過去の記憶



 ラジアハンドの海岸に面した村。こじんまりとした村の一角に竜人と有翼人の夫婦が住んでいた。夫は竜人で、黒い竜に変身ができる。普段は普通の人よりも体が弱いが人当たりは良く、良く笑った。ただ、足だけは速かった。妻は有翼人。夫とは反対に喧嘩では男にも勝つという。いつも夫を支えている。生計は自営業でたてている。果物専門の店で、近くにある自分たちの果樹園に行くと、旬の果物を収穫し、一番早く仲の良かった家族のもとへとどけていた。
 二人には子供が出来た。夫譲りの深すぎて黒く見える緑の眼と、妻譲りの黒い髪の子供だった。翼は二対。最初は気味が悪いと誰も近付かなかった。それでも、当たり前だ、と言った有翼人がいた。
「ハーフだもん。しょうがないんだよきっと!」
 当時五歳前後でほのかに紅い翼をもっている。それからまた店に人が戻ってきた。そう言ったのは夫がいつも一番先に果物を届ける家族の一番下の子供だった。名前をディーバ=フライという。
 ディーバは毎日のように夫婦の店に遊びに行ってはその子供を弟のように可愛がっていた。後に来る悲劇の時も、一番大きな声で泣いた。彼は夫婦から名前を聞くとそれを連呼してすぐ覚え、何回も何回も語り掛けていた。
「お前の名前はダートだぞ? 分かってるのか?」
「ディーバ、ダイト。伸ばさないの。」
「ダイト! 分かってるか?」
 無邪気に笑っている。末っ子のディーバは本当の弟のように思っていた。

「ディーバ兄貴!」
 それから二年目の白月中旬。ダイトは夜の海岸へ繰り出した。無我夢中で自分の家から抜け出してきたのだ。漁船の影に人影が見えて砂浜を駆ける。
「ディーバ兄貴ならここにいるぞ?」
 そういって現れたのはダイトの父親。両腕で暴れるディーバをしっかりと捕まえている。
「だ、ダイト、逃げろ〜!」
「分かった!」
 頷くと一目散に村の出口の方へ逃げた。ダイトにとってもディーバは親のことよりも大きな存在だったのだ。
 父親は慌ててディーバを降ろして、船の影に隠れていたディーバの親に渡す。
「待て! 夜に外に出ちゃいけないっていっただろう!?」
 ディーバの受け渡しにてこずったのと、思いのほか速かったダイトの足で思ったよりも村の出口に近い場所に来てしまった。
 ダイトはそこで止まっていた。途中で転んだのか汚れているので父親は先ず汚れを叩いて落してから抱き上げた。するとダイトは抱き着いて、震えていた。
「どうした?」
 優しい口調で言う。ダイトは高い小さな声で言った。
「あ、あれ……………」
 出口を指差した。
 野犬が集まっていた。どうやら時々この村に現れているのだろう。朝早く起きると犬の足跡が見れるときがある。
 困った。野犬は唸り声を上げて少しづつ近付いてくる。武器になりそうなものもないし、もともと普通の人より体が弱い。自慢できるのは足くらいのものだが、今はダイトを抱いている。
(逃げきれるだろうか。)
 戦えないのならば逃げるしかない。この村の端にはまだ起きている筈のディーバの家と自分の家がある。逃げ込んで、朝を待つしかないだろう。
 踵を返して走った。野犬たちが一斉に走り出した。
「大丈夫だからな、ダイト。」
 耳元でささやいていた。
「うん………ごめんなさい。」
「これからはディーバに言われても夜遊びにいっちゃだめだからな。」
「はい………」
「良い子だ。」
 そういった声は息切れをしている。もともと体力はあまりない。全力で走りながら話すのも辛い事だ。
 野犬が一匹飛んだ。爪が足に食い込んで、スピードが落ちる。
(もう少しなんだ……………)
 傷口から血がにじみ出ている。まだ浅い。
「ごめんなさい……………!」
 ダイトが父親の服を強く掴む。目から涙があふれている。
「分かったから……………」
 言った瞬間に痛みが足首を襲った。それから連続して痛みが増えて行く。それは徐々に上へ上がって行った。
 唐突に苦しそうに言った。
「目をつぶっていなさい。」
 ダイトは言われたとおりに目をつぶり、その後の出来事は知られていない。本人は何も言わなかった。

 しばらくして父親の声が聞こえた。
「ただいま、ジ…………。」
 ダイトは目を開けた。場所は自分の家で、父親の腕の内にいる。ただそれが、血だらけで――――
「あ………」
 絶句して凝視しているダイトを母親は寄せ、落ち着いた様子でダイトの父親を運ぶ。
 ダイトは絶句したまま立ちすくんでいる。
「ダイト、救急箱を持ってきて。」
 ダイトは呆然としている。
「一番下の食器棚にあるから、速く!」
 その声は明かに慌てている。父親を抱えてベットに横にすると、祈るように手を組んだ。


