は、招待状の家紋を確認し、それが本物であると確認した。丁寧にお辞儀をし、二人の貴婦人を通した。正式な招待状さえあれば、舞会に入ることは意外と簡単なのだ。だが、肝心の招待状が、色々と細工されているらしく、偽造は不可能だといわれている。
 二人の貴婦人は、誰に阻まれることなく、真っ直ぐに舞会の会場に向かう。
 そこは正しく、絢爛豪華と表現するに相応しい様相だった。
 半ば、呆然とした様子で、貴婦人の一方がそれを見上げていると、もう一方が背中を突く。
「そんな田舎者の顔しないでちょうだいよ、ルーティ」
 柔らかな亜麻色の巻き毛を丁寧に直し、彼女はこの日のために新調した、薄紫のレースが付いたドレスの裾を翻して先を行く。仕方なく、ルーティと呼ばれた貴婦人もその後ろに従った。
 何故、こんなことになったのか。ルーティ、もといルーテシアは溜息を禁じ得ない。
 眼前を歩くシシが、彼女の前に現れたのは久方ぶりのことだった。今はストレシアの若い貴族と契約しているという彼女は、以前会った時よりも快活で、幸福そうな顔をしていた。ルーテシアは、我が事ながら嬉しく思う。
 けれど、こんなところまで連れてこられるなんて、全く想像しなかったである。



 986年白月、ストレシア王都サルヴァ。
「まだ契約の一つもしていないの?」
 シシは、実に意外そうに言った。
 彼女は、人族と契約していない時期がないくらい、他者に依存して生きている女だった。悪いとは思わない。そういう生き方もあり、それは、ルーテシアにはできないやり方だった。
 胸ぐらの開いた空色のドレスは、彼女にとてもよく似合うし、ネックレスも指輪も、化粧の仕方一つをとっても、立派な貴婦人に見える。
 一方のルーテシアは、ストレシアの王都サルヴァの片隅で、井戸の水をくみ上げていた。革のスカートは砂に汚れていたが、乾燥した気候のため、汚れなどすぐにとれてしまう。そんなことも気に留めず、ましてや紅一つ指したことのないような乾燥した唇をしていた。
 つまり、そう言うことなのである。同族とは言え、趣味嗜好によって、愕然とするような差が出来る。対比としては、これほど分かりやすいものはない。
 ルーテシアは、知古の老婆から借り受けた家屋に、シシを招き入れた。
 サルヴァでは、下級に位置する建物だ。
「よくこんなところに住めるわね」
 心の底からの言葉のようだ。
 だが、シシに悪意はない。だからルーテシアも微笑み返す。
「住めるわよ。この方が気楽だもの」
「ふうん……奇特ね」
「ええ、私もそう思うわ」
 ルーテシアは、ポットからお湯を注ぐ。ストレシアでは日常的に飲まれているキュアだ。キュアを嗜好する性質は、貴族平民の差などない。
 シシは、手入れの行き届いた亜麻色の髪をかき上げる。艶めかしい仕草なのだろうが、今朝方から続く黄砂のせいか、指先が毛先に絡まってしまう。忌々しげに振り解き、キュアの入ったカップに手を伸ばした。
 深緑の眼差しが、カップの上からルーテシアを窺う。
「ルーは、暇?」
 唐突な質問だが、ルーテシアも少し考えて、
「暇よ」
 と唐突に答えた。
「じゃあ、私の旅に付き合わない? 来年の紅月に出発するのだけど」
「旅ねぇ。どこまで行くの?」
「ラジアハンド」
 そこまで聞いて、ルーテシアはぴんと来た。
 紅月の時期に、わざわざ貴族の夫人がラジアハンドへ向かう理由。ましてや、目の前に座る彼女は、無類の舞踏会好きだ。
 大方、夫のヨハルにおねだりでもしたのだろう。
「一緒に行ってよ、ルー。旅の支度も、ドレスも全部、私が用意するわ。ねっ?」
 そして、今度は旅の同伴をルーテシアにおねだりし始める。
 ルーテシアはしばし思案気を装う。確かに、用事があるわけでもない。シシとは違い、ルーテシアは契約というものを好まない。縛られるのが嫌なのだ。ルーテシアには、彼女なりの嗜好があり、それを極めることに心を費やしていることが、至上の幸福なのだ。
 そういえば、研究途中の薬品が残っている。
「止めるわ。やりたいことあるの」
 途端、シシはにやりと笑う。お見通しだと言わんばかりの微笑みだ。
「薬草の買い付けする時間くらい、あるわよ?」
「……う」
「ラジアハンドの王都ですもの。ストレシアでは見られない薬草も、たくさんあるでしょうねぇ」
「……うう」
 貴婦人にあるまじき微笑をたたえるシシは、留めとばかりに最後の切り札を切った。
「代金は全部、ヨハル持ちよ」
「行くわ」
「そう来なくちゃ!」
 シシは意気揚々と立ち上がると、ルーテシアの腕を掴んだまま、あばら屋を後にした。
 それから半年ばかり、ルーテシアにとっては地獄のような日々が始まるのだ。



