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・0・ アスリースの王都で結構な評判を集める女性向けの装飾身具店ベルンバランを営むボルム・バームとその妻リアに三男が誕生したのは九七九年の始めである。 子供は、白子であった。色素が欠落した真っ白な、瞳と唇ばかりが血の色が浮き出たように真っ赤な奇形児は、それだけで長くは生きられないと、皆が知っていた。 それでもフォルクスという命名が成されて、一応にも育てらるこのになったのは、学術の中心を誇るアスリースの王都であればこそ、また、バーム家が裕福な商家であればこそであったかもしれない。田舎の農村などでは奇形児など不吉の象徴と取られる事が圧倒的に多いし、貧しい家では成人できそうに無い子供を育てている余裕などないからだ。 さらに、バーム家特有の事情があった。 母親であるリアが、その子を白子であると、決して認めなかったのだ。彼女は彼の真っ白な髪を「輝く銀髪」、血の色の瞳を「綺麗な緋色の瞳」と言い、「とても日焼けのしにくい体質の子」だと言った。誰かが白子であると指摘などすれば、半狂乱で否定した。 精神の拮抗を崩していることは明白であった。けれども彼女は、その息子のことさえ除けばそれまで通り、全く正常であった。そこで家長のボルムを中心に、どうせ子供のことは長いことではないと、彼女の希望を叶えようとしたのである。 ところがフォルクスは、父や親族兄弟の予想を裏切り、母の期待どおりに、やや病弱な気があったものの、まず順調に育ってしまった。幼い頃から中空に精霊を見たり小さな風を起こしたりしていたことから、彼が精霊の加護を得ているのだろう、と言われた。 母リアは、この三男を溺愛した。白子であるという“言われの無い”中傷から彼を護り、“理由もなく”いじめられやすい子供であることを気にして、必要以上に“普通の子”に育てるべく砕心した。 だからこそ、父ボルムはフォルクスを持て余した。嫌っていたわけではないが、妻を狂気に陥れた息子を疎んじていたのは確かである。 十三才という、比較的早い時期から彼をアカデミーへ入学させると決めたのは、その父親ボルムの方である。妻には伏せた一番の理由は、そうしてクーテットブルグへやって学生寮へ入れてしまえば、そう頻繁には、真っ白な息子と、その現実を見ることをやめてしまった妻の様子とを見なくてもすむようになるから、というものだった。 母リアは喜んで賛同した。魔法のことなどよく知らない彼女は、フォルクスは誰にも習わなくても魔法ができるのだもの、ちゃんとお勉強すれば偉い魔法使いになれるかもしれないわ、という言い方で、彼を送り出した。 アルケミスト部門を選んだのはフォルクス自身である。 理由はそれほど深いものではない。強いて言うならば、精霊に頼めばできるような火を出したり風を起こしたりするというイメージの強かったソーサレス部門よりは、アルケミスト部門の“研究”という言葉に惹かれた。そんな程度のことだった。 ・1・ 「今度アルケミスト部門に来た留学生は絶世の美女のお姫様だそうだ」 そんな噂がアカデミーの学生たちの間に流れたのは、フォルクスがアルケミスト部門学生部修了の必要単位はあとまる一年くらいで消化できる、と計算していた年の紅の月の始め頃だ。 噂を最初に聞いた時、フォルクスの頭の中ではほぼ反射的に“絶世の美姫”の前に“楚々とした”という言葉が付け加えられていた。 十七才になったばかりの頃だった。成績は中の上といったところだったが、修学範囲がいまいち専門性に欠け、「雑学と基礎習得の範囲の広さ“だけ”なら学生中で右に出る者は無い」という、研究者を目指すにはとても褒められたものでは無い評判をもらう破目になっていた。