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・0・ 「それでは―――。 ルンド、グレッタ、両最高位騎士とも異存無く承認、ということで、エーリック・ステンダー予備役騎士の、第六軍軍団長登用案を、正式な人事案として申請させてもらう」 ラージバル歴一〇〇〇年碧の月一七日。 揉めていた、長く公式に行方不明であった状態から帰還したステンダー領王家世嗣エーリック・ステンダーのラジアハンド騎士団への復帰については、最高位騎士の小会議においての、ワルター最高位騎士のこの一言で、ようやくに決着がついた。 たとえ、かつて騎士団に在籍していた当時には将来を嘱望されていたとしても、復帰後最初から一軍団指揮官というのは、異例の抜擢である。 理由は、いくつかあった。 第一には、身分の不釣り合い。経歴どおりに再び下級位からはじめさせたとして、そう遠くない将来には代々の王国の重鎮であるステンダー領王家を継ぐと判っている、それもとても子供とはいえない年齢の青年を顎でこき使えるような司令官は、そうはいない。 第二に、実力や外部での戦績との不釣り合い。たしかに『エーリック・ステンダー』としてはほとんど何も成しておらず、むしろ悪い評判が先に立つほどであるが、公式には行方不明であった時期に、“傭兵エーリック・スタン”として国外で挙げた功績のいくつかは、知ろうと思えば容易に知ることができるほどには大きなものだった。 そして、第三に―――これが一番、大きい―――騎士団全体の、圧倒的なまでの人材の不足である。 この時点での騎士団の構成、まず、その総括たる最高位騎士がワルター、グレッタ、ルンドの三名というのは、ほぼ最低限の人数。しかも、そのうち二名までが二十代の、ともすれば若すぎるとさえ言われかねない将官である。 この際、多少の性格の難には目を瞑ってでも、一定以上の頭なり技量なりを持つ人物は積極的に使わなくてはもったいない、と言いたくなるほどであった。 ―――これ以前、ラジアハンド王国における騎士団他全軍が純粋に軍事力として一定の充実を見せていた、その最も近い時期は、およそ五年も前にさかのぼる。 人員の構成など、目に見えての弱体化の直接の原因となったのは、かの諸々に悪名高き“ステンダーの災厄”と、その世情の不安の乗じて起こったいくつかの周辺事件である。 だが、あるいは、今にして思えば、というふうではあるが、それらの予兆としての陰りは、その少し前から、見えていたのかもしれない。 ・1・ ラージバル歴九九五年、ラジアハンド王国ロポルドゥムール地方において、後に『ロポルドゥムール平原の魔法塔戦役』と呼ばれる戦いがあったのは、蒼の月の後半から碧の月の前半にかけてであった。 国政へ不満を訴える、と称するソーサレスが多数集結して、王国主要港の一つであるロポポを 第一回鎮圧派遣軍は騎兵五〇〇を中心とするノートル・ネグローニ軍団長 ――――が。結果は、惨敗であった。 主な敗因は、蒼月という時期柄、ソーサレスは魔力が低下している、と甘く見たせいもあったが、それよりも、神力国家の騎士団故に、プリーストや彼らと組む方向の戦い方に慣れた騎士たちが、徒党を組んだソーサレスの戦術というものを解しにくかったことであった。 ロポポ近郊の砦塔に集結した魔法使いたちも、考えもなく、わざわざ蒼月に事を起こしたわけではなかった。彼らは、彼らに有利な地形を砦塔によって作りだし、さらに騎士団の心理的な余裕、というより油断を利用したのである。 ほとんど初期の段階から、ノートル・ネグローニ軍団は苦戦を強いられていた。だが、その悲鳴を無理にこらえ、「戦線不利・救援を請う」というウェノの発信を蒼月末日まで引き延ばしたのは、一重に、そのころに毎年恒例に開かれる舞会のためであった。 ラジアハンド王国の政治的名誉に視点の重点を置いたノートル軍団長は、各国主要の要人が王都に集まっている中へ、敗戦の報をさらすのを良しとしなかったのである。 遅きに失したノートル・ネグローニ軍団長の救援要請を受けて、『ロポルドゥムール平原の魔法塔戦役』第二回鎮圧軍の派遣が王命のもとに決定されたのは、この年の舞会からわずか三日後である。 総指揮官はベルナート・クラン最高位騎士。麾下、ソーサレス大隊を含む第八軍。それに、軍団長としては最年少ながら攻勢の強さに定評の高いグレッタ軍団長の第二軍と、ときに冷徹をこえて冷酷とさえ見える着実な指揮で安定した力を示すクラウス・ステンダー軍団長の第九軍とが従軍する。 ベルナート最高位騎士はこの年、五十四才。赤茶の髪と目の色のせいもあって、妹でステンダー領王太子ユーサーの妻であるファスティナによく似た印象を人に与える容姿をしていた。ステンダー領王家一門に連なるクラン伯爵家の出で、“神力国の魔法騎士”の異名をもって知られるとおり、ソーサレスの魔法学に精通し、自身、魔法を繰ることもできるという、一風変わった騎士である。また見かけや性格とは裏腹に、広い視野と緻密な理論を構築できる才とを持っていて、剣を振るう、いわゆる騎士としての能力も低くはないが、彼が最高位騎士に抜擢されたのは、どちらかといえば魔法に対する見識や、戦術・戦略家としての能力を買われてのことであった。 「まぁ、何だな。ソーサレスの、しかも徒党を組んだのに対するのに、ろくに主要の魔法の種類も名も知らんような、しかも最初から軽視するに決まっている、教会騎士上がりのノートルに相手を任せよう、というのがまず、間違っていたのだ。 いかに魔力が弱まり、相対的に神力の強まる蒼月とはいえ、魔法が皆無になるわけじゃない。これはもともと、俺たちの仕事だったのさ」 麾下の腹心、ソーサレス大隊長リフィディアーナに語ったベルナートが嬉しそうなのは、そもそも彼が最初からこの鎮圧に派遣されるよう志願して、一度は拒否されていたからでもある。 「戦況が苦しくなったらやせ我慢せず、いつでも救援を請うてかまわんぞ。私は快く助けに行ってやるからな」 ようやく出番が回ってきた、と上機嫌のベルナートに、半ば負け惜しみのように揶揄を投げかけた声は、同じく最高位騎士のひとりであるワッカーログであった。ベルナートよりも八歳年下の四十六歳だが、最高位騎士としては彼の方が先輩である。 ワッカーログとしては、同じ教会関係の出身のノートル・ネグローニ軍団長の惨敗を苦々しく思っているところへ、おそらく確信犯で小馬鹿にするベルナートの口のきき方がしゃくに障ったのである。 「その気持ちだけをありがたく貰っておいて発憤材料にさせてもらうおう。 