 華奢な硝子細工を組み合わせたシャンデリアを見上げて、ルーテシアは何度目かの溜息を吐いた。
 そうしていると、どこからかシシが近寄ってきては、背後から叱咤する。
「背筋は伸ばして、顎は引く。下を向いては駄目よ。表情は、あくまで優雅に笑顔。ただ、やたら男に愛想振りまいちゃ駄目。溜息を吐くなら、扇で隠してからね」
 そう言うシシは完璧だ。
 だが、ルーテシアのそれは、半年ばかりの付け焼き刃だ。いつボロが出てもおかしくはない。頭痛が起こるような気がして、ルーテシアは再び溜息を吐く。そして、慌てて扇を持ち上げた。
 貴族とは面倒なものだとつくづく思う。
 けれど、薬草の買い付けのためだ。昨日レンズに到着してから、ルーテシアは城下町の雑貨屋を少しだけ巡った。それだけでも、涙が出そうなほど豊富な薬草を見つけたのだ。薬草と言えば、住居のあるサルヴァでの買い付けか、アスリースの森で採取することしかしてこなかったルーテシアにとっては、この街は魅力に溢れていたのである。
 そんな感動も、シシにかかってしまえば、「なんで今まで買い付けに出掛けたりしなかったの? 勿体ないわね」と一蹴されてしまうのだが。
 明日には、一日好きに買い物していいと言われ、ルーテシアはその代償としてこの舞会に留まっている。
 顔見知りの貴婦人に囲まれて、シシが優雅に微笑んでいる。
 彼女が社交界入りしたのは、二年前のことだったか。当時、花嫁探しに苦悩していたアルスター候ヨハルにとって異種族であったシシは、その美貌と才気と特質から、ヨハルに求められ、それに応じたのだ。当時の彼の年は、二十を過ぎたばかりか。十五年という期間を定めて、シシはヨハルの妻の役割を受けた。そして、ドレスやら、舞踏会やらが大好きな彼女の欲求を満たすことが、シシが出した条件でもあった。
 旅は道連れとは、よく言ったと思う。
 ルーテシアも、そんなシシの欲求を叶えるために同行したのだ。薬草の買い付けという条件の下で。
「失敗だったかしら……」
 扇で口元を隠し、ルーテシアはそっと人の波から離れる。
 人混みは苦手だ。意識しなくても、他者の感情が入り込んでくる。陰謀渦巻く舞会は、ルーテシアのような素朴さが取り柄の女にとって、苦痛以外の何者にもなり得ない。
 幾つかあるバルコニーの一つに、人影がないことを確認し、ルーテシアはカーテンの陰に隠れてそっと避難した。ラブアフェアを好む貴族の坊やに捕まった日には、どうなるか目に見えていたからだ。
 人族なんて興味はない。
 ましてや貴族なんて。
 ルーテシアは夜気に頬をさらして、ようやく人心地ついた。
「早く帰りたいな……」
「同感ですね」
 若い男の声だ。ルーテシアはぎょっとして振り返った。しかし、光の洪水となっている舞踏の輪が見えるだけだ。誰かに付けられたというわけではないらしい。
 ルーテシアは周囲を見回す。
 そして、ようやく先客の存在に気付いた。バルコニーの端、影の中に男が立っていたのだ。
「ごめんなさい、先にいらしたのですね」
 そう言って、ルーテシアは踵を返そうとした。けれど、男は少し苦笑して、ルーテシアを引き留める。
「ご婦人に悪さをする輩ではありませんから、ご心配なく。こういう華やかな集まりは苦手で、隠れていただけですよ。だからといって、欠席出来るほどの度胸もなくてね」
「あ、あの……私は」
「あなたも同じなのでしょう? 話し相手になってもらえますか? こうして隠れたはいいけれど、案外退屈なものですよ、一人というのは」
 すっかり困惑している貴婦人を目の前にして、男は笑声を漏らした。
 そうして、影から半身を現す。
 赤茶色の髪に、焦げ茶色の眼差し。ラジアハンドの文官の正式な装束に身を固めて、肩を竦め、微笑している。
 ルーテシアは、足を縫い取られたような気がした。
 猫のような目が印象的だった。
「ね、怪しい者ではないでしょう?」
 そう言って、猫の目を細めて、微笑を深くする。
 彼の周囲が、まるで日溜まりのようだと思った。精霊妖精などに好かれる空気を、生まれながら持っている人族がいると聞いたことがある。だが、ルーテシアはそんな人物に会ったことはなかった。会えば分かるからと、経験者であるシシが言っていたことを改めて思い出す。
 無条件に惹き付けられる性質。
 理由はない。ただ、甘く蠱惑的な匂いがして、ルーテシアの意識を惑わせるのだ。ただ、彼がそこに立ち、存在しているだけで惹かれる。存在しているだけで、そばにいたいと思わせる。
 目眩がする。
 そのまま跪いてしまいたい衝動にかられて、ルーテシアは思わず膝を折った。
「え、どうしたんですか?」
 彼もまた膝を折り、ルーテシアの手を取った。
 手袋をしているのがもどかしかった。こんな邪魔なドレスも脱ぎ捨て、天涯の誓いを告げてしまいたかった。
 だが、それを留めたのは彼自身だった。
「冷たい物でもお持ちしましょう」
 彼は踵を返し、光の中に消えていく。
 この喪失感は何なのだろう。ルーテシアは虚空を見つめて、呆然とする。こんな出会いがあるだろうか。ルーテシアは、バルコニーの手摺りに手をかけ、深く深く溜息を吐いた。
 途端、背後に気配を感じて振り返る。
「まあ、如何なされました?」
 煌めく桃色のドレス、少女らしいレースで覆われた貴婦人が、そこに立っていた。甘い香水の匂いが鼻につく。年の頃は、十五か。
「そのように病弱を装い、あの方の気を引こうだなんて、おこがましいにも程がありますわよ」
 憎悪にも似た感情が、ルーテシアに覆い被さる。
 悲鳴をあげそうになったが、それは辛うじて飲み込んだ。ルーテシアは、逆光の中の少女を見上げる。
「あの方は、わたくしの夫になる方ですの。あなたのような素性の知れぬ女など、声をかけて良い方ではありませんのよ」
「あなたは……?」
 少女の表情は見えない。だが、その仕草から見れば、彼女の口元が愉悦に歪んでいるだろうと予想出来た。
「わたくしは、ジュリア・テールベルト。ラジアハンド王国当代外交副官テールベルト子爵の娘ですの。そういうあなたは、どこのどなたなのかしら」
「……私は」
 ルーテシアが言い淀んだ瞬間、薄紫のドレスの裾が視界に広がった。
 落ち着くこの気配は、シシ。
「あら、ストレシアのアルスター候夫人をご存じなくって? ジュリアさん」
「……まあ」
「この者は、わたくしの姉ですの。何か失礼でも致しました?」
 ジュリアは、まじまじとシシを見つめる。
 どうやら、シシの正体すら疑っているらしかった。だが、シシの手にある扇の袂には、アルスター家の紋章が施されている。それも、アルスター家の正夫人に許される特別な紋章だ。ジュリアはそれを見留て、少し口角を下げた。
「いいえ、何も。ただ泥棒猫が、美味なる果実を狙っておいででしたので、注意して差し上げたまでですわ、侯爵夫人」
 ジュリアは忌々しげに言い放ち、さっさと踵を返した。
 その姿が雑踏に隠れてしまうまで見送ると、シシはくるっと振り返って屈み込んだ。
「大丈夫? 急に気配が消えるんだもの。驚いたわよ」
「ごめんなさい……」
「そしたら、あの小娘に因縁つけられてるでしょ? もう腹が立って飛び出して来ちゃったわ」
 シシは、可愛らしい笑みを浮かべる。そして、赤い舌を出して、
「喧嘩早くて参るわ、この性格。思わず、ルーを姉なんて嘯いちゃったわよ」
「逆でしょう?」
 明らかにシシよりも年長に見えるルーテシアは、ようやく微笑することが出来た。
 動悸は収まりつつある。深呼吸を繰り返し、夜気を思いっきり吸い込むと、ようやく落ち着くことが出来た。
 シシは、ちらりと視線だけ振り返る。
 その視線の先には、先ほどの少女が数名の貴族の男に囲まれていた。
「彼女ね、近くステンダーに嫁入りするらしいわ。そのせいで、急に周りが構いだしたのだから、気が大きくなっているのね。所詮、子爵の娘だもの。大した器じゃないわね」
「ステンダーって……あのステンダー領王家?」
 シシの手を借りて身を起こすと、彼女の腕の中で、貴婦人とは思えない表情でにやりと笑って見せた。
「知っているなんて、意外だわ。薬草にしか興味がないと思ってた」
「あそこで採れる鉱物が、珍しくて探していたのよ」
 あら、そう。と、半ば呆れたように答えて、シシは続けて説明する。
「当代ステンダー領王といえば、王の知己だし、そもそもステンダー家って名門中の名門でしょう? その一族に入れるのだもの、舞い上がるでしょうね。領王の孫で、その上次男とは言え、名誉には変わりないわ。確か、その次男は……ウェイン・ステンダーって言ったかしら」
 ルーテシアの脳裏に、先ほどの文官が浮かび上がる。
 彼の襟元にあった紋章は、どこかで見たことがある物と重なる。
「もしかして、その次男って、文官じゃないの?」
「もしかして、ジュリアがいたのって、その男が絡んでいるんじゃないの?」
 二人はほぼ同時に声を上げた。
 そして、互いの驚愕の様子をまじまじと見合ってから、苦笑する。
「へえ、珍しいわね。ルーが男に興味を持つなんて」
 シシは、豪奢な扇をヒラヒラと振り、口元にわき上がる笑みを隠そうとしている。
 ルーテシアが人族に興味を持った。それも男。次に、誰か兄姉弟妹に会えたなら、絶対に言い触らしてやろうと思いながら、シシはすぐ下の妹を見つめる。
 だが、事態はそれほど簡単なものじゃないらしい。
 余りに深刻な表情をたたえたルーテシアに、シシが驚いてしまったほどだ。
「興味なんてものじゃないわ……出来れば、もう会いたくない」
 余程嫌なことがあったのだろうと、シシは解釈した。
 だが、次の瞬間、ルーテシアの栗色の大きな瞳から、暖かな滴がこぼれ落ちてしまい、シシは仰天する。気が強くはないが、芯のしっかりしたルーテシアの涙など、生まれてこの方見たことない。
 ルーテシアは、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす。
「シシ、こんなのって、ないわ……」
 泣きながら、自分よりも小さなシシにしがみつき、ルーテシアは泣き続ける。
「私がいなくなりそう……怖くて、怖くて仕方ないの。これじゃあ、もう会えないわ」
 泣きじゃくるルーテシアの背を撫でて、シシは彼女の手を取ってバルコニーを離れた。もうしばらくすれば、ステンダー領王の孫は戻ってくるだろう。誰もいないバルコニーで、彼は何を思うのか、シシに想像することは出来ない。
 どうせならば巡り合わせてあげたかった。ルーテシアが泣きじゃくるほどの男だ、彼女たちのような種族には、最良の伴侶になるだろう。けれど、当のルーテシアが嫌がるのだ。人族に慣れていない上に、契約などしたことのないルーテシアにとっては、歓喜と共に、常に苦痛に苛まれることになるだろう。
 もう二度と出会わないことが、ルーテシアのためなのだと、シシはそう信じていた。
 恋などいう言葉で片づけられないのだから。
 彼女たちのような、精霊王の子供たち、いわゆる契約型精霊たちにとっては。




 996年紅月終わり頃。
 ■2■ 

 ルーテシアは、ステンダーの地を踏んだ。そのつもりはなかったと、今更言っても仕方ないだろう。事実、彼女はステンダー領に足を踏み入れたのだ、目的は何であれ。
 話は数日前に遡る。
 相変わらず、アルスター侯爵夫人ごっこに心血を注いでいるシシから、突然連絡があったのだ。
 ラジアハンド王国ステンダー領に異変あり、と。
 アルスター侯爵経由の情報では、どうやら疫病が発生し、正式にステンダー領の封鎖が決定したという話だった。封鎖の決定は、国王の命によるもので覆せるはずもない。それほどの緊急事態なのだと、各国が震撼したのは言うまでもない。ここ、ストレシアでもまことしやかな噂が流れつつあり、王宮は浮き足だった雰囲気さえ見せていた。
 ラジアハンド王国と言えば、王家と、ステンダー領王家という歯車は欠くことの出来ないものだ。けれど、王は決断した。
 シシは、血相を変えてあばら屋を訪れた。
 そして、ルーテシアに、ステンダー領の訪問を勧めた。彼女たちにかかる疫病など存在していない。疫神など恐るに足らないのだから、ステンダー領を訪ねることは不可能ではない。封鎖されていようと、そんなことすら関係ない。
 けれど、疫神の猛威より、国王による封鎖命令より、ルーテシアは恐ろしいものがあった。九年間、瞼の内側に焼き付いたままの、あの眼差し。あの男と再会するのが怖かった。それなのに、ルーテシアがステンダー領を訪れるに至ったまでには、幾つかの経緯がある。
 まずは、シシの夫、アルスター侯ヨハルからの依頼であった。ヨハルのかつて乳母が、今はステンダーにいるというのだ。彼女はそもそもラジアハンドの人間で、ヨハルの結婚を機に祖国へ帰った。その彼女が、ステンダーの変事に巻き込まれているという。
「あの人ももう年だから、助からないかもしれない。ただ、これを渡して欲しいんだ」
 ヨハルはもう、三十歳を越えている。だが、多少の貫禄が増えたことを除けば、シシと出会った頃と変わらない眼差しをしていた。
 その彼が、ルーテシアに預けたものは木彫りの人形だった。掌に収まる程度の、小さな天使の人形。それが、ラジアハンドの守護天使ラミスサイヤを象ったものだとは、言われるまで気がつかなかった。それほど、その人形は擦り切れ、汚れていたのだ。子供が長く握り締めていたのだろう、ちょうど子供の手程のくぼみがあった。
 彼からの伝言を言付かった上で、ストレシア宮廷から使者が来た。
 曰く、疫病のかからない特異体質の薬師に、ぜひステンダー領の様子を探って欲しい、とのことだった。これは、非公式の事柄である。中に入るまでもなく、周辺の様子だけでも構わないからと。返事をする前に大量の謝礼品が送られてきて、断る機会を逸してしまったのだ。
 更に、躊躇うルーテシアの背中を押したのは、シシの言葉だった。
「会いたくても、会えなくなるかもしれないのよ?」
 そう、会いたくないと言っているうちはいい。生きているから、いいのだ。
 けれど死んでしまったならば。
 会いたくなっても会えない。
「何のために精霊に生まれたのよ。こういう時ぐらい、精霊であることを感謝なさい。出来るものなら、天涯の契約でもして連れ出してしまえばいいわ」
 天涯の契約。
 契約型精霊と、他種族の間に交わされる生涯の契約。それを持ってすれば、疫神など恐れる必要もない。
 ルーテシアは、幾つかの後押しのもとで、ステンダー領を訪ねる。
 但し、正規のルートは取らなかった。
 ステンダー領王家の所有する家から少し離れた集落に忍び込んだのだ。
 人々は疫病の恐怖に戦いていたので、ルーテシアの薬師としての知識を知り、諸手を開いて受け入れた。もちろん、山道と世情に不案内な若い薬師が、道を誤って迷い込んでしまった、ということで処理された。
 ルーテシアの存在が領王家に知れて、二日も経つと、ストーク村からの誘いがあった。曰く、ストーク村の家屋を貸し与えるので、疫病に対抗出来る診療所をやってくれというものだった。ルーテシアは快諾する。そもそも、彼女の嗜好は、薬品の開発にあった。その上で、領王家に近づければ幸運としか言いようがない。
 けれど、まだ会わない。
 会えない。
 ここまで来ていながら、ルーテシアは尻込みをしていた。会えば、跪かずにはいられない。跪けば、天涯の誓約を口にしてしまう。まだ決意は出来ない。
 そうしているうちに、一週間が過ぎた。