――――とりあえず、どうしても目立つ容姿とその評判とで、学内では有名な方だったのは確かだったけれど。 「君が、フォルクスくん?」 だから、校舎裏を歩いていた時に突然そう言葉を投げかけられたことも、特に珍しいことだとは思わなかった。その女性が噂の“美姫”だということにも、フォルクスはまったく気がつかなかった。 「クレイン師に君の話を聞いたわ。白ウサギで色素混入の魔法実験をする講義の時に」 ニコリと笑いかけた彼女は、赤茶の波がかった髪をした、少し気の強そうな溌剌とした美人だった。自分よりも少し年上かな、とフォルクスは思った。 「ああ、『ホムンクルス生成基礎学概論』か。クレイン師の講義なら、後期にある『魔法生命の無機物基盤体試論』の方が面白かったぞ」 応えて言った内容は一応は本当のことだが、意図は全く違うところにあった。自分のことをあれこれ訊ねられるのも面白くないので、話題をすり替える作戦だ。 「傑作なのが仮面とかサークレットなんかの形で自己意識を持たせようって試みの話だな。本体は生き物の肉片をとっかえひっかえ使おうか、っていう……本当に、まだ理論構築も途中段階で、お前らががんばれよ、って感じだったけど……」 が、彼女は乗ってはくれなかった。 喋っているフォルクスの姿をまじまじと見たあと、最初に声をかけた時よりももっとまぶしい笑顔を見せて、言ったものだ。 「なるほど……噂以上の白ウサギくんっぷりだわ」 「……は?」 あまりの唐突さに、思わず間の抜けた返事をする。 「実験で目の赤い白ウサギが簡単に混入した色素に染まるのは、元々の色素を持っていないからだわ。つまり、 「……それは、知ってるけど」 「白子が不吉の象徴だとか、取替え子だとか、悪いものだとか……あれってみんな嘘ね。今日の講義でよく判ったわ」 フォルクスは呆気に取られた。いったい何がどう判ったのか、いや、そもそも彼女が何者で、どうしてそんな話をしているのか、さっぱり判らなかった。 「容姿は内面を映すって言うでしょう? だとしたら、白子も白ウサギも、生まれた時は普通の赤ちゃん以上に、本当に純白なのよ。不吉だったり悪いものになったりするとすれば、それは周りの人間がそういう色に染めるからだわ。色素を混入されて、黒くなる白ウサギみたいに」 「はぁ……」 「君の噂をいろいろ聞いて、実際に今、君を見ていて、間違いないと思ったわ。 だって、君はアルビノの白ウサギくんで、ちょっぴりひねくれているようには見えるけど、悪い物には絶対に見えないもの」 「あ、あのなぁ……」 言われたい放題にいいかげん反論しなければと思ったのだが、彼女の勢いに押されて言葉を見つけられない。 「なんなんだよ、あんたは、いったい!」 結局、取り合えず声を出した。そんな様子が丸見えのフォルクスに、彼女はいたずらっぽい笑顔を向けて、握手を求めるように右手を差し出した。 「アーリン・クラン。知らないの? 今ウワサの留学生のお姫様、よ」 のろのろと握手に応じるフォルクスの頭の中では“お姫様とはみんな、楚々とした儚げで優しげな美女”という安っぽい幻想が音を立てて崩れていった。 「ところで、さっきの魔法生命の授業の話、面白そうだわ。詳しく聞かせてよ、白ウサギくん」 ・2・ 始めは、ちょっと変な、ただの貴族のお姫様だと思った。だがフォルクスより二才上、十九才だというアーリン・クランは“ちょっと変”どころの物好きではなかったし、そもそも“ただの”お姫様というわけではなかった。 ラジアハンド王国の魔法使いの大家、クラン伯爵家の跡取り。そして、ステンダー領王家の次期のビショップ格ソーサレス。