最前線でまで、辛気くさい聖典の朗読や祈言などを聞かせられてはたまったものではないからな。貴官にそんな事態にされてしまわんよう、さっさと、片をつけることにする」 だが、別にそうでなくても、この二人の不仲と対立と言い合いは騎士団や王宮では有名だった。高位武官たちは、謁見直後でもお構いなしの二人の悪口のたたき合いにすら、いい加減、慣らされてしまっている。 同僚でもあるワルター最高位騎士は軽くため息をついて「毎度毎度、飽きもせずに同じ話ばかりで、仲の良いことだ」と、冗談交じりに嫌味を示し、その友人でもあるラジール警備隊長は「よくもお互い、同じことについて、あれだけの 最高位騎士のなかでも主席であるヴァルザークなどは 「奴らが何の文句も言わずに、お互いに真剣に協調し、信頼を公言して協力するようなことになれば、そのときこそ由々しき事態、というべきじゃな。正規騎士団のみならず、ラジアハンド国軍がよほど危機的な状況にある時か、さもなくば天変地異の前触れか、どちらかに決まっている」とまで言う始末である。 この頃、魔法戦術・戦略の専門家がベルナート・クラン、という言い方をするならば、神法を利用する騎士団の戦術・戦略は聖ブライ教会の孤児院から有力貴族であるハイネスト子爵の目に留まり、その形式的な養子を経て騎士団へはいるきっかけを経た、とうい経緯を持つ、ワッカーログであった。 この二人は、騎士団各個軍団以上の戦力が必要なときの総括司令官の資格を持つ数名の最高位騎士の中で、他とはやや色を異にしている、というところは共通していた。 つまり、純粋な騎士たちの軍団総括というよりも、魔法と神法、それぞれが大きく関わり中心となる戦、一種の特殊戦況が生み出されたときにこそ、真価を発揮するのである。 九九五年当時のラジアハンド王国において、国王直下の軍隊の充実に原因なり理由なりを見いだそうとすれば、それは純粋に抱える騎士たちの実力などもさることながら、こうした、各種の特殊な戦況における専門家の存在も大きな意味を成すだろう。 ただ、ベルナートとワッカーログのような、魔法や神法に精通しつつ騎士としての資質なり、知識や経験を兼ね備えるような人材がほぼ同時期に現れそろったのは、ほとんどが偶然のなせる技であった。 ―――特に、ソーサレスの部隊の扱いは、ベルナート個人の力に影響することが顕著であった。 極少数であった部隊をベルナートが自ら麾下に組み込んで、増強・再編成をはかり、軍団とは独立して大きな力を発揮するプリースト独立大隊に匹敵する、大きな戦力となる隊に仕立て上げていたのだが、後年、ベルナート・クランが軍から居なくなるのとほぼ同時に、再び力を失うことになる。正規軍団とは別個の隊へと外されたが、プリーストたちのように独立大隊として成立するのではなく、逆に権限も人数もことあるごとに削られていき、人員の増加にも制限がかけられて、規模の増加どころか減少の一途を辿った。 そして再び、せいぜい特殊任務班とがよいところ、という規模と性質に、変えられて行くのである。――― もっとも、ベルナートとワッカーログの対立意識は、その似たような役割から出るのか、ただ単にうまが合わないだけなのかは、おそらく当の本人たちにも判ってはいない、というのが真相なのではあるが。 「よく言う。 「…………腹心の大隊長のリフィディアーナと、次席副官のロートがたまたま女だというだけだろうが。侍らせるどころか、手を出しても粉をかけてもいない」 「判るものか。卿の身持ちの悪さの昔からの悪評は、宗教戒律云々のはるか以前のもので、何故に神罰が下らんのか、実に不思議だ」 「馬鹿を言え。俺ほど妻を愛している男は他にはいないぞ。この点、神々なんぞに文句を言われる筋合いは絶対にない。 たかが教典解釈と、今時、滅多にだれもやらんような生活戒律の差異だけで奥方に離縁申し渡して追い出した自分の無慈悲を棚に上げて、勝手に人を色魔呼ばわりせんでもらおうか」 臆面もなく、ぬけぬけと、というのにこれ以上ないくらいの台詞であるが、嘘ではない。確かに、ベルナートは三〇代までは独身でやりたい放題で、高級娼館は言うに及ばず、宮廷の遊び上手な貴婦人から下町娼街の技館まで、出入りした場所の数すら把握しきれない、というほど艶聞に名をはせた男であった。だが、四十才の時に、ある社交場で出会ったクラリアットの中級貴族の二十二才も年下の―――つまり、その頃十八才の―――娘と出会って結婚したとたん、自称するとおり、右に出るものの無いほどの愛妻家に転じてしまったのは事実である。 ―――妻に選んだ娘の年齢にも、だが、あまりの豹変ぶりに、彼を知るほとんどの人間が呆れ果てたが、心境の変化を問われたときに、彼が答えた台詞は、さらに人を呆れさせた。曰く。 『俺は女性を泣かせたことは一度もない。 遊女や、そのつもりの奥方・未亡人相手なら下手に本気になっても相手を困らせるだけだし、籠絡して恋愛沙汰に巻き込んで、上乗せで困らせるなど、とんでもないことだ。 逆にそうでない女性にはきちんと、それなりの対応をしてきたし、妻は真剣に愛した人だからそばにいてほしいと思った。そうするからには、やはり彼女を、泣かせたり不安にさせたりしない極力の努力をするのは当然だろう。 豹変と言うが、俺は首尾一貫、我ながら立派なものだと思ってるのだがな』 声を低めるでも照れてでもなく、平然と、堂々と公言してのけるものだからなおのこと、これに呆れなかったのは、それこそワッカーログくらいのものであったという。別に彼の信条を理解したり、人柄を信頼していたわけでは全くなく、『あの男は他人を呆れさせるための存在だ。別に珍しいことではない』というのが、理由としての言であった。――― 「そう思うなら礼拝場でまで女に愛想を振りまくのはやめるのだな。 ロート副官、君は剣で男十人続けてうち倒して勝ち抜いたそうだが、この男が滅多なことをしでかしたら、その剣技をこの男の背中へ発揮してかまわんぞ。責任は私がとってやろう。居なくなれば少しは世の中が静かになるかもしれん」 「いいか、ロート。ワッカーログの言う“責任”という言葉は、最終的には神々の導きに押しつける、という意味だから聞き違えるなよ。 おい、ワッカーログ。貴官、俺の副官を惑わせんでもらおうか。 第一、仏頂面や睨みつけて挨拶してどうする。挨拶は丁重に愛想良く、は、礼法の基本だろう」 「礼法なんぞ気にしたこともないくせに、よく言う。それに、何事にも限度というものがある、ということを、卿は知らんのか、ベルナート。 