 病はゆっくりと、だが、確実に広範囲に渡って蔓延している。領民の嘆きが、彼女の躊躇いを助長させる。領主の館を訪ねることは可能だ。だが、苦しみ抜く領民の眼差しは、ルーテシアを留めるには充分だった。
 ルーテシアは、決して病に冒されない自らの身を恨んだ。
 日々、人が死んでいく場所が、戦場以外にもあり得るなど、ルーテシアは知らなかった。だが、哀悼、同情などの感情すら持てない。ただ、縋り付く手を振りほどけない、我が身の本能を恨んだ。
 人が死ぬ。
 ドワーフが死ぬ。
 貧富の差も、地位も関係のない、そこには生きる者の終着点となる「死」が待ち受けているだけなのだ。
 ヨハルのかつての乳母ですら、ルーテシアの訪問を待てずにこの世を去った。彼女の墓所に託されていた物を掲げて、ヨハルの悲嘆を思い出して胸が痛んだ。
 そうしている内に、顔見知りは増え、引き留める手も増える。
 ルーテシアは、連日、請われるままに往診を続けていた。
 治らない疫病。徐々に弱っていく人々の姿を見つめ、ルーテシアは諦めかけていた。もう打つ手はないのだと。いくら特効薬を模索しても、間に合わず、事足りず、この村は死ぬのだと。
「まだ、いいか?」
 午前の診療を終えたばかりのルーテシアに、男の声がカーテン越しに聞こえた。
「ええ、どうぞ」
 診療を終え、ちょうど白衣をクローゼットに掛けたところだった。ルーテシアは、大分汚れてきた白衣を着直す。そして、やはりこちらもうっすらと汚れているカーテンから、そっと頭だけを出した。
 男が立っていた。若い男だ。まだ疫病にはかかっていない、健康的な顔をしている。特別に鍛えられた体躯というわけでもないが、だからといって一般人の風体にも見えない。第一、着ているものは簡素だが、滲み出る気品があった。
(……ウェイン・ステンダー……)
 間違えようもない、あの夜から九年の歳月が流れた。痩せた頬が、彼に大人の男らしい精悍さを与えている。けれども、滲み出るものは、寸分変わらない。
 あの眼差しがある。
 目の前にある。
「えーと、ここ、いいかな?」
 今度は、遠慮がちに尋ねてきた。視線の先には、木製の寝台がある。
 ルーテシアは伏し目がちに答える。せめて声が震えないようにと祈りながら。
「あなたには、……必要ないと、思われますけれど?」
「ああ、俺じゃなくて、この子に」
 ルーテシアは視線を伏せたままウェインに駆け寄り、その腕の中の少女を覗きこんだ。
 頬が上気していて、呼吸もかなり荒い。疫病の初期症状だ。まだ幼い少女は、この高熱に耐えられるだろうか。
 ウェインが、腕の中から少女を降ろす。ルーテシアは彼らに背を向けたまま、薬棚に向いた。解熱作用のある薬草はまだある。ただ、どれも強すぎる。子供の身体では耐えられないかもしれない。子供用に用意した薬草は、午前中の診療で底を付いてしまった。裏の畑に行って採ってこなければならない。
 ルーテシアは振り返り、途端、ウェインと目が合った。
 ばれてしまったと思った。あの夜、目の前から消えた女だと、気付かれてしまったと。
 けれど、ただ不安げな焦げ茶色の眼差しだけが、ルーテシアを捕らえている。まるで捨てられた犬のように。
 そう言えば、あの奇跡のような瞬間は、たった一時なのだ。
 ルーテシアにとっては、代え難い出会いだけれど、彼にとっては記憶の端にも残らないものだったのだろう。
 途端、肩から力が抜け落ちた。
 考えてもみれば、覚えているはずもない。九年も前の、二言ばかり会話した婦人のことなど。彼は貴族だ。ドレスに身を包んだ女たちを飽きるほど見ているのだろう。とりわけ特徴的ではないルーテシアのことなど、覚えていないに決まっている。
 ルーテシアは、ようやく冷静さを取り戻す。
「大丈夫です。薬ならすぐに用意致しますから。えーと、この子のご家族は?」
「あ、いや……、そこで倒れていて」
「そう。じゃあ、薬を飲ませたら、両親を捜さなくてはいけませんね」
 その両親が生きていればの話だけれど。
 ルーテシアは白衣の裾を翻して、裏口から出ていく。
 背中に、ウェインの視線が張り付いていた。



 年はもう三十歳そこそこだろうか。茶色い前髪が少し長いなと思う。少しだけ伸びている後ろ髪は軽く留めてあった。無精、とまではいかないが、自分に手間をかけるのが面倒なのだろう。そういう男を、ルーテシアは幾人か知っている。
 かつて見た時の、若さ故の無邪気さは掻き消えていた。その分、大人の余裕すら感じさせる口元が印象を残す。痩せた頬と、不安げな瞳の色が甦った。
 ルーテシアは、ここにやってきてから植えた薬草を摘みながら、ウェインの横顔を思い出す。あの男だという直感は、未だ絶えることはない。跪かずに済んだのは、領内に入ってから意識していたせいだろう。それでも、動悸は早鐘のように打ち、冷や汗すら出てきていた。
 手早く薬草を摘み終えて、彼女は裏口から診療所に戻った。
「リマ! リマちゃん、しっかりして」
 今度は女の声がする。ルーテシアは薬草を握りしめて診療室を覗きこんだ。
 ウェインは壁側に追いやられている。寝台の端には中年の女が座り込んで、悲鳴に近い声音で少女に呼びかけ続けていた。
 その後ろ姿に見覚えがあった。
「あなたの娘さんでしたか、テナーさん」
「ルー先生、とうとうこの子も疫病にかかっちゃったわ。テトも、セーラも死んでしまったの。この子がいなくなったら、もう生きてる意味もないわ。先生、お願いだからこの子を助けてちょうだい!」
 母親の泣き声に、ルーテシアはつい先週まで診察していた彼女の二人の子供の姿を思い出していた。あの二人も死んでしまったのか。
 感慨はない。ただ、胸の奥から悲しみが沸き出しては、流れ落ちていくだけだ。ルーテシアの心に留められる悲しみは、いまだ存在しない。
「解熱剤を用意しますから。あとはきちんと食べさせてください。体力がなければ、あっと言う間に病に負けてしまいますからね。栄養のある薬草も一緒にお渡ししますので」
 ルーテシアは机に向かう。
 疫病に効く特効薬は、まだ見つからない。効果があるのは解熱剤ぐらいだ。疫病は熱から始まる。初期に抑えられれば、治る見込みがないわけではない。ただ、リマのような幼子には耐えられるかどかが心配だ。
 いつでもいらしてくださいと、ルーテシアの言葉に大きく頷き、テナー夫人は娘を背負って帰っていった。その後ろ姿は疲れ切っている。
 この村自体が、もう疲れ切っていた。長くは持たないだろうと、傍観者であるルーテシアは思っている。
 いつ、この微妙な均衡か崩れるのかが予測できない今、ルーテシアはこの場を離れるつもりはなかった。救えるとは思わない。だが、心の慰めにはなれるだろうと、甘く考えていたせいもあった。
「あの……」
 ウェインの声がして、ルーテシアは落としていた肩を慌てて戻す。
 そして、彼の方に向いた。まだいたのかと言わんばかりの驚愕の表情に、ウェインは苦笑せざるを得ない。実の所、彼に声をかけられたことに驚いていただけなのだが。
「すみませんね、お昼時に押し掛けてきて」
 ウェインはそう言って、鼻の頭を掻いた。
「えーと、……まさかこんなに若いとは思ってなくて、ちょっと驚いて」
「私が、ですか?」
「ええ。弟に頼まれて、医者を捜しに来たんですけど、同行していただけませんか? 昼食は当家で用意致しますので」
 ルーテシアは、怪訝そうに首をひねった。
 すると、ウェインも同様に怪訝そうに顔をした。だが、すぐに思い当たり、にこりと破願してみせた。
「失礼。俺の名前はウェイン・ステンダー。ちなみに医者を捜して欲しいっていうのは、俺の弟のクラウスなんだけれど。知ってる?」
 知ってるも何も。
 ルーテシアは、喉からせり上がってきた言葉を飲み込む。あなたに会いに来たのだと、言い出してしまいそうで怖かった。
 けれど、ウェインは一向に気付かない様子で、
「急ぎでね。驚いている暇なんてないんだよ、正直」
 そう言うや否や、ルーテシアの細い手首を掴んで引っ張る。
「ちょっと待って!」
 ルーテシアは言葉をきつくして言い、ウェインの手を振り払った。
 肩を落とす大の男に背を向けて、ルーテシアは机の上にある薬品をかき集めた。そして、机の下にある大きな革鞄を引っ張り出した。ルーテシアは、その中に綺麗に薬品を詰めていく。更に薬品棚からも取り出して詰める。
 最後に、白い紙に「急用により休診とさせていただきます」と綺麗な字で書いて、それを表のドアに貼り付ける。鞄を取りに室内に戻ろうとすると、ウェインが大きな医療鞄を抱えて立っていた。
「さすが医者だね。ステンダーの名で我を失わないところが、信用に足るよ」
「私は医者じゃないの、薬師よ」
 そう言い放つルーテシアに、ウェインは軽く目を見張る。怒らしてしまったと思ったのだろう。けれど、そうではなかった。
 それは、ルーテシアの上気した頬を見れば一目瞭然だ。
 だが、残念なことに、ウェインの目線からはそれが見えない。
「早く案内して。行くんでしょう?」
 ルーテシアは、焦れたようにウェインの二の腕を叩いた。
 彼の姿を見たことで、安堵が心の中に広がる。そして、彼の助けになればいいと思った。その上で正体を明かそう。ウェインが、あの舞会の夜のことを思い出すまで、待っていようと決意した。
 ルーテシアは、こうしてストーク村の診療所を離れた。