 次の日の朝。夜の間外に出ずにいた村の人たちが、そこら中に広がっている野犬の死体を見て、一番近くの家、ダイトの家にやってきた。
 ダイトの家では意識が戻ってきた父親が包帯に巻かれ、ベッドに横になっており、その横にはダイトの母親が付き添っている。ダイトはノックされたドアを開いたため、玄関のそばにいて、赤くなった目をしていた。
「一人でやったのか?」
「知りませんよ。」
 父親はそう言って笑顔を作った。包帯から血がにじみ出ている。
 朝といえど、この村にプリーストはいない。だから薬草や自己治癒力に任せて回復を待つ。しかし、野犬。
 村人の一人がダイトの母を呼ぶ。そとに連れ出すと村人数人が集まってきた。
「傷口が膿むかもしれん。」
「膿むだけならまだしも、血に野犬の細菌が混じってだな………」
「悪い事は言わないわ。町のお医者様か、プリースト様に連れていくべきよ。」
「それはそうなのですが……………」
「ダイト、じゃな。」
 村長がいた。杖を付いている老人である。
 母親は目線を落した。
「えぇ………まだ幼いのでつれて行くのは難しいでしょう。」
「なら、私の家で預かるよ。ディーバもいるし、大丈夫だろうさ。」
「しかし、手放すと、不安でしょうがない。」
 小さな声での相談はここで一回途切れた。
 沈黙が流れる。
 村長がその間に何処かへいき、戻ってきた。
「ならば人手を貸そう。家の孫がな、行っても構わんといっておる。家の孫は若いから体力はあるし、防衛法も覚えさせておる。旅は道連れじゃ、多いほうが楽しかろうて。」
 にこにこと微笑んでいる。後ろにはその村長の孫が控えていた。
 母親は微笑む。
「ありがとうございます。では、今日のうちに。」
 集まった村人たちは全員頷いた。

 父親は歩けない。傷は重点的に足に集中しているためだ。父親を村長の孫が背負う。
「馬がいればいいのだがの。」
「これで十分ですよ。荷物は殆どありませんし。」
「すまんな、何せこんな村だからのぉ。」
「平和でいいですよね。」
  "いままでは "
 見送りの大人たちをかきわけてディーバが前にでた。ダイトの目の前に立つ。
「ごめんな。」
「うん?」
「俺が悪いから、その……………ごめん。」
 ディーバはうつむく。
「反省しているならもう少し落ち着けよ、ディーバ?」
 ダイトの母親の声である。微笑んでいる。だからディーバも開放されたように頷いた。
 ダイトは泣きはらした顔で笑った。
「いってきます! 兄貴っ!」
 四人は殆どの村人が見送る中出発した。
 四人の中で一人だけ小さなダイトは小さな手を大きく広げて一生懸命に手を振っていた。


 同時のラジアハンドにはひっそりと住む "何か "がいた。神力国家のラジアハンドには普通生きているわけのない "何か "。

 村から一番近い街へは歩いて三日かかる。
 一日目。彼らは夜になるまで歩いた。歩き通しだった。幼いダイトは途中母親に抱き上げられ、そのまま進む。休憩はほんの少しずつ。父親は村長の孫の背中で苦笑いをし、時々その苦々しい笑いも消えた。夜はもしも雨が降っても大丈夫なように木の下にテントを張った。テントの横で炎が燃える。ぼうぼうと燃える炎の回りに四人は集まって、少し遅い夕食を食べた。そのあとダイトは疲れからすぐ床につき、大人たちはまだ炎の回りにいた。
「すまないね。どうも体が弱くて。」
「いいえ。生きていてくれただけでも十分ですよ。ねぇ? 奥さん。」
「そのとおり。」
 母親は炎に薪をくべる。炎の内でぱちんとはねる音がした。
「彼方が生きていてくれなかったら、ダイトも死んでいただろうし、私もきっと死んでいた。」
 もう一本薪をくべる。
「生きてね。」
 そう言って微笑んだ彼女には不安が襲っていた。何所からくるでもない不安があって、それを振りきるために微笑んだ。
(この、空気が、きっと、そう。)
 言い聞かせていた。またあの村で平和に暮らせるのだと。
 父親は微笑み返す。
「あたりまえだよ。」