そういう肩書きを持っていた。当然、このアカデミーのソーサレス学部の内容などとっくの昔に修めているわけで、たまには違う勉強がしたい、と無理矢理に我がままを通しての、アルケミスト学部への留学だという。 “ビショップ格”というのは地方領でも大きな所でたまに見掛けられる地位制度だ。一国に一人、ソーサレスとプリーストの両方の能力を持つビショップがいる。彼らはたいてい、国王などの次に位置する地位にあり、それを補佐する。それに倣うような形で、領主を補佐する魔法使いを高位に置くのである。たいていはソーサレスとプリーストの二名を同格二位の立場に置く。 ステンダー領はラジアハンド国とクラリアット国との国境の山脈の中央部に位置する地方だ。俗に『ラジアハンドの盾』と呼ばれるのは、位置もさることながら、その領主、ステンダー領王家の歴代に安定して質の高い軍事力と武具の生産力とに寄る。鉄鉱石の産地としても有名な地方で、クラリアットのナイトやヴァルキリーの刀剣や鎧の、少なくとも三割はステンダーの鉄鉱石で賄われているとも言われているほどなのだ。 「取り引き先はラジアハンド本国よりも、圧倒的にクラリアット国が多いのよ。他の大貴族や領主さまがたが“ラジアハンドの中にあるクラリアット領のようだ”なんて言ってたのを聞いた事があるわ。 陰口ならもうちょっと気のきいたこと言えばいいのにね」 そんな話を聞くようになったのも、アーリンとの関係は最初の会話限りでは終らなかったからだ。 あれ以来、彼女はフォルクスを見つけるたびに「白ウサギ君」と呼びかけて、やれ、市に連れて行けだの、やれアカデミーの中を案内しろだのと引きずりまわす。 なにしろ「お姫様」で「噂の留学生」だ。取り巻きのようになる「友人」はいくらでもいる。何を好きこのんで、と訊ねると、例の魅力的ないたずらっぽい笑顔で答えた。 「白ウサギ君みたいなさっぱりした、っていうか、そっけない……しつこくない態度で付き合ってくれる人って、意外といないのよ」 取り入り目当てとか、軟派まがいばかりだと不満を漏らす。 「……要するに俺は無礼者ってことだろうが」 もう呼び方に対する文句は諦めていた。一度諦めると、彼女の言い方には厭味が無いからか、あまり悪い気がしないのが不思議だった。 「それに、君ってやっぱり目立つもの。君と歩いていたら、あたしはそんなに目立たなくてのんびり歩けるわ」 「俺はあんたの案山子か?」 「いいえ。脅しているわけじゃないもの。どっちかというと、虫除けよ」 一事が万事、こんな調子だ。十日もたたないうちにすっかり慣らされてしまった気分で、フォルクスは腕をひっぱられたり組まれたりしながら姫君の虫除けの役を日常にするようになってしまっていた。 当然、噂が流れる。入学が同期だったヴァンなど、わざわざソーサレス学部から、妙に嬉しそうにからかいに来たものだ。 「アルケミスト学部の白子に恋人が出来た、ってこっちまで噂が来てるぜ」 「違う」 もう何度言われて何度答えたか判ったものではない。 「でも赤茶の髪の美人とお前が手つないで歩いてたの、見たぜ、俺」 「引きずられてた、の間違いだろう。 俺が彼女に何て呼ばれてるか、知ってるか? “白ウサギ君”だぞ、ウサギ。あれはペット扱いっていうんだ」 「いーじゃない。あんな美人のペットだったら俺、喜んで立候補するよ」 「じゃ、変わってやろうか」 「友人の幸せを横取りするほどの悪党のつもりはないぜ」 「だから違うと言ってるだろうが!」 アーリンは別に誰でも彼でも妙な名で呼ぶわけではない。他の人間は普通に名前で呼ぶ。フォルクスだけが「白ウサギ君」なのだ。 ・3・ アーリンは面白いくらい何にでも興味を示した。