 それから数刻後のことだった。
 後に、辛うじて疫の難から逃れたステンダー家の関係者が、心を痛め続けることになるであろう、あの事件が起きたのは。
 白子の赤子の泣き声が、広場にけたたましく響く。その傍らの女性は泣き叫び続け、燃えさかる炎に包まれて、しばらくは哀願にも似た悲痛な叫びをあげていたが、間もなく死んだ。母親の必死の嘆願も受け入れられず、村人たちによって赤子も殺された。
 普段ならば善良とされる領民の、狂気の集会が行われていたのだ。
 まるで、疫病で死にゆく者の、最後の足掻きのようだった。誰一人として、白子の母子が災厄の種だと心底信じていたわけではなかった。だが、誰かに罪を押しつけなければ、生きていけなかったのだろう。病の冒された身体だけでなく、その心も。
 善良だったはずの村人が歓喜の叫びを上げている。
 悪魔の使いを滅ぼした、と。
 神の罰は下された、と。
 幾人もの声が重なり、それは狂乱に変わる。
 その中に、つい先ほどルーテシアの元から帰っていったテナー夫人と、彼女に背負われたリマの姿もあった。狂気に叫ぶ母の背で、幼子の吐息は小さくなるばかりだった。
 この悲劇は、後の世にも語り継がれることとなる。



 領主の館の門前には、村人たちが殺到していた。
 誰しも、恐怖に駆られて青白い顔をしている。混乱は極みまで来つつあった。だが、ここにはまだ領主がいる。領民たちが主と崇める一族がいる。
「逃げないのね、ステンダー家は」
 ルーテシアは何の感慨もなく言った。
 言ってから、失言だったと悔やんだ。領民が主として慕う一族なのだから、それなりの覚悟が出来ているのだろうと、前々から想像していたというのに。
 恐る恐る見上げてみれば、ウェインは少しだけ困惑げに眉を寄せている。
「ごめんなさい……」
 思わず口から出た謝罪に、領主の次男は笑みを浮かべる。
「気にはしないよ。これでも貴族だからね。領民を守るのは役目だから、逃げるわけにはいかないだけだ。逃げ出したら、ステンダー家は領主でなくなる。ただ、それだけ」
「罷免されたわけでもないのに?」
 意外そうな女の返答に、領主の一族の子は更に意外そうに目を見張った。
 そして、柔らかく破願する。
「貴族の宿命というものがあるんだよ。民草は、仕事に就き、生活の糧を稼ぐ。その中から税という形で、領主に支払う。それは、領主が領内の民を守るからだ。その報酬と言ってもいい。貴族は必ずといっていい程、自領を持つけれど、それは王に忠義を尽くすことと同じだ。王を守護するように、領民の危機を救えなければ、領主に価値はない」
「だから逃げないのね。けれど、領主一族が全滅してしまったどうするの? 領民のすがるべき手はないわ」
 ルーテシアは、感慨もない。
 人が死ぬ。貴族も平民も、種族も関係ない。ただ病で人が死ぬ。
 自分たちだけ生き延びれると思ったのなら、それこそ大きな間違いだろう。人は死ぬのだから。それも、ずいぶんと呆気なく。
 ウェインはまた困惑気な表情に戻った。答えるべきかと思い悩んでいるようだ。
 ルーテシアは所詮、部外者である。込み入った貴族の事情など推し量る術はない。何しろ、彼女自身がヒトではないのだから。
 二人は肩を並べたまま、簡素に整えられた廊下を進む。
 疲労を隠しきれない使用人たちと、何度かすれ違った。この屋敷も病んでいる。生気のない顔ばかりが並び、鬱々とした気分にすらなる。
 突き当たった部屋の扉に、銀細工の花が飾られていた。ウェインはその扉を示し、自らが先立ってノックをする。室内から弱々しい声が聞こえた。女の声で、応と答える。
「どうぞ、薬師殿」
 ウェインが小さな声でそう言い、扉を開いた。
 広い部屋。薄紫色のカーテンが目に飛び込んできた。風に揺れているその下に、豪奢な寝台に横たわった女がいた。
 彼女の噂は聞いている。ステンダー領王太子ユーサーの三男にして、ラジアハンド王国正規騎士団の軍団長クラウス・ステンダーの夫人。線の細いたおやかな美女だということを、村の農婦たちが口々に言い合っていた。確かに、その言葉に間違いはない。
 ただ、死の色が濃い。
「お越し頂いて、申し訳ないわ」
 夫人は半身を起こした。慌てて侍女が、女主人の背に手を貸す。
 亜麻色の柔らかそうな髪が揺れ、音もなく肩に掛かる。
「この村にいるお医者など、がさつな男ばかり。大事な奥様をお見せするわけには参りませんもの」
 傍らにいた若い侍女が、憤慨したように言い放つ。
「お客様の前で、そんな詮のないことを言うものではありませんよ、リーシャ」
「いいえ、奥様。いくらラジアハンドの名家とはいえ、こんな村に住まうのでは品などとは無縁でございましょう。ましてや、ドワーフなどと交流があるだなんて、恐ろしい一族ですわ。奥様の大事な御身、わたしは心配なのでございます」
 どうやら、彼女は夫人の生家から連れ添った侍女らしかった。血気盛んなところはまだ幼い。
 夫人は困ったような笑みを浮かべる。
 そして、それに答えたようにルーテシアも少し笑んだ。
 確かに、ラジアハンド王国の名家とは言え、ステンダー領王家は多少異質なのかもしれない。独特の雰囲気が、他国の者を圧倒するのだ。それは土地柄でもあり、そこに住まう人柄でもあるだろう。ドワーフと共生する村など、そうあるものではない。
 侍女は大袈裟に溜息を吐いて、その幼い顔を上げた。
 途端、視界の中央に困惑気な男の笑みと出会ってしまった。
「あ……申し訳……ありません、失言でございました、ウェイン様」
 侍女は恐縮して、慌てて平伏する。
「うん、構わない。頭を上げなさい」
 ステンダー家の青年は、朗らかな笑みを浮かべていた。その空々しさが一層恐ろしかった。夫人も申し訳なさそうに侍女を退室させた。
「失礼いたしましたね、薬師殿。わたくしの名は、ニナ・ヴィンチ・ステンダー。領王太子ユーサー・ステンダーの三男クラウスの妻にございます」
「ルーティと申します。お呼び頂き、光栄でございますわ」
 ルーテシアは優雅に微笑む。
 九年前に覚えたきりの貴族の礼など知らない。だが、生来の性というものがあるのだ。ルーテシアの優雅な仕草は、一般庶民のものとはかけ離れている。
 ニナは、それを見て安堵した。
 どこの素性とも知れない薬師を招くことには、些か抵抗があったのだ。故に、義兄のウェインに頼み込んでしまったのだ。文官として経験の長い彼ならば、人を見る目もあるだろうと思ったからだ。そもそも夫に頼むなど問題外だった。彼女なりのプライドもある。生粋の貴族の娘であるニナにとっては、素性の知れない者に看させるなど、侮辱のような気がしていたからだ。ところが、そんな貴族の娘の誇りすら、ウェインには一蹴されてしまったのである。
「生き死にに、生まれの貴賤は関係ない」
 そう言いきった。彼にしか頼めない、ニナはそう思った。
 だが、それも杞憂に終わったらしい。
 眼前に頭を垂れる女は、決して卑しい出ではない。
「お義兄様の見る目は、やはり間違いではございませんね。お願いして良かったわ」
 涼やかな目元が、微笑に細められた。空色の頼りなさ気な瞳が、彼女を妙に聡く見せた。義兄、と呼びながらも、彼女の方が幾ばくか年嵩のように思える。
 一方、ウェインは困惑げに微笑を返す。
「申し訳ないね。俺はただ彼女を連れてきただけだよ、ニナ。ご希望に添えられるかどうかは、まだ、いまいち」
 言葉尻は曖昧だが、その目を見れば悪戯を考えている子供のようだ。
 試されている。ルーテシアは少しだけ緊張した。長く下級の暮らしだったせいか、貴種の会話にもの慣れていない。
 それでは、とニナが居住まいを正すと、ルーテシアは唇をきゅっと引き締めた。
「看て頂きたいのは、わたくしと、わたくしの娘ですの。リーシャ、いるわね」
 女主人の声に、一端隣室へ下がっていた侍女が、可愛らしい赤子を抱いて戻ってくる。
 栗色の髪、茶色い瞳の女児。穏やかな様子で寝入っている。だが、その顔は明らかに上気している。発熱している、ルーテシアは慌てて赤子を覗き込んだ。
「な、何をなさいます!」
 ルーテシアが、赤子を奪うように抱きかかえたので、リーシャは悲鳴をあげる。
 しかし、それも女主人に制止された。
 薬師は気付いていた。いや、それとも彼女の性質からだろうか。赤子の吐息は余りにも小さい。
「奥方様。はっきり申しましょう。御子の容態は尋常ではございません」
 絞り出された悲痛な声は、やはり、と答えた。
「先日から熱が出て、ろくに乳も含みません。乳母も昨日、疫に冒され亡くなりましたの。もしや、乳母やの病が移ったのでしょうか」
「出所は、この際関係ありません。リーシャさん、お湯を用意してください。それと、御子の服を替えてください。そうですね……清潔な布でくるんで頂ければ結構です。あと、日当たりの良い部屋を整えていただけますか? 出来れば、余り出入りの少ない場所で」
 最後の言葉は、壁際にいたウェインに向けられた。
「ここは、クラウスの使っている離れでね、先の廊下を越えなければ、好きに使えばいい。あいつには伝えておこう。どうせ、こちらには来られまい」
 ルーテシアは、赤子をリーシャに手渡して、ふとステンダー家の二人を見比べた。
 絶望の色は濃い。
 クラウスがこちらに来られないのも、仕事に忙殺されてのことに違いなかった。ニナがそれを不実だと責めることもなければ、ウェインが咎めることもない。それだけ、この屋敷も切羽詰まった状況なのだ。
 隣室に赤子の寝台を用意しつつ、その後ろを矯めつ眇めつ付いてくるウェインを不審に思いながらも、ルーテシアはそれどころではなかった。
 彼女の一族の掟としては、生死に関わることは許されていない。契約者、或いは知古の関係でない限り、余計な手出しは無用なのである。生きることも、死ぬことも定め。それが早いか遅いかは関わりはない。全ては自然の流れ。
 けれど、目の前に横たわる赤子は、余りに幼く無力だ。生まれて間もない、足掻く術さえ知らなければ、何のために生まれたのかも分からない。
 泣くことしか出来ず、喜びも嘆きも感じられず、死ぬだけ。
「……こんなの許せない」
 ルーテシアは唇を噛みしめる。沸かした湯から立ち上る蒸気でむせ返るほどの室内にあって、彼女の眼差しは曇らない。余りの湿気に耐えかねて、一人、二人と侍女が逃げるように出ていく。役目に忠実なリーシャだけが傍らに残っていた。
 薬師としての技術、そして、彼女だけが持ち得る術を駆使して、赤子の身体を流れる血に訴える。
 ルーテシアの本性にも近いものが、この村はもう助からないだろうと分かっていた。けれど、諦めかけていた希望が、赤子の哀れな姿によって呼び覚まされる。生きるための努力、この祈りにも似た強い思い。泣くことしかできないけれど、生きることを諦めない幼子の声が、絶望から掬い上げるだろうと思った。
 それこそ、この村にも必要なもの。
(王さえ、降臨してくだされば……)
 願っても意味のない。望みのないことを口中で呟きながら、ルーテシアは赤子の周囲に結界を張り続ける。
 命の灯火は、まだ弱々しく儚いまま。