そもそも、まず卿の存在自体が、くだらん冗談で副官殿を困らせる最大の要因だろうが」 突然に話題のネタにされてしまって、ベルナート最高位騎士の若い次席副官、といより、半ばは彼が弟子のつもりで側に置いて戦術を教え込んでいる女騎士ロートは、どう答えていいか判らずに目を白黒させてしまう。この年の内にようやく二十歳になる、という身では、適当に上手な対処、というのも咄嗟に浮かぶものではない。 何よりも、出征の決定と下命の謁見の直後である。―――もっとも、彼女の上官もその言い合いの相手も、こういう半ば公であるような場だからといって遠慮するような殊勝な性格はしていないが。 「気にしちゃダメよ、ロートちゃん」 二十歳になったばかりのロートの、ちょうど倍の年のリフィディアーナは慣れた調子で軽く肩をすくめて言った。青みがかって見える銀髪の、女性らしさとたくましさを併せ持った彼女は、所属は騎士団であるが、本来はソーサレスである。もともと冷遇されがちだったソーサレス部隊を、ベルナート最高位騎士が就任の際、その麾下に組み入れて、彼女をその大隊長に抜擢したのである。 現在はともかくも、結婚前の、艶聞家であった頃のベルナートの愛人であったことがあるとか、いや、愛人経験の相手はかのラジール・レイドルフ警備隊長である、だとか、いや、実は両方ともそうなのだ、とか、いろいろと噂のある女性だが、それを得意とするでも、いやな顔をするでもなく、艶然と笑んで流して、噂をする男をたじろかせてしまうような余裕を持っている女性だった。 「どうせね、放っておけば、勝手に言ったことには勝手に自分たちで結論をつけて完結させてくれるわ。あの“おじさん”たちの言うことをいちいち本気で相手にしていたら、きりが無いわよ。男の言うことなんてね、仕事の話以外は、適当に流しておくに限るわよ」 片目を瞑って悪戯っぽく言うリフィディアーナには、少なくとも当分はかないそうにない、と思うロートだった。 ・2・ ベルナート最高位騎士の指揮下で三個軍団がロポルドゥムール平原の前線本陣に到着したのは、九九五年碧の月十日の昼を過ぎた頃である。 司令官本部となる天幕で、グレッタ、クラウス両軍団長を従えて、戦況を、と要求するベルナート最高位騎士の前に現れたのは、暫定的にその麾下に配属されていた、本来は教会のために王宮から派遣されている教会付派遣騎士隊のジークラング隊長であった。 「……ノートル軍団長はどうした?」 こういう時には軍団長か、少なくとも副団長が彼の前にたつのが筋のはずである。 ベルナートの問いに、ジークラングは敬礼した。淡々とした、敬意も、その逆の感情すらも見えない態度で、同じような淡々とした声で告げた。 「八日に再度、戦陣の衝突がありました。碧月に入り敵軍のソーサレスの攻勢がさらに激化、一時、総軍が危機的な状況に入り、乱戦の中で副団長殿は行方不明になられ、そのままです。その後、撤退の後陣で軍団長殿の直属部隊は壊滅。軍団長も、戦死されました」 わずかな沈黙の後、そうか、と呟くように言ったベルナートの赤茶色の目は、かすかな感情に揺れた。続けて、「おかしな気を回すからだ、馬鹿が」と小さく呟いた声を、傍らにいたグレッタ軍団長は聞いたような気がしたが、定かではない。 軽いため息の後に、彼が周りに聞かせるために言った言葉は、その次であった。 「聞いたか、グレッタ、クラウス。どうやら俺たちは、迂闊に死という退路に逃げ込むこともできなくなったらしいぞ。 なにしろノートル・ネグローニといえば、俗っ気無縁の、何が楽しいのだかよくわからん、筋金入りの狂信者だ。女遊びや賭博はおろか、たまの暴飲暴食もささいな悪口や喧嘩も、何もかもを背徳と呼んで説教して歩くような男だったからな。 あの堅物が先輩として待ちかまえているかと思えば、死者の国も窮屈そうでいかん。是非とも、当分は避けて歩きたいものだ」 それからベルナートは、軽く黙祷をしてから、声を低めた。 「まぁ……あの男も、軍神セラフュラーヌの旗の 素直でない追悼だ、とグレッタは思ったが、このベルナート最高位騎士が素直に哀悼の念を示す姿、というのも想像しがたかったので、クラウスともども黙っていた。追悼に紛れてこきおろされた枢機卿の支持者であるジークラングも黙っていたが、こちらは一瞬、やや不快そうに頬をふるわせた。 「残存兵の統率役を誰か推薦してくれ。旧ノートル軍団には引き続き、独立軍団として俺の指揮下に編入し、その働きを持って軍団長の無念の追悼としてもらう。事務関連の諸般の手続きの処理はデルオとロート―――俺の主席副官と次席副官の両者に一任する。 ―――それではジークラング殿には、名誉の殉職を遂げたノートル軍団長に変わって、そのほか詳細な戦況を聞かせてもらおうか」 『ロポルドゥムール平原の魔法塔戦役』第二回派遣軍は最高位騎士の指揮下、四個軍団及び二個の独立隊で構成された。 総司令官はベルナート・クラン最高位騎士。麾下軍団にはリフィディアーナ大隊長指揮下のソーサレス大隊を抱える。 第一回派遣軍から引き続き現地で働くことになる旧ノートル軍団の暫定指揮官には、軍団長の参謀長をつとめていたイースフ・ヴィークという中年の騎士が務めることになった。 ――――余談であるが、イースフもステンダー領の出身者で、その点ではベルナートとうまく折り合うことが期待された。反面、その不行状と不真面目と不道徳を最も苦々しく思っているうちの一人でもあって、必要以上の迎合の心配もないだろう、と期待されてもいた。―――― また同じく、プリースト独立大隊と、それに付随する形で、ジークラングを隊長とする教会付派遣騎士隊も、第一回派遣軍から引き続き戦場にとどまり、最高位騎士指揮下に入る。 そこへ、第二回派遣軍の新たな戦力として、ベルナート最高位騎士直下の軍団の他に、この当時最年少、若干二十三歳のグレッタ軍団長の第二軍と、ベルナートの甥にもあたるクラウス・ステンダー軍団長の第九軍の二個軍団が加わる。 グレッタも若いが、クラウスも未だ二十七歳の若い司令官である。他に人材が無いわけではないが、ベルナートが敢えて、彼ら、若い軍団長ばかりを選んだのは、能力云々もさることながら、人間関係に影響するところも大きかった。 ラジアハンド王国は神力国家と呼ばれる、教会を中心にプリーストの勢力の大きな国である。その影響は王国の軍にも十二分に影響し、戦力としてのソーサレスでさえ、どうしても軽視されがちになる。 少年時代に騎士へと転向し、実力も相応の物であるとはいえ、素質的にはソーサレスの色が強いベルナートもまた、やはりそうした傾向に無縁ではいられない。 最高位騎士、という地位もあって、形式上はほぼ完全な敬意は払われるし、平素は当人の図々しいまでの態度のためもあって、端からあからさまにそう見えることはないのだが、だからこそ、内心で軽視や反感を抱く者は少なくない。