  "何か "は走っている。四肢を使って獣のように速く。暖かな温度のある場所へ。
(いるいるいるいるいるいるいる)
  "何か "は興奮している。人間のような容姿をした "何か "はその目を広げ、真直ぐに前を見つめている。そして、止まった。
(ほらいた。あぁ、よりどりみどりだな。有翼人に人間に竜人かぁ!)
 草むらに身を沈める。
(よしっ食おう。)
 気配を気取られないように、身を沈めたまま少しづつ間合いを詰める。
 ぼそり、ぼそりと口で何かを言っている。
「我………………………………………のもと…………………せ。」
 ニヤリと口元が変形した。
「デット・ソール・イータ」
 その瞬間に母親が立ちあがり剣を手にした。何かを感じ取っている。
(あの女だけだ。)
  "何か "はこみ上げてくる笑いを止められなかった。徐に立ちあがり大声で笑った。
「クク………ハハハ…………………アーッハっハッハッハ!」
 大人たちは一斉にその方向を向く。しかし見えたのは黒い物体だった。見えない。何があるのか、誰にも見えないのだ。
「死ね! 苦しみながらもがきながら安楽死っ! いいねぇ、君ら珍しい死に方だよ!」
「誰だ!」
「俺かい。俺はね、 "地下より来たりしもの "だよ。憶えなくて結構。君ら、もう死ぬからね。」
 大人たちの周りには黒い魔方陣が描かれていた。 "いつの間に "ではない。あの魔法は魔方陣がかかれるものだったのだ。死への魔方陣。
 大人たちは倒れた。体の感覚が無くなって行く。
「君らの魂は魔方陣が吸収してくれて、俺の活動力になるんだ。ありがとう、これでまた生き延びられる。」
「そんなこと……………!」
「…うるさいから死んどけ。」
 父親の顔を蹴る。体ははねて、血を吐いた。
 母親が最後の力で剣を投げて、 "何か "の背中に突き刺さった。そこで魂は完全に吸い取られ、事実上 "死んだ "。
  "何か "は体から出ている赤くなった剣を見る。そして軽々と抜いて見せた。
「痛いなぁ、でもこの身体ないに等しいからいらないし。」
 そういって大人三人分の魂を吸い取った魔方陣を手元に呼び寄せ、呑んだ。ニヤリと口元が歪む。
「おいしい。」
 黒くて何も見えなくても、嫌悪を感じさせた。
 『純粋な子供には見える』というわけでもなかった。
 ダイトはテントの中で眠っていたが、ふと目が冷めて隙間からその様子を見ていた。
 怖かった。自分の両親が死んでいく様子を眼の辺りにし、その魂を呑んで、美味いといっている "何か "がいたからだ。逃げ出したかった。でも、出られなかった。
  "何か "はテントを見つけるとすぐに覗いている目を発見した。
 テントを引き裂く。すると発見したのは二対の翼をもった子供。まだ二歳程度の有翼人だ。
  "何か "の腹の内でバチンと音がした。 "何か "は血を吐く。
『ダイトに手を出したら許さない。』
 女の声だった。 "何か "は口についた血を拭いた。
「母は強しねぇ。ダイト、母さんは強いんだな。」
  "何か "はダイトを持ち上げた。
 腹の内に言った。
(命なら助けてやるよ)
 ダイトは見えない "何か "に必死で抵抗しているが、所詮見えもしない相手に向かっていく二歳児の抵抗と言えば泣くことくらいのものだ。じたばたと手足をばたつかせ、声を出さないように泣いている。
「寝ろ」
 唐突に言われたその言葉にまるで操られるように、ダイトは死んだようにねむった。
 それ以降のダイトの行方は掴めなくなり、大人三人だけの死体が見つかった。父親以外外傷はなく、眠ったように死んでいた。
「ダイトもきっと……………」
 死体が帰ってきた村で誰かが呟くと、ディーバが甲高い声で叫んだ。
「うそだ! 絶対に生きてるんだ! きっとあいつ落ち着きがないから、はぐれてて無事なんだ! きっと絶対に生きてるんだ!!」
 そう言って思いきり泣いていた。
 ほのかに紅い羽根が一枚だけ落ちて、風に飛ばされて何処かへ行ってしまった。

 ダイト、もといアザーには空白の六年間がある。これは三十年まえの話で、アザーが実際に憶えているのは二十二年間。行方不明になったのは二歳の時で、見つかったのもそのくらいの歳の時で二十二年前。足しても二十四年。六年間が空白となっているのだ。では彼はその六年間、どうして生きていて、どうして成長していないのか。