■3■

「申し訳ありません、奥方様の診察がこのような時間になってしまいまして」
 夜更けになっても、屋敷の中のざわめきは収まらなかった。だが、これは最早日常となってしまっているらしい。廊下ですれ違う侍女たちも、顔ぶれは変わっているが、人気が絶えることがない。
 ニナは、寝台で半身を起こして、薬師の客人を見つめ返す。
「よろしいのよ。どうせ、夜は眠れないのだもの。お時間があれば、話し相手になって頂きたいのですけれど、構わないかしら?」
「それは、診察を終えた後で」
 ルーテシアは、ニナの脈を取る。そして、その手の、燃えるような熱さに驚いて顔を上げる。
 ニナはにこりと笑った。
「診察など、無用ですわ。わたくしのことでしたら、わたくしが一番分かっています。あなたをお呼びしたのは、リーシャが余りに嘆くものですから、仕方なく……。ただ、そう……お願いがあるとすれば、あの子を助けて頂きたいの」
 あの子、と言ったのは赤子のことだろう。
 けれど、ルーテシアは答えられない。自分の力では、赤子は助からない。それだけは分かっている。それ以上の術を持っていないのだ。
 それが歯痒い。
「奥方様……」
 絞り出した薬師の言葉に、ニナは少し顔を曇らせた。
「正直な方だわ、あなた。そう……助からないのね、あの子も、わたくしも、……このステンダーも」
「いえ……そういうわけでは」
「よろしいのよ。それより、わたくしの話し相手になって頂ける?」
「……はい」 
 ルーテシアは俯いて頷くことしか出来なかった。
 ニナの生家はクラリアットである。彼女の話す言葉には、どうしてもクラリアットの訛りが残っていた。時々、言葉に詰まったように沈黙するのは、彼女の癖なのだろうか。
 ルーテシアはそんな風に考えながら、更けていく時間を過ごす。
「そう、あなたもクラリアットの生まれなのね。あの国は、とても大らかで素晴らしいと思うわ。出来るものなら、もう一度行きたいものだわ」
 ルーテシアは躊躇いがちに笑った。このような世間話をしている場合ではないのだが、ニナの穏和な微笑みは、どうしても一つ上の姉・シシを思い出してしまい引きずられる。
 ニナとは、色々な話をした。彼女の生家の話もした。
 彼女の母は、ラジアハンドのリア侯爵家の娘だった。その母は、クラリアットに嫁ぎ、実家に帰ることなどなかったらしい。ちなみに、侯爵家は現在、ニナの伯父が当主をしているのだが、その経緯でクラリアットにいる姪が、こうしてラジアハンドの名家に嫁ぐことになったのだという。曰く、クラリアットの国境に近いステンダー領ならば、両国に縁のあるものが良いだろうと言う、リア侯爵家からの申し入れだったと後に聞かされた。
 ニナは、自分の身の上を語った上で、ぼんやりと空を眺めて呟く。
「弟がね、昨年病死したの。わたくしの生家の、クラリアットのヴィンチ家は、わたくしと、妹と、弟といるのだけれども、妹は、わたくしがステンダーに嫁した後に家出をしてしまったの。もう何年も行方が分からないので、諦めているのだと思うわ。その上、弟まで失ってしまって、母には、もうわたくししかいないの。わたくしまでいなくなってしまったら、困ったことだわ」
 ニナは震える手を握りしめる。
 今日は妙に肌寒かった。
「これでわたくしが死んでしまったら、母はどうなってしまうのでしょう。哀れなこと」
 まるで他人事のように、ぽつりと呟いた。
 頼りなさげに宙を彷徨う視線は、不意に窓辺に留められた。窓の外は、霧雨ですっかり曇ってしまっている。
 侍女が、こちらを伺うように息を殺して、廊下を通り過ぎていく。
 ルーテシアは何も言わない。言えないのだ。彼女の生きてきた数百年の中で、死は当然のものだった。どんなに愛しても、人はあっさりと死んでしまう。
 ニナは、透き通るような微笑を浮かべる。
「詮のない話をしてしまいましたね。他の話題にしましょう」
「あの……奥方様」
 なあに、という風に首を傾げるニナは、まるで少女のようだと思った。
「皆が助かる方法は、もうないのでしょうか」
「……そうね、最初は考えたわ。でも……事実を受け入れるのも、大事なのよ」
 微笑みは積み重なり、溶けてしまいそうな気さえする。
 いや、この屋敷にいる者は皆、どこか諦めたような静けさを持っている。
「あなたは優しい方ね。心が豊かなのだわ」
「いえ……」
 それは無関係だからだ、死と。
 死に怯える感情など持ち合わせていない。だが、周囲の不幸に感化されてしまうほど、この地に長くいるわけではない。部外者でしかないのだ。
「わたくし、ウェイン義兄様の目は信用しているのよ? 義兄様が、あなたなら大丈夫だと思ったから、連れてきて下さったの。だから、あなたは良い方なのだわ」
 ニナは、ふふと声を出して笑う。
「それにしても、ウェイン義兄様も可笑しかったわ。村であなたを見かけて以来、毎日のようにわたくしに勧めるのだもの。医者が嫌だと言ったろう、薬師ならばいいだろうって、それはもう、子供のようでしたわ」
 ルーテシアは、少しだけ眉を上げた。
 ウェインは知っていたのか。あの村にいる薬師の存在を。
「わたくしの身を案じて頂けるのは嬉しいわ。何しろ、奥方を先日亡くされたのだもの。クラウスを思ってのこととは、分かるのよ? それでもね、可笑しくて……」
「奥方は、……ジュリア様は亡くなられたのですか?」
「ええ、先達て。ジュリア様をご存じ?」
「……名前だけは」
 そうか、あの居丈高な娘は、疫病に殺されてしまったのか。
 ルーテシアは、別段心を揺らされない。彼女がウェインに嫁ぎ、彼の傍らにいる権利を得ていたとしても、それはもう終わったことなのだから。
 人は死ぬのだ。
 そして、記憶は忘れられていく。ルーテシアはそれを知っている。ウェインは、九年前の夜を覚えていないのだから。
 不意に、荒々しい足音が廊下に響いた。ニナは顔を上げ、眉間にしわを寄せる。しばらくの後、ニナの私室の戸が叩かれた。
「何事でしょう」
「申し訳ありません。領内に変事、という知らせが飛び込んで参りまして」
「変事ですって? 構いません、お入りなさい」
 申し訳なさそうな侍女が顔を覗かせると、その後ろには見知らぬ男の姿。表情には焦りも戸惑いも浮かんでいない。だか、気品漂う口元が、微かに震えているようにも見えた。
「ニナ、夜分にすまない」
「構いませんわ。どうなされたのです? 顔色がよろしくないわ」
「私刑があった」
 ニナは一瞬、その言葉の意味が分からなかった。「しけい」という単語に、「死刑」と思い当ててしまったせいだ。
「どういうことなの、クラウス」
 ルーテシアは、夫人の言葉で、ようやくその男を思い出した。
 ステンダー領王太子ユーサーの三男にして、ラジアハンド正規騎士団第9軍・軍団長クラウス・ステンダー。つまりは、ニナの夫である。
 彼は、再び絞り出すように呻いた。
「私刑だ。病を恐れた村人が、白子の赤子と、その母親を殺した」
「……何故、そんなことが?」
「村は呪いの声に充ちている。ニナ、しばらく屋敷を離れろ。門前に村の者が殺到している。危険だ」
「何を仰いますの、あなた」
 二人の様子には、疲労の色が濃い。
 けれど、ニナは泣き出しそうな眼差しで見返す。
「こんな時に屋敷を離れるなどと、そんなことを……。わたくしはクラウス・ステンダーの妻。それが、わたくしの誇りですもの。そんなことを仰らないで、クラウス。あなたらしくもない。騎士であるあなたに嫁した時、わたくしの命運は、あなたに預けたのですから。わたくしもご一緒させてくださいませ。あなたのことですもの、村の者を説得に行くのでしょう?」
 ニナは寝台を降り、クローゼットに向かう。クラウスのそばに立ち尽くしていた侍女の一人が慌てて駆け寄り、彼女に手を貸した。白い外套を纏い、クラウスに伴われて、ニナは部屋を出て行く。
 立ち去る一瞬、クラウスがちらりとこちらを見た。
「兄上の仰っていた薬師とは、あなたのことか」
 ルーテシアはこくりと頷いた。
 ニナの言葉に我を取り戻したクラウスは、騎士らしい凛然とした眼差しをしている。
「巻き込んでしまって申し訳ない。出来るものなら、あなたも生き延びてくれ」
 ルーテシアは、返す言葉を失い、クラウスの後ろ姿を見送った。
 生き延びる。
 その言葉が、今は胸に痛い。
 侍女たちも、女主人の後を追っていったらしく、急に部屋は静まり返る。こうしている間に、どれだけの人が死んでいるのだろう。
 再びけたたましい足音が近づいてきた。今度は、一人分だ。
 不思議に思って顔を上げると、そこには先ほどの男とよく似た相貌があった。
「やはりここにいた」
 彼は、くしゃりと笑った。
 それだけが、ただそれだけのことが、ルーテシアを深い絶望に追いやる。
 彼もまた、できうる限りの人々に、生き延びろと言うのだろうか。悪意など欠片もないような笑顔のままで、死を覚悟して。
「ニナと、すぐそこで会ったら、あなたを残してしまったと言っていたよ。長く引き留めてしまった。客室を用意させよう」
「いえ……帰ります」
 ルーテシアは立ち上がり、テーブルに広げた薬品類を鞄にしまう。そして、大きなそれを抱えあげた。
「ならば、診療所まで送ろう。聞いたと思うけれど、村は殺気立っている。一人で行くのは危険だから」
「結構です。裏口だけ、教えて頂ければ」
「だけど……」
「また明日も参ります。奥方様と、御子の様子を見に」
 それだけ言うと、ルーテシアは唇を噛みしめた。これ以上、出てくる言葉など無かった。ウェインは溜息を吐き、薬師を促した。