また、そうした感情を見え隠れさせて面従腹背で望む部下を、全く意に介せずに快く使うことができるほど、ベルナート自身の性格や感情は、人間個人を突き放せるものではなかった。 『無理矢理に従わせたって、戦果も実績もろくなものが上がらん。だいたい、腹の底で馬鹿にされながら手伝ってもらうくらいなら、一人でやった方がまだましというものさ』 肩身が狭いのを、そう嘯いて自分で茶化しながらも、結局、ベルナートが気兼ねをせずに気持ちよく命令を下すことができ、従う側も他意や反感なく受け入れて実行、時に意見できる軍団長、となると、どうしても限定されてしまうのである。 もともと神力国家ラジアハンド王国に於いて、ソーサレスとプリーストの対立、というのは、根が深い。『ロポルドゥムール平原の魔法塔戦役』そのもの、ソーサレスによる集結・力による意見陳情もそれに端を発したものであるが、二度にわたって派遣された鎮圧軍の内部での軍議の雰囲気の方が、あるいはよほど、対立の色が濃かったかもしれない。 「―――とにかく。 貴官ら第一回派遣軍が徹底的に惨敗を喫したのには変わりはない。それも、プリースト独立大隊を擁しながら、その神法に対して相対的に魔力の方が弱い蒼月であったにもかかわらず、だ」 第一回派遣軍の被害損失が予想以上であったこともあって、ベルナート最高位騎士がその残存兵の麾下への再統合をはかるために強硬姿勢に出たのも、原因のひとつではあった。 「すでに碧月に入って十日が経った。魔力、神力の力関係は逆転し、その差は日を追うごとに強くなる。従って、神法の利用を中心とするノートル軍団長の作戦方針はすでに無効として白紙撤回をする。 以降、基本戦術としては、敵ソーサレスの魔法は可能な限り、発動そのものの機会を押さえ込み、グレッタ、クラウス両大隊を中心とした騎兵隊の打撃戦力をもって敵陣を崩す方針をとることにする。 ソーサレス大隊を中心に、我が軍団はその前線支援を、プリースト独立大隊及び教会付派遣騎士隊には後陣からの支援としての協力を願う」 これは、責任者を選出したと言っても、敗戦直後の軍隊でもあるから、休養が必要なのが当然ではあるが、軽視された、と思われないでもない。 「リフィディアーナ大隊長。麾下のソーサレスから人員を割いて、各軍団内の全大隊へ、魔法対処の顧問官として一名づつ、派遣してくれ。 各軍団長、大隊長には、まず彼らの見識と意見を尊重することを心してほしい」 「……お言葉ですが、ベルナート・クラン最高位騎士閣下」 早速に、ジークラングが発言をする。ベルナートは内心で「そら来た」と呟いた。ご丁寧にもっとも長い呼び方をするのはこのさい、嫌味にしかならない。 「それではプリーストに、ソーサレスの下に入れ、とおっしゃるのですか」 「判断の参考材料としての意見だ。立場上下の問題ではない。 魔法で火球が飛んでくるにしても、何らかの現象が起こるにしても、その正体を現場の各隊で判断できないのでは、話にもならん。いつもいつも、神々の啓示とやらが貴官らにそれを教えてくれるわけでも無かろう」 「承知いたしました。派遣されてきたソーサレスが、下手に増長しないことを願う次第ではありますが」 これが軍議でなければ、ベルナートはさらに『“下手な増長”とやらは貴官ら教会関連者の得意技だからな』とでも言い返しただろうが、どうにか自制心が功を奏して、睨みつけるだけですんだ。 だが、こうしたやりとりは一度ではすまなかった。 ジークラングのみならず、旧ノートル軍団や教会付派遣騎士隊、プリースト独立大隊からはいちいちに反論や、極細部へのあげつらいやらがあって、とにかくこの軍議は、一時が万事、最後までこの調子であった。 軍議の議場であった天幕から外へ出ると、日は傾きかけて空を朱色に染めていた。グレッタは深呼吸とともにそれを仰いだ。 「―――やっと、終わったぁ」 厳密には、終わりではない。これから、主戦力として共同で戦線をつくることになるクラウスと、軍団長同士で作戦の打ち合わせがあるのだが、さしあたりは、そういう気分だった。 不意に背後でくすくすと笑う声がして、振り返ると、一応、それを押さえようとしているらしい素振りだけは見せているリフィディアーナの姿があった。そんなに変なことを言ったかな、と思っていると、彼女はすぐ続いて天幕から出てきたクラウスの軍服の腕の布をつかんで、そこに突っ伏すように笑い続けている。 しがみつかれたクラウスの方は頭ひとつ分は低い女性の青みがかった銀髪を見下ろして、笑いの発作が収まるのを無言で待っているようだった。あまり表情を動かすことはない男だが、その目がわずかに、困っているのだ、という色をしていた。 「いやぁ、ごめんね、グレッタくん。あ、クラウスくんも、ごめん」 階級としては今はグレッタやクラウスの方が上なのだが、リフィディアーナは、少なくとも私的な場面では、昔からのこういう呼び方を改めようとしなかった。――――ただ、彼女はそういうしゃべり方の方が似合う女性であると言う気もする。軍議やそのほか公の場では彼らに対してもきちんと敬語を使い、“閣下”と呼ぶのだが、むしろそちらの呼ばれ方の方がいまいちしっくりこない。―――― 「そんなにおかしかったですか」 それで、ついつられて、グレッタの方も公式では上位者として振る舞っても、私的には、かつて彼女が上官であった頃のような話し方になってしまう。 「……晴れ晴れしているところを悪いんだけど、まだ終わりじゃないでしょう? 最後の最後に、ベルナート閣下のご機嫌に最大の爆弾投げつけた人とは、また話すのよ。お気の毒様だけど」 「―――言わないで下さい」 「今、迂闊にベルナート最高位騎士に近寄っちゃ駄目よ。ただでさえ相性悪いのに、あれだけプリーストや教会関係の連中にソーサレスだから、って文句言われ続けた後に――――クラウスくんのところのトロス参謀長にあんなこと言われて、ほとんどキレる寸前だったわよ」 「…………でしょうね」 しばらく後にはラジール警備隊長の下で副隊長を務めることになるトロスは九九五年現在、正規騎士団に所属し、クラウス軍団長の下で参謀長を務めていた。 トロスは、主として政治的な謀略や策略の類の思考に長けていて、知略において能力は高いのだが、自尊心が高いのと嘲笑公言癖が強いのとで人に嫌われやすく、それで能力のわりにはあちらこちらを転々とさせられていた。現状、一番長くいるのがこのクラウスの下だが、それは別に気に入られているわけではない。 