市に連れて行けば何でもない野菜売り場でもはしゃぐし、よくある大道芸に感動していたりする。 「ラジアハンドでは王都に行っても、あんまり外を勝手に歩かせて貰ったり遊ばせてもらったりできないのよ。ステンダーは、田舎だしね」 世間知らずは正真正銘で、ヴァンがポーカーを教えたとき、ゲームの名前から教えたのなど始めてだ、と言った。傑作だったのは、その直後に、もともと強いとは言えないヴァンが初心者のアーリンにボロボロに負けて、一千ラージも借金を作ったことだ。 精霊召喚を見せろとせがまれた時にはさすがに断った。どうして、と聞いてくるので、用事も無いのに呼び付けられたら、あんただった嫌だろう、と答えたら、これには納得してくれた。 かわりに、フォルクスたちが友人同士で遊ぶ仲間にも入りたがった。 試しに街の酒場に飲みに連れて行ってみたら、ジールを一口飲んだだけで真っ赤になった。 「そんな軽い酒で酔うのに、よく呑みに連れてけなんて言うな」 味の軽い、ほとんど水がわりに喉を潤すことすらある、ほとんど 「飲ませてもらったことなんてないもの」 たった三杯でそろそろ呂律も怪しいくせに、さらに手を伸ばす。 「こら、呑めんならやめろ。潰れても知らんぞ」 「そーしたら白ウサギ君が責任持って送ってくれるでしょ」 すると友人どもが茶々入れをする。 「そうだな、フォルクスは酒、強いから適任だろう?」 「ザルだもんな、ザル」 「きっと白色くんの身体の中の精霊さんが飲んじゃうんだよ」 「やかましいぞ、お前ら……こら、アーリン! もう止めろって」 結局その日、アーリンは完全に酔い潰れてフォルクスが背負って帰り、女子寮を管理する教官に散々怪しまれる破目になった。 「いいじゃない、ただの白ウサギ君へのいやがらせなんだから」 後日、苦情を申し述べるとそんな返答が返って来た。 「白ウサギ君て、なんで髪伸ばしてるの?」 ただでさえ目立つ真っ白な髪を、わざわざ伸ばして、べつに整えるでもなく適当に紐で束ねている。それもいい加減極まりなく、こぼれている髪がけっこうある。それをアーリンは不思議そうに眺めた。 「切ったら伸びてきた時にまた切るのが面倒だから」 実に物臭な動機である。 「うっとうしくない?」 「別に」 「見ているあたしがうっとうしいわ」 言うと、その時つけていた髪止めをぱちんと外して、フォルクスの髪に手を伸ばす。 銀の髪止めで、真ん中に安物の赤い宝石がついている。それをさっとフォルクスの髪に着けてしまった。 「それ、あげるわ。紐なんかよりは使いやすいはずよ」 「使いやすいったって……」 「いいじゃない。あたしの赤茶の髪に赤い宝石って、似合わないのよ。 それに、銀と赤でしょう? それは白ウサギ君の色だわ」 「女物だろう?」 「いつまでもうっとうしい髪を適当に扱ってる君が悪いのよ。 それに、これはあたしの、白ウサギ君へのいやがらせだからね」 ニコリと笑う。明るい悪戯っぽい笑み。 どうもこれに騙されている気がするフォルクスだったが、その髪止めは意外に使いやすくて、その後、ずっと使い続けることになる。 ・4・ 誕生日プレゼントが欲しい、と言われたのは、蒼の月の末頃のことだ。この頃になると、もうすっかり慣れてしまって、わかったわかったと適当に返事をした。 市で碧塩石を使ったペンダントを見つけた。その名の通り、塩岩の仲間で碧い色をしている。そこそこ綺麗だが宝石の内にも入らない安い石で、飾りに使うのは農村や下町の貧民層の娘などだ。また、錬金術ではたまに、この石を砕いた粉を実験で触媒に使うことがあった。 そんなに金があるわけではないし、どうせ普通の宝石など見飽きているに違いないアーリンには案外、こういうもののほうがいいかもしれない。