 診療所までの緩やかな下り坂を、ルーテシアは急ぎ足で駆け下りる。
 屋敷の表には松明の火がいくつも見え、村人たちの恐怖を物語っているように思えた。けれど、それすらも目の端にしか入らない。
 霧雨は続いており、ルーテシアの頬を湿らせた。
 それ以上に、熱いものが込み上げてきて、彼女の頬を濡らした。
 あの人たちは死んでしまうだろう。近い将来の話だ。疫神の手にかかり、足掻く術もなく死に絶えるだろう。そして、それは誰もが分かっている。生き延びる、だなんて言葉にされてしまうと、何も出来ない無力さを痛感する。
 ルーテシアは、彼女の背をいつまでも眺めていた男の姿を思い出した。霧雨の中、裏口に立ち竦んだまま、じっと見送る男の影。
 胸が痛い。
「死んでしまうのよ、あの人も」
 助けられないのなら、割り切ってしまいたい。
 それでも、胸が痛くて堪らなかった。その痛みを癒す薬なんて学ばなかった。目を閉じれば、男の思慮深げな眼差しが浮かんできて、まだ熱いものが込み上げてくる。
「精霊族になんて、生まれるんじゃなかった……」
 疫神にすら打ち勝つ、自然界の高位精霊。
 ルーテシアは、ようやく自らの立場を思い出す。そう、彼女は精霊だ。それも、類い希なる能力を持つ、特殊な精霊。
「私は、ルーテシア。精霊王の77番目の娘。契約型精霊。……私の名は、歓びのルーテシア」
 自らの記憶を掘り起こし、確認するように呟く。
 生まれた場所は、クラリアット南部の小川。そこから、父であり母である精霊王にすくい上げられて、名前を与えられた。誕生の日は、もう遙か過去のような気がしている。
 けれど、紛うことなく、自分は精霊なのだ。
 長く人間の振りをしてきたせいか。ルーテシアはすっかり失念していた。首にかけられたままのネックレス。常人の目には見えないように隠されていたそれを、精霊はおもむろに外した。そして、藍色の空に掲げる。
 銀色の細いチェーンが、自己主張するように煌めいていた。それを見つめながら、ルーテシアは唇をきつく噛みしめる。
 救う術はある。
 ただ、精霊王のような力はない。全ての救うだけの力はない。
 救えるとしたら、ただ一人。



 深夜過ぎに診療所へ戻ったのだが、寝台の中でいつまでも眠れずにいた。
 ただ一人を助け出せる。契約型精霊と生を受けた瞬間から、自分には架せられたものがある。本能と同様に、脳髄にたたき込まれた本性。それは、ただ一人の契約者を求めること。生涯を捧げ、生涯を寄り添うと決める、天涯の契約。
 救えるだろう。
 だが、同時に恐ろしくもあった。それは、彼のことを知ってしまったからだ。彼は、ルーテシアと契約することにより、最愛の故郷を喪失してしまうのだ。彼は彼でなくなるかも知れない。
 貴族だから。
 領王家の血を引くから。
 当然のように、領民を守るべきと言い放つひと。その為ならば、命を惜しむべきではないと、平然と口にする。彼は騎士ではなかったが、それは騎士の忠誠に近い。
 けれど、同時にそれは裏切りとなる。一門に対する、領民に対する、裏切り。
 ルーテシアの眠りは浅い。その理由は、ルーテシアには分かっている。
 別段、迷いはない。ただ、彼が受け入れるかどうか。ルーテシアの覚悟は出来ているのだ。彼と契約をし、生涯を添い遂げる。そうなれば、どんなに幸福だろう。彼の死を堪えるよりも、震えるほどの歓喜の中で、それを喪失するかもしれない可能性に恐怖しているだけならば、その方が余程幸福だ。
 早朝、乱暴に戸を叩く音に目が覚めたが、幾ばくかも寝た気などしない。昨日の精霊術のせいか、身体は酷く重い。軋む関節を宥めながら、ルーテシアは戸口まで歩いた。
 戸外から、男の声がする。
 聞き知った声。声を聞くだけで、涙が出そうになった。
「どうしたの?」
 夜着の胸元を掻き合わせ、ルーテシアは閂を外した。
 朝日が上がって間もない。明るい橙色の日差しが、男の髪を染め上げる。逆光の中で、彼は呻くように言った。
「ニナが死んだ。赤子も……」

 目の前が白くなる。

 赤子が死んだ。あの愛らしい女児。母の手に抱かれた姿すら見ていないのに、無垢な笑顔すら見ていないのに。
 そして、死を覚悟した、母の美しい横顔を思い出す。
 村人たちは足掻き続けている。けれど、どうしてステンダー一門は、あんなにも穏やかなのだろう。
「ニナは、身体が弱かった。疫病に冒された彼女が村人の前に出て、貴族が特別ではないことを証明したんだ。だから、村人も引き下がった。けれど……」
「……」
「追うように、あの子も」
「……そう」
 ルーテシアは、瞼をきつく伏せた。
 言葉もない。昨日までいた人が、今日死ぬ。
 村人たちも減っていく。
 死の霧が、村を、このステンダーを覆い、食い尽くそうとしている。
「こんな時に何だけれど、良かったら、朝食でもご一緒しませんか?」
 ルーテシアは顔を上げた。
 笑顔がある。
「ニナの遺言、いくつかあってね。あなた宛のもあった」
「私に?」
「そう、あなたに」
 そう言って、ウェインは手に提げていたバスケットを掲げて見せた。ルーテシアは深い溜息を吐くと、ゆっくりと踵を返す。
「やっぱり不謹慎かなあ」
 子供のような声だった。遊びを禁じられた時の。
 ルーテシアは振り返り、苦笑する。
「着替えるだけよ。こんな格好で出られないわ」



 村から少し離れた。
 昨日の喧騒からは想像出来ない程、村は穏やかだった。早朝とはいえ、彼らの朝は早い。すれ違う人々は、領主の一族の太子と、診療所の女薬師という珍しい二人連れを見かけると、微笑と共に会釈をしていく。
 昨日とは明らかに違う。
 白子の親子を贄とし、疫神が静まったと思っているのだろうか。
 それとも、既に死を悟りきったのか。
 ウェインに導かれるまま、ルーテシアは村から大分外れたところまでやってきた。
 日は昇り、それを見上げた途端、空腹を訴える音が響いた。ルーテシアではない。彼女は驚いて顔を上げると、恥ずかしそうにウェインが振り返った。
「聞こえた?」
 思わず笑ってしまう。
「ええ、もちろん」
「昨日から、食べる余裕がなかったんだ。もう我慢出来ないなあ。……よし、この辺りにしよう」
 そう言って、ウェインは突然腰を下ろした。
 背の低い草が風に揺れている。ここからは、ストーク村が一望出来た。
 ウェインの持ってきたバスケットには、薄められた果実酒やら、パンやら、燻製肉やらがぎっしり詰まっていて、どうしても二人分とは思えなかった。
 まるでピクニックだ。
 ルーテシアは、別段食事をしなくても生きていける。もちろん食事は、栄養補給に最適な方法と言えるから、許される限りは人と同じ食卓につく。
 だが、ピクニックは初めてだった。
 風は頬に心地よい。風霊たちが楽しげな声をあげている。風の歌も聞こえる。ここは、疫神の悪夢から無縁の場所なのだろうか。それとも、人の世すら嘲笑して見下ろす精霊たちの娯楽の場所か。
 風はこんなに優しく、大地は温かいというのに、眼下の村は不安に押し潰されそうな人々がいる。
 救う神も現れず。
「ルカも連れてきたかったな」
 ぽつり、とウェインが言った。
 その言葉には、深い親愛が込められている。誰、なんて聞けなかった。聞けば、決意は鈍る。ウェインを救おうと決めたのだ。彼が裏切り者と罵られようと、死ぬよりもまし。
「そういえば、ニナから言付かってきたんだっけ」
 ぽんと音を立てて手を叩くと、ウェインは懐から紙切れを取り出した。走り書きのようなもの。
「正式なものじゃないから、こんな形で申し訳ないね。倒れてすぐ、あなたに渡すように書いたものらしい。あなたと会えて良かったと言っていた」
「私も、嬉しかったわ。少しでも力になれたのなら」
 ウェインはにこりと笑った。
「それはもちろん。この非常時に、あなたは不思議な人だ。殺気だったところは微塵も感じない。ニナが引き留めたのも、分かる気がするよ」
 事も無げに言う。その一言一言が、ルーテシアの心臓を握り締めているという自覚もない。ルーテシアは溜息を禁じ得ない。
 紙切れを広げた。貴族の娘らしい流麗な文字で書かれている。その字は、少し歪んでいた。シミが一つ、あった。涙の痕だ。

『 最後にあなたと話せて、わたくしは幸運だったと思います。
ウェイン義兄様をよろしくお願い致しますね。
  それと、薬師殿。わたくしの身を案じて下さって、ありがとう 』