ほとんど、順番、という感じで押しつけられた人事であったが、良くも悪くも冷静で、公正かつ合理主義的なクラウスにしてみれば、別に発案者の性格や心根がどうであろうと、良い案は採用するし、使える能力があり、その能力に応じて与えた仕事を滞らせなければ、それでよし、というところであった。業務に滞りが出たり、何か深刻な弊害がある、というのなら別ではあるが、別に放言程度ならば大禍はない、とも判断していた。 ベルナートの機嫌にほとんどとどめを刺し、リフィディアーナの大笑いを誘発した発言にしても、それ自体は大したことではなかった。 彼は、プリーストを後陣へ下げ、ソーサレスの能力を最大限に生かす戦術を、ジークラングなどとさんざん揉めて、ようやく押し通したベルナートへ、一通りの方針の決定後に、その場で言ったのである。 「―――ですが、よろしいのですか。そこまでソーサレスを中心にした戦陣を組んでは、後日、別のところで支障をきたすことは目に見えておりますが?」 リフィディアーナの言い方を借りるなら、この時のベルナート最高位騎士はとっくに「キレる寸前」になっていて、言われた直後には怒号を浴びせるべく、口を開きかけさえした。 「――――トロス参謀長。俺は貴官の上官として、発言を許可した覚えはない」 怒声が飛ぶ、その寸前に割り込んだ、低いがよく通る声は、トロスの直属の上官であるクラウス軍団長のものであった。 「第一、軍議において既に決定し、最高位騎士閣下の承認された戦議に、戦場外部の事情を持ち込んで意義を唱えるのは非礼だろう」 それ以上の発言を制しておく必要を感じたのが半分、もう半分は、伯父でもあるベルナート最高位騎士を遠回しにいさめ、怒鳴る前に一瞬でも考える時間を作らせるためであった。そもそも日頃からソーサレスが冷遇されるのが気にくわないでいる上に、さんざんに揉めた後だから、怒鳴ろうというのも判らないではないが、それをされてはようやく付いた決着が台無しである。 クラウスがトロスを諫めるふりをしている間に、ベルナートも察したらしい。―――いかに“性格に難あり”とはいえ、さすがに、それもできないような人物ではない。――― 「トロス参謀長。貴官の懸念は判らんでもないし、心配してくれるのはありがたいが、ノートル軍団長の事例もある。 ノートル・ネグローニが政治事情を気にかけて、苦戦情勢の報告と救援要請を舞会の終了まで待ったことは、政治的には悪いことではなかったかもしれんが、その配慮こそが彼の生命を含めて、多大な損害をもたらしたことに変わりはない。 このさい、戦場では王宮の内部事情は忘れておくことにしよう。仮に戦の終了後に何かあったとしても、諸君に対してでは無いだろうし、気にかけて貰う必要もない」 そう言った、その内容に反して、声にはまだ苛立ちの色が残っていた。 「――――それでリフィディアーナさんは、どうしたって仕事でベルナート閣下のそばにいなけりゃならない、副官のデルオとロートを生け贄に、敵前逃亡ですか」 「お仕事よ。君たちへの助言役。 ま、たしかに副官組には災難だけど、デルオさんは平気よ。あれで結構、ベルナート閣下とは付き合いが長いんだから。ロートちゃんの方がまぁ……気の毒だけど…………ま、良い経験よ。アレを上手に相手にしてあしらえるようになれば、他のどんな無茶や型破りな指揮官だって怖くなんかなくなるわ」 「…………はぁ。そういうものですか…………」 「だって、アレよりやっかいさで上をいく指揮官なんて、想像できる? グレッタくんは」 「そうですねぇ――――クラウスさん以上に無口で目つき悪くって、ノートル軍団長以上の堅物大まじめ、とかどうですか」 「逆パターンかぁ。確かに……喋らなきゃノートル軍団長みたいに一般兵への説教攻撃とかの実害はなさそうだけど、副官にあてられたら災難だわよねぇ」 「…………少なくとも、俺は副官にそういう苦情は言われたことはない」 けらけらと笑うリフィディアーナの真横で、引き合いに出された当のクラウスが軽い咳払いをして、そう言った。 ・3・ ――――……まるで、悪夢をみているようだ。 息を切らせて肩を上下させながら、ラジアハンド正規騎士団の若い騎士、ヘッグは声にならない声で呟いた。まるで応えているように、馬が哀れっぽく、小さく唸る。 深い霧で、その馬の鼻先が見えるかどうかがやっとの視界。音と、気配と、かすかな陰だけで、敵の所在を知って、剣を振るう。 閉ざされた視界と、全貌も、ともすれば切り伏せるまで姿の判らない敵と、その数も情勢も判らない戦場。全てが、疲労感と絶望にも似た気分を蓄積させる。 ―――…なんだって、この季節、この時間、こんな所に、霧なんて出るんだ。非常識じゃないか。 もう、幾度目かの戦場だ。血の悪臭にも、剣戟にも、それに、自分の剣で落命する敵兵の、あの何とも言えない表情をみるのにも、ようやく慣れてきた、つもりだった。 だが、今、この戦場。 血の濃密な臭いは、霧の水分の臭いに紛れるようにわずか。剣戟もどこか遠く、切り伏せる感覚までが、徐々に鈍っていく。 ――――……いったい、これは、いつまで続くんだろう。 剣が重い。そう感じたのは、久しぶりだ。かつて、騎士を志し剣を手にした少年の頃には、毎日のように感じていたはずだったが。 気配。霧の中に、陰が浮かぶ。 ヘッグは気を紛らわせるように馬の首筋をなでてから、剣を握り直した。 この戦では、生きて帰ることができるのだろうか。――――双子の兄とともに“騎士”になることを夢見た少年時代には、ただその外観や雰囲気にあこがれて、凄惨な戦場など考えもしなかった。 冷や汗が、額ににじむ。近づいてくる陰は、まるで死の迎えのようにすら見える。 騎馬戦ならば、先に馬を駆って突っ込んだ方が、剣の力に勢いが付いて有利――――そんな基本的なことを、小さく呟いて、落ち着こうとする。 「―――…大丈夫だ」 ――――大丈夫だよ、ヴァック。だって、軍団長になってから、グレッタ様は一度だって負けたことがない。それに、ソーサレスが敵なら、ベルナート様の作戦と隊の方が強いに決まってるじゃないか―――― 出立前、何故にか心配そうだった、別の軍団に居る兄に、そう言ったのは自分じゃないか。 息をのんで、剣先をあげる。 思い切り、馬の腹を蹴った。 「ヤァーッッ!」 恐怖と疲労を振り払うように、声を挙げて斬りかかる。 ゴッ 鈍い手応え。霧の白い視界に赤が広がり、水の臭いに血の臭いが混ざる。 刺さった剣先の、重心が変わる。引き抜くと、再び、大量の血が噴き出して、飛んでくる。 人が、馬から落ちた音と気配。姿は濃密な霧に阻まれて見えない。 何度も繰り返した、なんとも、非現実的な世界。 ―――…あと、何人、こうして斬ればいいんだ? 疲労感は、深まってゆく。肉体的にも、精神的にも。 いつしか、ヘッグは、強力な眠気に押され始めていた。 耐えきれなくて、馬からずり落ちるようにして、地面に降りる……―――― 不意に、どこか不思議な音律を含んだ声が二重に耳を打った。 ―― 我ベルナート・クランの名を記せし力にて 近しき空の ―――ファー・モイラソール――――― ―― 我リフィディアーナ・ゴルデの名刻みし言霊に於いて 定めし森羅万象の 汝が真にありし姿を想起せよ 在りし森羅万象の 姿乱せしものを散じせよ…――― ―――モイラソール・フォー・ディスト――――― 荘重で低いがよく通る男の声と、その後半に重なるように、それよりやや高い、落ち着いた女の唄うような音律。 そして。 唐突に、世界が白くなった。急激に視界が開けて、光がどっと押し寄せた。 霧が晴れた。それで開けた光にようやく目が慣れ始めたヘッグの目に、まず映ったのは、仰向けに自分を見上げる死体の目。 あげそうになった悲鳴を飲み込んで、その目から視線を逸らすために重い頭を持ち上げて―――こんどこそ本当に、小さく、引きつった悲鳴を上げた。なぜなら、まず間違いなく、自分が斬ったはずの死体の格好は……――― 「生きていたか」 先ほど聞こえた音律を持った男の声が、今度はそれとはほど遠い、そっけない、だがわずかに気遣ったような声音で言った。 「“それ”については、気にしなくていい」 「……で、でも……ベルナート……最高位騎士……さま…………だって……」 切り伏せたはずの死体は、ラジアハンド王国軍の軍服を着ていた。 自分が切り伏せた、敵だと思っていたものは、味方だったのだ。 「なんだ? 友人とか、知り合いだったのか?」 「…………違います。たぶん、違う軍団の……知らない人です。でも―――」 ベルナートは一度だけ、その自軍の死体になった男と、生きている若い騎士とを見比べるように視線を動かしてから、生きている方へ「名は?」と問うた。 「――――ヘッグといいます。グレッタ軍団の、軍団長直属大隊の……」 「では、ヘッグ。最高位騎士として命ずる。 忘れろ。この戦で、今このときまでに斬った敵の正体については、全て忘れろ。以降、気に病むことはこの俺が許さん。 いいな。重ねて言うが、これは、最高位騎士の命令だ」 「あ……は、はい」 ほとんど間近で会ったことなど無い最高位騎士の、常にないほどの強い口調に、ヘッグはとまどいながら、返事をするだけがやっとだった。 「まぁた、そういう無茶をおっしゃるんですから、最高位騎士さまは」 声がして、はじめて、ヘッグはもう一人の存在に気が付いた。 青みがかった銀髪の、中年の、だが決して美しさに劣りは見せない女性。軍略顧問官ファスティナ・クラン・ステンダー領王太子妃には、さすがにかなわないけれど。 ベルナート・クラン最高位騎士麾下のソーサレス、リフィディアーナ大隊長。 「無茶でも横暴でも忘れて貰わなければならん。 誰も彼もが、リフィ、おまえのように、なんでもかんでも、都合の悪いことややむを得んことは自分であっさりと割り切ってしまえる、図太い、可愛げのない神経をもっているわけじゃないんだ」 「悪ぅございましたわね、可愛げが無くて。神経の図太さなら、ベルナート閣下には負けますけれど。 第一、それは純情な乙女におっしゃる台詞じゃぁございませんでしょう?」 「―――乙女? 純情? 四十を越えようかっていう、グレッタやクラウスたち、いっぱしの軍団長を“くん”呼ばわりしてからかうような、すれた年増女がか?」 「昔の閣下には、もっと優しいお言葉を頂いたと思いましたけど?」 「ああ、俺も青かったからな。女を見る目がなかったんだろうさ」 別の所から、軽い咳払いが聞こえた。 「楽しげにじゃれていらっしゃるところを恐縮ですが…………」 「―――嫌味はいらん。何の用だ、デルオ」 「失礼いたしました。 閣下の招請に応じられた、グレッタ、クラウス両軍団長がお見えになりました」 「了解した。今行く」 「さっき何が起こったのか、さっぱり判らん、という顔をしているな、ロート」 デルオとともにやってきて、今は一歩後ろを歩く次席副官の顔を、のぞき込むようにしてベルナートは言った。 指揮官や司令官の事務やそのほか、資料の処理の補佐をする副官という役職は、その性質から、ほぼ常に上官の傍らにあることが多い。 ベルナートの場合、その大半は、数年来の主席副官であるデルオが処理をしていた。その次席として、起用当時は二十歳前だったロートを起用したのには、そのデルオのさらに補佐をさせる他に、目的があった。 「さっきまでこの一帯を覆っていた、あの霧が、敵の大がかりな魔法だ。名前は知らんが―――リフィディアーナも、現象の起こる理屈はともかく、魔法固有の名称は知らんと言っていたから、もしかしたら、誰かが自分で組み上げたのかもしれん。 どのみち、やろうとすれば一人や二人の協力でどうにかなるものではない。二個軍団をまるごと包み込むなんてのは範囲が広すぎるし、魔力の強度もそれには高すぎた。たぶん、あの砦塔に集結したソーサレスが何人も、もしかしたら、十人を越えて、協力して引き起こしたんだろうな」 ロートは、父親よりも年上の上官を見上げて、うなずいて聞いていた。 「ソーサレスの魔法の中でも、幻術の類に分類されるものだな。 霧に覆われた範囲にいたのは、敵軍のわずかな囮部隊の他は、クラウスとグレッタの軍だけだ―――たぶん、魔法の発動と同時に、他は引き上げちまったんだろう。 あの霧に作用する魔法は、人の頭の中に入り込んで不安を煽る。幻術といっても、何もない所へ幻を見せるわけじゃない。ただ、濃い霧で異様に視界の悪いところへ現れるものを誤認させて信じ込ませる―――今回の場合、人影は全て敵だと、思いこませたわけだな」 かくして、グレッタ軍団とクラウス軍団、あるいはそれぞれの軍団内同士の、凄惨な同士討ちとなった。―――おそらく、それとは知らずに知人、友人同士が殺し合っていたということも、少なくはないだろう。 「…………閣下やリフィディアーナ大隊長の下のソーサレスたちは……各所で、それを解呪して回られていたのですか」 「いや。純粋に解呪、というのは結構難しい。特にこういう、大がかりな上に、しっかりとは正体の分からない代物はな。 そもそも、ソーサレスの魔法、などと一口に言っても、剣を振るうのには手と力がいる、という程度の、ごく基本的な発動原理が共通するだけだ。あとは、剣を振るう型が師匠や流派で名を分けてみたり、そこから自己流を編んだりする、それと同じように、うまいやり方、下手なやり方が伴って行くにすぎん。