気に要らなければ実験触媒に流用が利くし、誕生日は碧の月だと言っていたから、色も丁度いい。そう思った。 そのアーリンの誕生日。碧の月の二十日。 どういうわけだか、夕刻までアーリンの姿を一度も見なかった。今年の初めに出会ってから半年、それは随分と珍しいことだった。 (あれだけ大騒ぎしておいて、どういうつもりだ?) 別に心配なわけではない。せっかく買った物を無駄にするのもどうか、と自分に言い訳をして、フォルクスは彼女の寮の部屋まで訪ねて行った。 部屋には居るらしい。鍵はかかっていない。 入るぞ、と声をかける。と、じきに扉が開いた。 「白ウサギ君、どうしたの?」 アーリンは目を見開く。 「どうした……って。自分であれだけ大騒ぎしておいて、よく言うよ」 招き入れられた部屋の奥の書見台には、手紙らしき紙が数枚広げられていた。 フォルクスは、ろくに包みもしていない碧塩石のペンダントを差し出した。 「誕生日プレゼント。寄越せって騒いでただろう?」 もう一度、アーリンは目を見開いた。それから、ニコリと笑う。その笑い方が、奇妙に沈んでいる。 「あ、ありがとう。大事にする…」 予想外の反応に、フォルクスの方が焦った。 「するな、そんな安物。飽きたら砕いて実験の触媒にでもしちまえ」 もう一度、アーリンは妙に寂しそうに笑って、小さくかぶりを振った。 「なんだ? また俺への嫌がらせか? こんな安物って……」 「だって、初めてもらったのよ、誕生日プレゼントなんて。いままで、ずっと勉強と魔法の修行とで、そんなこと、考える暇もなかったわ」 言われて、フォルクスはきまりが悪くなってそっぽをむいた。 「……それに、もう、錬金術の実験は関係なくなるから」 屑の宝石ですらない碧塩石のペンダントを大切そうに胸に押し抱いて、アーリンは書見台の前に立つ。そこに広げた手紙を取り上げた。 「帰ってこい、だって。どうしてかも、書いてないのよ。ただ、ステンダーが大変なことになってるから、って。仕方がないわ」 話の内容よりも、全く勢いのないアーリンに、フォルクスは驚いている。しばらく言葉を失っていて、それをようやく絞り出した。 「なんだよ、らしくないな。もっとやりたい放題やるのが、あんただろうが」 「領主様やお師匠様に、わがままなんか言えないわ」 「そうじゃなくて、今……。 邪魔して悪かったな。俺は消えるから。そんな泣き笑いみたいな中途半端なの、あんたらしくないだろ?」 踵を返そうとした、そのとき。 「じゃ、動かないで、白ウサギ君」 動きを止める。アーリンはいきなり、フォルクスの腕を掴んで、正面から胸に顔を埋めた。驚きの余り動きを止める。その様子に気付いているのかどうか。 アーリンの肩が、小刻みに震えているのが判った。 「勝手よね。あと半年は、居られるはずだったのに。やりたいことも、知りたいことも、もっといっぱいあったのに」 たまに、嗚咽が混ざる。どう答えていいかわからなくて、フォルクスは黙ったままだった。 「……お別れパーティー、やってくれる?」 「いつもの安酒場でよければ」 「みんな、付き合ってくれるかな?」 「いつものやかましい連中が、きっと普段よりもやかましく騒ぎまくるぞ」 「きっとあたしが一番だわ。酔い潰れたら、ちゃんと介抱してよ」 「どうせいつも、俺の役だろう、それ」 アーリンが、ゆっくりと顔を上げた。 「白ウサギ君のお薦めの、クレイン師の講義、受けられなくなっちゃったわ」 「ノート写して送ってやるよ。親父の知り合いに、ステンダー方面に取り引き先のある人がいたはずだ。ついでに、って頼んでみる」 「……その髪止め、いい加減に捨てちゃいなさいよ。