 三年が過ぎた。誰もダイトの生存を信じてはいない。ただ一人、ディーバ以外は。
 当時ディーバは十歳になる。ディーバは身支度を整えている。
「どうしたのディーバ。旅にでも出るつもりかい。」
「あぁでるよ。」
「まだ信じてるのかい。」
「あぁ信じてるよ。絶対に生きてる。」
 最低限の旅の道具を持って、最後に使い古された槍を手に取る。
「その為に強くなったんだから。」
 ディーバの母親は短く息を吐いて笑った。
「ガキがまだまだ弱いよ。死んで帰ってきたら家に入れてあげないからね。」
「分かってるよ。」
 ディーバは家を出た。それから墓場によって手を合わせると、駆け足で村を出た。

 ディーバが村を出た頃、二対の翼を持った子はアスリースにいた。
 一歳も歳をとっていない。
「テーヴァに行こう。」
 そう言った声は、三年前、魂を食べていたあの "何か "。

 その二人が再会したのは一年後のテーヴァ。最悪の再会だった。
 ディーバはラジーバルを横断してとうとうテーヴァまでついてしまっていた。さっそく聞きこみを始める。最初はぎこちなかった聞きこみも一年も旅をしているとなれてしまっていて、すらすらと口が動いている。早速情報を手に入れた。
「その子供なら、変哲ばあちゃんに拾われて今日は海が見渡せる高台に行ってるよ。」
「どこにありますか!?」
「あぁこっからまっすぐいったとこ。」
「ありがとうございます!」
 ディーバはすぐさま走った。疲れていたのも忘れて走っていた。
 高台につくと丁度ダイトが変哲ばあちゃんなる老婆に歩み寄っているところだった。だが様子が変だ。
「『あ………あ……』」
 その声は子供の声ではない。老婆の声でもない。ディーバの声でもない。ダイトの形をしたものは形相を恐ろしいものに変えていて、老婆に襲いかかろうとしている。
 老婆の口が動く。
「可哀相にのぉ………まだこんなに幼いというに……………」
「可哀相?」
「おや? 誰だい?」
 老婆は目線を後方にいるディーバに映して、また前を向いた。
「知り合いかね。」
「うん、容(かたち)は。」
「はっはっは! はっきり言うね。その通りだ。こいつの名前は、たしか―――」
「『そんなことはどうでも良い! 殺すなら殺せよ、この子供と一緒にさ!』」
「うるさいのぉ……たしかソールイーターとでもいったかのぉ。」
 老婆は片手を頭より上に上げてディーバに来るように合図した。手には呪札。一枚を片手でそのソールイーターに投げた。苦しそうな声をあげた。
 それは壊れたように笑い出す。
「『殺しちゃえよ……………そうすりゃもう無害になるぜ。この子供と一緒に海に落しちゃえよ。俺は命だけは救ってやった。あははははは……………お前らこいつの母親の亡霊に殺されちゃえ。』」
 それは仰向きに倒れて空を見上げ、壊れてように笑っている。
 老婆は眉をしかめた。呪札をもう一枚とり半分に裂き、半分をそれの額に張りつけた。そのとたん、それはもがきまわり、苦しそうな声をあげる。
「お前さん。海に落してやれ。この子供、誰だか知らんが、母親も食われて、そいつに身体を乗っ取られてたんじゃ生きててもうれしくはなかろう。情けをかけるなら、落してやるんだ。」
 ディーバは目線を落している。変わり果てたダイトの姿が目の前にある。しかしそれはダイトではない。
 徐に一歩目を踏み出す。
(生きていたのだろうか。生きているといえたのだろうか。―――――分からない。)
 二歩目を踏み出すと転がっているそれを力いっぱい持ち上げて、三歩目を踏み出した。
 この高台の下は海。じたばたとしているそれは、自分が弟だと思っていたダイトと同一人物であってそうではない。
 放り投げるとすぐ踵をかえした。
「よくやったの。」
 老婆はそういってディーバの頭を優しくをなでる。ディーバはその肩で声をあげて泣いた。
 そしてディーバが気付いた時にはその老婆は消えていて、風がささやいた。
『信じることはいいことじゃ。』
 少しだけディーバは黙り、一人で頷いた。
「一回帰ろう。またいつか探しにいこう。」




 それから二年後のラジアハンドの海岸で、二対の翼を持った子供が呆然と夜空を見上げている。全ての記憶を無くして、名前さえも、故郷さえも、家族さえも大事な人も忘れて。
 黒い翼の有翼人がその前に舞い降りると、座り込んで、話しこんで、それから連れて帰った。
「今日からお前はアザーだ。」
 二年前に海に投げ込まれ、二年間海を流れていたその子供が今生きているのは、『可哀相にのぉ』と呟いた老婆のおかげであろう。故に記憶がないのは運命だ。

 現代に彼は今だ生きている。過去の記憶を、何所かで手に入れることを願いながら。