ただ、大元の基本原理そのものが剣を振るうよりも遙かに複雑だから、原理より先に先人の組み立てた型をなぞることから入って、そこから応用を組み立てるまでの必要を感じなかったり、たどり着けずに値を上げてしまう者が圧倒的に多いから、他のものが見えにくいだけだ。 かけられて持続するような種の魔法に対しては、まずその原理を併せて元を絶たなければならん。―――攻城投石機を破壊して攻城を止めようと言うのに、その投石機の仕掛けがわからず、投石の仕掛け部分ではなく、その台座ばかり破壊しても仕方がないだろう? ―――まぁ、多少意味合いはずれるが」 ときどき、ベルナートはロートに向かって、こうして魔法の講釈をする。 プリーストの権限が強い神力国家ラジアハンドで、ソーサレスそのものを軍の幹部として登用するのは困難である。ベルナートにしても、今のリフィディアーナの大隊を造るのにすら、実家クラン家やその主家ステンダー領王の庇護を背景にしていなければ、とっくの昔に首が飛んでいるような無茶を、裏表を通してしなければならなかった。 だから、ソーサレスがなかなか登用できないのならば、せめて知識だけでも持っている騎士をつくっておいて、できれば自分の退役後にもそれを活用して活躍してくれれば申し分ない、というのが、ベルナートの腹づもりであった。 「どのみち魔法というヤツは、その攻城投石機の姿すらも、すぐに見つけだす、というわけにはなかなかいかん。俺たちがやったのは、もっと単純で馬鹿な方法だ。 つまり、飛んできている石の方をとっつかまえて、たたき落とした。それも、ソーサレス総出で、二人から三人がかりで、戦場中を狭い範囲ごとに、ちまちまと、な」 効率が劣悪なことおびただしいが、即刻に対処するにはほかに手がなかったのだから仕方がない、とほとんど自棄気味に笑って見せた。 ベルナートの使った“ファー・モイラソール”は前者、魔法の力をとらえて、他の魔法の影響を割り込ませるための魔法。リフィディアーナの使った“モイラソール・フォー・ディスト”は、“ファー・モイラソール”で固定された魔法の力を、分散・分解させて無力化する―――正確には、極小まで力を弱める―――魔法。必須条件は、二つの魔法の力がほぼ同時に、ひとつの現象を起こしている力にかかることである。だから、最低でも二人がかり、それもある程度、二人の息が合わなければならない。 広い戦場をすっぽり包んだ魔法の霧を、極限られた小さな区域ごとにしかできないこの方法で、ソーサレス大隊やそのほか、とにかく実行することが可能な人員は、最高位騎士本人すら例外なく総出で分散して消して回ったのである。 「本当は、もっと小規模の幻術の類を個々にやられたときに、誰かソーサレスさえその場にいれば対処できるように、と思って、一応、リフィディアーナの麾下には修得させておいたんだが―――まさかみんなして連発して回る羽目になるとは思わなかったぞ」 冗談めかして肩をすくめる。 事態はもっと深刻であったはずだが、とにかく、落ち込んでいても仕方がないのは事実であった。 ・4・ グレッタ、クラウス、両軍団長とも、初戦を“してやられた”直後でもあって、無念と恐縮と疲労感とが目に見えるようだった。 あまり良い傾向ではないな、とベルナートは思った。戦場、とくに苦戦を強いられる場では、個人や軍の純粋な技量や強度よりも、精神的なものが物を言う。一兵一個人でもそうだが、一軍の長からして落ち込んでいたのでは、全軍に支障を来すことも否めない。 「軍団長同士でやりあっていたそうだな。どっちが勝ちそうだった?」 敬礼をして最高位騎士を迎えた二人の軍団長は、意表を突かれたふうに挨拶の言葉を出しそこねた。 「過去に出会った中で、グレッタ軍団長は最大の強敵でした」 一瞬の後、珍しく、クラウスの方が応えた。声に押し込めたような苦々しさが出ているのも、この男には同じく珍しい。 「そうか。さすがはワルター最高位騎士ご自慢の、元緑鋭隊のリーダー、といったところだな。もう三年も後だったら、クラウス、おまえ、もしかしたら今頃、軍神セラフュラーヌの御旗の元で、ノートルと再会していたかもしれんぞ」 「……恐縮です」 グレッタの声にも、柄にもなく力が無い。 「二人とも、そう落ち込まんでいい。―――そうだな。おまえたちがやり合っていたおかげで、その間の分、多少は死者が減ったとでも思っておけ。 まぁ、おまえらで良かった。あの状況に放り込まれたのが俺だったら、周りが全部敵だと思った瞬間に、どでかい爆発の魔法でもぶっぱなして、あたりを壊滅させたかもしれん」 小さく笑って見せて、それから、ベルナートは頭に手をやって、髪をかき回した。 「やれやれ……どうやら、無茶で横暴な命令を全軍に訓戒しなければならんらしいな。おまえたちからしてその調子じゃぁ、どこぞの自称・純情な乙女とやらでも無い限り、まともでいるのは無理なようだ」 「…………は?」 意味が全くつかめない二人の疑問は置き去りにしておいて、小さなため息を吐く。 「プリースト連中の手には負えんわけだ。奴ら、いったい何が起こっていたかも、全く把握できていなかったようだし、兵たちも誰に殺されたかすらろくに判らなかったに違いない。――― いいか、二人とも。落ち込むなら戦が終わってからにしてくれ。俺の下を離れてからなら、やけ酒食らおうが後悔して坊主になろうが止めはせん―――薦めもせんがな。 とにかく、さしあたり先に考える必要があるのは、過去に出した戦死者の事よりも、まだ生きている兵の戦死をなるべく減らすことだ。 ―――だいたい、俺やリフィディアーナでもとっさには正体の掴めなかった敵の魔法を、ろくに基礎もかじったことのないおまえらが判らんかったからといって落ち込むなんぞ、生意気にもほどが――――ん? なんだ、リフィ」 なにやら言いたげな視線を感じて、リフィディアーナを振り返る。 「たぶん、ベルナート閣下のおっしゃってることは半分は的はずれですわよ」 「…………どのあたりがだ?」 「両軍団長とも、ご自分の軍団を持たれてから今まで、無敗を誇っておいでだったでしょう。魔法がどうとかいう前に、はじめての個人の責任での敗北に、堪えておいでなんじゃありません?」 「…………あ、そうか。そっちか」 迂闊を絵に描いたような顔をして、それからもう一度、二人の若い軍団長を見る。 「……これだから最初っから有能な奴らってのは…………」 ため息混じりに言って、それから不意に語調を変える。 「……と、俺に馬鹿にされたくなければ、さっさと立ち直って戦果を挙げることに専念するんだな。 