 紙切れを掴んだ手が震える。
 人は、人とはこんなにも穏やかに死を迎えることができるのだろうか。終焉の恐怖に怯え、死にたくないと嘆きながらも死を迎えてしまうものではないのか。宿命と悟るには、彼らは余りにも若すぎる。
 怖くないはずがない。
 怯えないはずがない。
 それでも叫び出さずにいるのは。
「貴族の誇り、というものなのね」
「何が?」
 燻製肉を口に放り込んで、彼は暢気に答えた。
「逃げないことと、怯えた顔を見せないこと。大した一族だわ」
 そんなに大したものでもない、とウェインが照れたように言った。
「そうやって育てられたから、当然だと思うんだけど」
「いいえ、活かすのは本人の力量よ。もちろん環境にもよるけれど。ねえ、そう言えばあなたって、文官なのよね?」
 ルーテシアは、ラジアハンド宮廷をよく知らない。シシに同行した舞会の日に、初めてラジアハンドの貴族たちを見たのだ。そこで、シシに武官と文官の正式な服装を教えてもらった。彼は文官だった。けれど、後に聞いた話によれば、当代ステンダー家は、武官の一族だと。
 自嘲気味な笑声が、小さく聞こえた。
「俺は、ソーサレスの才能がなくてね。ましてや、剣技なんてご免だった。子供の頃ね、よく父に、お前は一体誰に似たんだって何度も言われたよ。でも、剣は真面目にやらなかっただけで、血筋というのかな、そこそこ出来たんだ。いつか騎士になるんだろうって、子供ながらに思っていたけど、ある日突然、……何もかも嫌になった」
 表情は変わらない。淡々と、口から滑り落ちていくような語り口調で、ウェインは続ける。
「外に出たかった。けど、誰にも言えなかった。武官揃いの一族だから、武官府に入るのが当然だと思っていたよ。すごく悪いことをしているような気がして、言えなかった。今は文官府にいる。治水や街の整備とか、そんなことを管理する仕事。でも本当は、外交官になりたかった……今更だけれど」
「外に出られるから、外交官なのね」
「そう。何でもいいから、外へ行きたかった。けど、文官府に入れただけで良いとしたんだ。今にも羽根が生えそうな輩を、外交官に据えられるわけないって、後から上司に言われた。何にせよ、贅沢ばかり言っても始まらないし。まあ、先代の外交副官の娘を妻に貰って、外の話を聞ける分ましだな」
「……テールベルト子爵の娘ね」
 ウェインは、そうだよと事も無げに言った。
 そう、あの舞会の夜にルーテシアを威圧した娘は、予定通りステンダー家に嫁いだのだ。そして、幸福に目を眩ませて生きていたのだろう。疫神に蝕まれ、死んでしまう日まで。
 彼は、テールベルトの娘を愛しているのだろうか。ルーテシアが、彼に焦がれるように愛を語っていたのだろうか。その声で、その目で。
 許せない。嫉妬に身体中が燃え尽きてしまいそうだ。息が苦しくて、涙が出そうになった。焦がれ続けてきた九年間もの月日を、あの高慢な娘は、ウェインの愛を受け止めていたなんて。けれど、その娘も最早、この世界のどこにもいない。
 ただ今は、彼を助けたいだけ。自己満足なのか、それともそんな感情すら超越してしまったのか。精霊王の娘は、精霊らしくない疑問に首を捻る。
 心なんてなければ思う自分もいるのに。
「……ルカ、というのは?」
「ああ、ルカは娘。三歳になったばかりでね。疫病に冒されて、ずっと寝込んでいる。妻はもう、亡くなったけれど」
「そう」
 手にしていたパンを飲み込み、ルーテシアはぼんやりと空を見上げる。
 沈黙が続いていた。それは、長い長い時間のように思える。言葉もないのか、それともお喋りする気が失せたのか。軽い落胆が胸に浮かび、水面にたゆたう浮きのように、また沈んでしまう。
 一人の人間に、こんなにも心揺らされる。
 ルーテシアはすうっと立ち上がる。頭上にある蒼穹を見上げれば、ちっぽけな悩みを抱え込んでいるような気がした。
 人が死ぬというのに、蒼天は変わりなく澄んでいる。
 胸の最奥が焦げるほど求めている人が死んでしまうかもしれないというのに、まだ何も出来ていない。
「戻りましょうか」
 ウェインは自然な口調で言った。
 だから、ルーテシアも静かに頷く。
「診療所もありますので、ここで失礼させて頂きます」
 引き留める手を振り払い、ルーテシアは来た道を戻る。振り返ることはなかった。
 今夜にでも連れ出そう。心はもう決まっている。無理矢理にも連れだそう。嫌だと言っても、抵抗しても、眠らせてでも連れだそう。
 きっと、それが幸福なのだ。そう、信じたかった。



ウェイン・ステンダーの妻の名は、ジュリア・テールベルト・ステンダー。
■4■ 

 娘の名はルカ。三歳になる。
 ジュリアは、先代外交官であったテールベルト子爵の次女で、幼き日を、父の仕事先で過ごしたという。アスリース・アカデミーへの遊学経験もあり、知識は深かった。だが、それだけの娘だった。
 ウェインは、軽い失望を覚える。
 妻の語る外国の話は面白かった。だが、彼女の語る言葉は、事実だけなのである。感動も、感傷も、彼女の口からは語られない。
 更に、決して美人ではない相貌が、一族の前に出ると余計に霞んで見えた。歴史ある貴族ではなかった彼女の実家を思ってのことだろうと、ウェインは考えていた。だが、女とはそんなに簡単なものじゃなかったらしい。一門の女たちは美しかった。彼女は愚かな引け目を感じていたのだ。自分の平凡な容姿を憎み、同時に周囲に対する激しい嫉妬心が芽生えていった。
 自分は、外を知る女だから娶られたのだと。
 決して、美しさや性格を望まれたのではないのだと。
 それは彼女を追いつめ、次第に醜くしていった。
「このような場所に、顔など出されますな。わたくしのことは捨て置いてくださいませ」
 仕事先から戻ると、いつも妻の厳しい言を突き付けられた。
 このような場所というのは、彼女の居室のことだ。結婚してからは城下に一角を得て、屋敷を建てた。彼女は、常に病を得ていると言い張り、簡素に設えた部屋で寝台に伏せってばかりいた。
 この時の彼女は薄いヴェールを被っており、表情はよく分からなかった。
 ウェインは軽く息を吐く。
 大貴族の娘ではないので、彼女を娶った時には、城に出仕するよりは気を遣わずに済むだろうと思っていた。ところが、テールベルト子爵の娘は、ウェインに対して、ステンダーに対して、恐怖にも似た敬意を示している。
 自然と、夫の足は敬遠する。
「あなたには、仕事がおありでしょう。わたくしなどに構う暇はございませんでしょうに。それとも、昨日遅くまでいらした先の方と約束がお有りなのかしら。どちらにせよ、わたくしなど形ばかりの妻。気に留められませぬよう」
 妻の言葉はいつもより激しい。
 ウェインは、妻の当てこすりの先を察知し、微笑と共に言い返す。。
「昨日の件は、きちんと説明したでしょう。サロンに出入りすることは、仕事なのだから仕方ないと、納得して下さったでしょう」
「それはそれは、大層清廉な方ですものね、旦那様は。このように詰まらないことばかり言う妻など得て、さぞかしその運を恨んでいることでしょう。もっと上流の、美しく聡明な方も候補にいらしたと聞いてますもの。わたくしのことをお恨みなのでしょう、分かっておりますわ。離縁したいなら仰って下さいまし。ステンダー家の言い分ならば、テールベルトは受け入れるに決まってますわ」
「ジュリア」
 強い口調で呼ばれて、妻は押し黙る。
「……そういえば、ルカは?」
「寝ています」
「そうか」
 重苦しい沈黙ばかりが、部屋の温度を下げていく。
 そうして、居たたまれずに部屋を出る。これは、もういつものこと。
 けれどこの会話すら、もう過去のこと。
 彼女は、ステンダーの災厄の初期に死んだ。ステンダー一族が揃って領内に戻った時、彼女もそれに従った。だが、死者の数が目の見えて増えると、彼女は発狂したように逃げ惑い、屋敷から脱走したのだ。一晩中、山中を捜索した結果、クラリアット方面の崖下で死亡しているところを発見された。
 彼女の名誉から、彼女の死は疫病によってのものとされた。
 ウェインはただ、埋葬時に、親族たちに深く頭を下げていた。