嫌がらせだって、言ったでしょう」 「嫌がらせなら、もっと使い難いものを寄越せよ」 それから、つい、と左手を差し出す。 「さっきのあれ、ちょっと貸してくれ」 受け取るとそのまま、碧い石に右の手をかざす。 「“森羅の王、万象の主よ、我フォルクス・バームの名に応えよ……”」 アーリンは目を見開いた。フォルクスがほぼ唯一、真剣に嫌がっていた精霊召喚の呪文だということが判ったからだ。 「“……我と汝らが約定に於いて、来れ水霊よ”」 フォルクスの手元で、きらきらと空間が光った。見ていると、その光が徐々に、石に入っていくように見えた。 フォルクスの手の中の光が消えると、安物の碧塩石が、かすかに輝きを増したように見えた。 「この水の精霊が、あんたについて行ってやりたいってさ」 言いながら、ペンダントをアーリンに返す。 「まぁ、精霊単体が石に宿っても、お守り程度だけど……大事にするってんなら、まだ大事にし甲斐が出るだろう」 くすり、とアーリンが笑った。少しずつ、元の笑顔にもどりつつある。 「そうね。ついて来てくれる精霊さんのためにも、大切にするわ」 それから、不意にアーリンはいつもの、悪戯っぽい笑顔になった。 「いいこと、白ウサギ君。ステンダー領の近くに来たら、絶対に寄るのよ。領内二位の権力者のお客様として、盛大に歓迎してあげるからね」 「寄るのは構わないけど、俺、平民の商人の三男坊だぞ。お客さまってのはちょっと……もっと身代相応にだな……」 アーリンは声を立てて笑った。 「駄目よ。これは白ウサギ君への、嫌がらせなんだからね」 ・5・ アーリン・クランが発った翌日、例によってヴァンがわざわざ寮のフォルクスの部屋まで訪ねて来た。正確に言うと、勝手に入ってきた。 「よう。寂しいだろ、お姫さまがいなくなっちまって」 「……まぁな」 フォルクスは書見台で書き物をしながら、ろくに顔も上げずに返事をした。 「いやに素直だな。やっぱり、ちょっとくらいは好きだった?」 「そういうのは別問題だろうが」 やっと顔を上げて、うるさそうに言う。 「だいたいお前は、どうして男と女なら好きだ嫌いだ、って短絡思考に走れるんだ。友達じゃぁいかんのか」 「……いい雰囲気だと思ったんだけどなぁ。フォルクスにしては、だけど」 馬鹿馬鹿しい、とため息を吐く。 「だいたいそういうこと気にしてる場合か、お前。学生部修了の目標、あと半年だろ」 「“事務屋”のクーバー師さえクリアすれば楽勝だよ」 ふうん、と返答をしながら、書見台をちらりと見て、フォルクスはにやりと笑う。 「じゃ、今は基本的には暇なんだな」 「まぁね」 「よし、このノート写すの、手伝え」 「は?」 指し出されたノートを見て、ヴァンは顔をしかめる。 「『魔法生命の無機物基盤体試論』だぁ? なんだってソーサレスの俺がこんな小難しそうなアルケミストのノート写さなきゃいけないんだよっ!」 「アーリンが受けたがってた講義なんだよ。ノート写して送る、って約束しちまってな」 「だからって、なんで……」 「貯まりに貯まったお前のポーカーの負け分、一万ラージ、帳消しにしてやるぞ」 しばし沈黙。ヴァンの頭の中が切り替わる。 「やる。やります。ぜひやらせて下さい」 よし、とヴァンにノートを一冊手渡してから、気分転換に髪を束ね直す。 束ねるのはもちろん、赤い安物の宝石の入った銀の髪止めだ。 【フォルクス番外:お姫さまと白ウサギ】― 了 --------------------------------------------------------------------- 初稿:2001年2月頃 改稿:2004年12月12日 |