 ルーテシアと別れて屋敷に戻ると、歩く彼の後ろ姿に声がかかる。
 屋敷内は、昨夜の一件もあって人は疎らだ。従僕の誰かだろうと思い、ウェインはぞんざいな態度で振り返る。
 すると、そこには予想だにしない人物が立っていて、ステンダーの若き文官は、一瞬息を止めてしまった。
「兄上」
「元気がないな、ウェイン」
「兄上こそ、出歩いても平気なのですか?」
 ヘンリーは浅く頷いた。
 疫病の流行初期には陣頭指揮に立っていたヘンリーだが、病を得て、既にその立場は三男のクラウスに譲っていた。順当に行けば、それは次男に譲られるべきものだが、彼は、自ら願い出て、クラウスの補佐をかって出た。領王である祖父は、領内にはいない。領王太子の父が代行をし、一門がそれを補佐する。だが、肝心の父もまた、病を得て、体面上での指揮は領王の孫たちに委ねられているのだ。
「父上のお加減はいかがでしょうか」
 ウェインは努めて平常の声音で話す。
 長兄には、その真意が上手く探れない。弟たちの中で、ウェイン程理解出来ない人間はいなかった。何しろ、相手は文官に志望した男なのだ。飄々とした態度は、どこか末弟の姿を思い起こさせるが、あれとはまた違った。
 連れ立って歩きながら、ヘンリーは先ほど見舞ってきた父のことを思い出す。
「相変わらず、ウェノの対応に追われていらっしゃる。国王からも度々親書があるらしくて、文机にばかり向かっているよ」
「治るものも治らないな、それじゃあ。父上も休まれればいいのに」
 そうは言ったが、不可能であることは分かっている。
 人手が足りない。その上、女たちは、最早前線に立つこともままならない者ばかりだ。動ける者が動く、それは疫神に見舞われたステンダー家にとって、不文律になっている。
「伯父上は?」
「南部の暴動の鎮圧だ。今朝早く出掛けられたよ。相手は一般人だ。伯父上も大分手こずっているらしい」
「歴戦の勇将も、民には弱い、か。意外な欠点だな」
「お優しい方と言いなさい」
 叱責の一言すら、今は力無い。
 病は、身体だけではなく、屋敷の空気まで蝕み始める。笑い声の絶えない館は、今はひっそりと静まり返っていた。子供たちも、奥方たちも、居室にあって動けずにいるのだ。
「兄上は、これからどちらへ?」
 ウェインは何気なく問い掛けた。
 回廊には、涼しげな風が吹き込み、陽気な日差しが庭園に差し込んでいた。その中で、妙に青ざめた兄の横顔が、不思議と浮かび上がって見える。
 嫌な報なのだろうと、感じ取った。
 それ以上聞けずに、ウェインは努めて明るく話題を変える。
「俺は、村へ行って来ようと思う。兄上、ご用事はあらせられるか?」
 ヘンリーは、ようやく蒼白になった顔を持ち上げる。
 まるで精巧な機械人形のようだ。微笑をたたえた表情など、心のところ目にしていない。
 彼は、唇だけ動かした。
「花を、摘んできてもらえるか」
 嫌な予感がした。
「ノニアが息を引き取った」
 言葉もない。
 姪の具合が思わしくないことは知っていた。けれど、彼女が死んでしまうなんてことは、この疫病の最中には想像に容易いが、実際起こってみても実感はない。
 きっと死に顔を見ても、実感は湧かないだろうと思った。
 女や幼子ばかりが、何故こうも先立ってしまうのだろう、と半ば諦めたような口調を耳にして、ウェインは居たたまれなかった。明日、自分がその言葉を口にするのではないかと思うと、どうしても辛かった。
 妻と仲違いをしていたとしても、子供は可愛い。赤茶けた髪に、妻と同じマラカイトグリーンの大きな眼差し。口数が少なく、いとこたちの間に入っても、一番後ろについているような子供だった。それが妻のせいだと言いたくなかった。だが、ジュリアの溜息ばかり聞いてきた娘は、次第に消極的になっていった。
 今はもう、息をすることもままならない程衰弱している。
 せめて、子供たちだけは助けてやりたい。
 だが、父母を始め、兄弟やその妻子、ましてや伯父のベルナート・クランまで領内に留まっている。ステンダー一族である限り、ウェインは何も言えない。
「神は、ステンダーを滅ぼす気だろうか……」
 やるせなくなって呟いた小さな言葉は、兄の耳にも届いたらしい。ひどく抑揚のない声で、
「そうでもない。ステンダーは我々だけではないだろう」
 そう、答えた。
 ウェインは苦笑を浮かべる。そういえば、領内にいないステンダー一門もいたのだ。領王の祖父と、クラン家のアーリン、そして、五人兄弟の末の変わり者。
 それだけいれば十分か。
 ウェインは微笑し、俯いた。
 生に固執する醜さとは無縁でいようと、決意を固くする。自分が死んでも、ステンダーは滅びない。この疫病によって誰一人いなくなっても、ステンダーは続く。
 ならば、領民を救うために奔走しようと、この瞬間、固く誓ったのだ。



 夜が更けて、ルーテシアはウェインの居室を訪ねた。
 空を駆け、風を纏い、彼の窓辺に立った。ウェインは寝台に身を横たえていたが、風が窓を開けると、ゆっくりと半身を起こした。
 逆光の中に、ルーテシアが立ち尽くす。
「あなたを助けたい……」
 ルーテシアの背に、薄色の羽根が輝いている。
 精霊力の結晶であるそれは、実体のない羽根だ。だが、きちんと人の目には見える。そして、魔力を有するものならば、その純粋な力に驚嘆することだろう。
 ウェインは、寝台から降りる。そして、夜着の上に外套を羽織る。
「あなたのことは、覚えているよ」
「え……」
「舞会で会った。ストレシアの貴婦人。名前も知らなかったけれど、覚えている」
 途端、ルーテシアをこの地に縛り続けていた何かが、すうっと溶け出したような気がした。
 覚えていてくれた。
 それだけで幸福とは言えないか。
 あの夜の劇的な瞬間を、彼もまた記憶に留めていてくれたのだ。
「どうして……言ってくれなかったの」
「だって、何て言えるの? 貴族の令嬢だと思ってたら、薬師なんかやってるし、あなたも何も言わないし……覚えていないのかと思った」
「そんなこと……ない」
 暖かな雨が降る。閉じた双眸から、大地を濡らす滴。
「また、会えたね」
 そう言って、彼は微笑む。猫のような目を細めて、ルーテシア一人に向かって。
 ルーテシアは跪く。
 今度会えたならば、きっとそうすると思っていた。跪き、震える唇を噛みしめる。
「あなたを助けたい」
「必要ない」
 ウェインの言葉に躊躇いはない。ルーテシアは顔を上げた。涙に濡れて、情けないほど幼い表情を浮かべて。けれど、ウェインは微笑みを崩さない。
「必要ない。俺は俺の力だけあればいい。ここで生きて、ここで死ぬ。それだけだ。あなたは人でないようだけど、助けはいらない」
「……死んでも?」
「死んでも」
 ルーテシアは、折った膝を戻して立ち上がる。
 この人には、この人の信念がある。
 きっと、領民よりも捨てられないものだろう。眠らせてでも連れて行こうと思っていた。けれど、彼はきっと、信念すら捨ててしまったら生きていけないと直感した。生まれながらの貴族であることと、彼自身の目が、それを許さないだろうと分かったから。
 ルーテシアは立ち上がる。途端、哀切というマントを一枚脱いだような気がした。身体が妙に軽い。両手を伸ばせば、硬くなっていた肩が痛んだ。
 今なら行ける。
 今じゃなきゃ行けない。必要とされないのなら、精霊に価値にはない。ここにいても自分は不幸せだ。行かなくちゃ、心が身体を侵す前に。心が壊れてしまう前に。
 ルーテシアは、努めて優しく問い掛けた。
「ねえ、私の名前を知っている?」
「……ルーティと、自分で」
「そう言ったわ。けれど、それは通り名。私の真名を教えてあげる。最期だと思ったら、私の名前を呼んで。その時なら、私も何か出来るかもしれない」
 ウェインは不思議そうに首を傾げた。何を言っているのか分からないと言った風に、ルーテシアを見返す。
 光の中の女は、まるで水面のように揺れている。
「私は、精霊王の77番目の娘、……名は、歓びのルーテシア」
「……ルーテシア」
「そう、あなたを誰よりも敬愛する、ただの女よ」
 その瞬間、突風が草原を走り抜け、屋敷まで飛び込んでくる。竜巻のようにカーテンを巻き上げながら、風は乱暴に部屋中を駆け巡り、男が伏せていた瞼を持ち上げた時には、そこには誰一人としていなかった。
 誰もいなかったのだ。
「ありがとう、ルーテシア」
 一人きりの部屋で、ウェインはそう呟いた。
 きっと彼女に届くだろう、この声も、この思いも。



 ルーテシアは、最早人族に関わることを止めることにした。
 結局、自分には何も出来ないのだと痛感させられる。村人に薬を施しても、貴族の夫人の介護をしても、救うことは出来ないのだ。原因も病名も知れない流行病。熱に対抗する薬を作るだけの薬師なんて、存在の意味もない。必要とされなければ、生きている価値もない。
 ルーテシアがあの場所に残れば、救われた命があっただろうか。
 精霊として生まれ、精霊として生きる。そこに、命のやりとりは存在してはならない。人の生き死にに宿命があるのならば、精霊王の子供たちにも宿命はある。それは、世界の均衡を保つこと。そして、生命を見守ること。
 ステンダーを襲う疫神は、間もなく息絶えるだろう。長い歴史で、三ヶ月以上も猛威を振るう流行病は少ない。後は沈下するばかり。ルーテシアには分かっている。ただ、その間にも命は消えていく。
「せめて、最後まで見届けなくちゃ……」
 ルーテシアは、背に生えた光の羽根をはためかせて、レンズに向かう。あの場所が、ステンダーの現状を知るに一番早い。
 そして、もう振り返ることはなかった。



 半年もして、公式に発表された死者の中に、「ウェイン・ステンダー」の名前があった。
 ルーテシアは、それをレンズの街の掲示板で見た。ステンダー一門の名が連なっていて、彼らの最期を想像することは容易くなかったが、不覚にもまた涙が零れた。あの人たちは死んだのだ。誇り高く、貴族として生きていた人たちは皆、死んでしまったのだ。
「呼べって、言ったじゃない……ばか」
 人混みの中で呟くと、涙は止めどなく溢れて止まらなかった。
 覚悟していたはず。
 思い切ったはず。
 それなのに、やはり悲しい。あの土地を、領民を、一瞬でも愛したであろうあの男を、あの夜に見捨てたのは自分自身なのに。
 知らない誰かが肩を叩いていった。気を落とすなと、声がかけられた。
「ありがとう……」
 ルーテシアは顔を上げて、微笑んで見せた。
 会いに行かなければ思った。あの男が最後に見た光景を、この目に焼き付けなければと思った。



 創始の神々の定めし則《のり》に沿《そ》い
 過ぎ去りし星霜の誓約に副《そ》い
 また、森羅万象の欲する律《のり》に誘《そ》い
 今代精霊王の貴き御名に於いて
 我、砂の民の願いしを与えん者、
 誇り高き主峰の後継に
 天涯叛することなき契りを約す



 天涯の契約は、名前で精霊を縛る。
 そして、契約者は天涯のアクセサリを受け取る。そうして、生涯を誓う。肉親のように、恋人のように。死ぬまで寄り添い続けると誓うのだ。
 ステンダー領内にあるウェイン・ステンダーの墓に、一人の女性が訪れて、花と共に不思議なネックレスを置いていったと、その後、ストーク村の村人にまことしやかに伝えられた。
 何しろ、そのネックレスは風が吹こうと、雨が降ろうと、子供が悪戯しようとしても、決して墓からは離れなかったのだ。天使が、彼の死を悼んで捧げたものだろうと伝えられたが、その真実を知る者は少ない。
 これは、ある精霊の語る短い恋の物語。
 歓びを悲しみに書き換えられ、静かに生きることを決めた精霊の昔話。