さしあたり、そのためにも、対応策を考えることにしようか」 ベルナートは、挑戦をするようににやりと笑ってみせた。 いくつかの議論が交わされた中で、ベルナート最高位騎士が軽く眉をひそめた場面があった。 「……裏切り者の可能性?」 クラウス軍団長の言葉を繰り返してから、ふと目つきが厳しくなる。 「確証はありませんが、霧を押さえていただいた後、幕僚の中にそういう意見がありました。今、リフィディアーナ大隊長の、かの魔法についての説明を伺い、可能性は高くなったと考えます」 「…………考えなかったわけではない……が、事態に直面した軍の中にもそういう意見があるのなら、やはり可能性も高いか」 問題になったのは、魔法の霧の覆った範囲である。 グレッタとクラウス、二つの軍団を、ちょうどすっぽりと。 リフィディアーナの説明では、それだけの範囲に魔法の霧を発生させるのには、ソーサレスの人数や力の差異もあるが、相応の儀式めいた手順を踏むための時間が必要になる可能性が高いはずだ、ということだった。 むろん、最初に意見した人物はそこまでを知っていたわけではないが、敵軍との衝突の場所の詳細な決定の主導は、ラジアハンド王国軍側にあった。それを考えれば、かの魔法の霧の発生はあまりにも場所と時刻とが合いすぎてはいないか。それについて、どこからか戦術戦略の情報が漏れていたと考えれば多少は筋も通る、というのである。 「……それを言ったのは、誰だ?」 「我が軍団のトロス参謀長です。先日、閣下のご不興を買ったばかりではありますが、その種の発想、処理には長けた人物です。できれば直言させることをお許し頂きたく思います」 「そうだな。直接に話を聞いてみた方が良さそうだ」 ベルナートはうなずいた。 (あーあ、ロートちゃん、かわいそうに……) リフィディアーナは、最高位騎士の副官として議録を取っているロートをちらりと見て、内心で、小さく呟いた。 ロートはその会見でも同席することになるのだろうが、あのトロスという男は彼女の見るところ、ベルナートとの相性は最悪なはずだったのである。 ベルナートとトロスの会見に同席したのは、グレッタ、クラウス両軍団長だけである。 リフィディアーナの予想に反して、デルオ、ロートといった副官も話の中心の時にはそこに居なかった。話によれば、退席を求めたのはトロス参謀長であったという。 また、本来ならばジークラング、イースフ・ヴィークといった後陣の部隊の代表者も、この種の秘密軍議には同席するべき所ではあるが、もとが非常事態を受けての、最前線の指揮官だけの臨時召集であったので、そのあたりは呼んだとしても、来られるものではなかった。 だから、リフィディアーナや、他のほとんどの騎士・兵士たちは、そこでトロス参謀長が何を言い、グレッタ軍団長やクラウス軍団長がそれをどう捉え、また、ベルナート最高位騎士がなんと応えたか、は判らない。 表に出た、その日の内の結果としては、その日、会見が終わったほぼ直後に、トロスがクラウス軍団の参謀長の肩書きをそのままに、ベルナート最高位騎士直属の特殊任務班の班長の名称を得た。そして、数名の部下を与えられ、一時的に前線を離れたのである。 翌碧月十二日、戦闘状況はにらみ合いに終始。 ただし、つい昨日の同士討ちもあって、兵士たちは気の休まるものではなかった。多少の救いがあったとすれば、彼らは、たとえ表面だけだったとしても、同僚をうち倒した、という罪悪感から逃れるための、ほんのわずかな免罪符を与えられたことだろう。 ベルナート最高位騎士は再度の前線構築に先立って、各軍団長から末端兵まで例外なく全軍を召集し、過日、ヘッグという騎士に告げたのと同じ“命令”を申し渡し、叱咤激励をした。 「…―――今期派遣軍、初戦の事態に責を負うべきがあるとすれば、それは先陣たるノートル軍団の惨敗にも関わらず、その後、敵軍の戦術・戦法を見抜くことができなかった軍上層部の失態であり、また、諸君らに帰するところがあるとすれば、一時の幻影より解放された後に、過分な罪悪感を背負い込んで悲嘆し、いたずらに絶望と疲労に精神を明け渡し、士気を低迷させたことである。 我らが同胞を殺傷せしめたのは、敵軍の刃であり、その霊を慰めるべき唯一は、彼らとともに目的としたラジアハンド王国を安寧へ導くこと、そのための勝利を、我らの手で実現させることであると銘記せよ。 諸君の、これを胸とした以降の緒戦での善戦を期待する」 また、続いて、ベルナート最高位騎士の依頼を受けたジークラング教会付派遣騎士隊長が、やはり、過日の同士討ちを、神意への多大な背信にはいたらない、と―――真実はどうであれ―――断言する訓令を述べた。 「―――――憎むべきは、かくも卑怯な手段・方法で同胞互いを殺傷させんとさせる敵軍の黒き魂である。神意に沿い、その贄(にえ)となった神の御元の民の魂を安らかに軍神セラフュラーヌの御旗の麾下へ送るべき道は―――ベルナート最高位騎士閣下の訓辞のごとく―――ただ一つ。黒き魂の根幹を絶つことである―――」 たとえ詳細がどうであれ、全軍は一致し団結の鬨の声をあげた。 士気と団結は、たとえそれが何らかの錯覚や虚偽のもとに成り立つとしても、大きな力となる。そして、戦場で必要なのは真実や事実ではなく、それらに基づいた力であり、その力の喪失は、そのまま、死出の道へと直結しかねない。少なくとも指揮官階級にある者は、自らの主義主張がどうであれ、それを心得ていなければならないのである。 「よっぽど、“魔法使いの黒き魂”と、言いたかったのではないか、ジークラング殿?」 ベルナートは小声で、皮肉っぽく、語り終えたジークラングに言った。 「ここでベルナート閣下と事を構えても、仕方がありませんので。 それに“毒を以て毒を制す”とも申します」 「貴官も見かけによらず、神経は図太いらしいな。この俺に向かって、真っ正面からそこまで 「…………恐縮です」 「ま、欲を言えば、ちょっと捻りが足りんな。まだまだ、悪口の質は、俺どころか、ワッカーログ最高位騎士にも及ばんぞ」 相手を返答に窮させておいて、ベルナートはその場を去った。 碧月十三日から十五日まで、前線の随所で小さな揉め合いのような戦闘が頻発したが、大軍を動かすには至らなかった。 そして、十六日。 特殊任務を受けていた、トロス参謀長が帰参し、ベルナート最高位騎士に謁見をする。 状況が動いた。 公式の報告と非公式の報告とを受け取ったベルナートは、直ちに、それまで後陣に待機させていた旧ノートル軍団やプリースト独立大隊、教会付派遣騎士隊を含めた全軍へ、出撃準備態勢を命じた。 同じ頃、旧ノートル軍団の大隊長の一人が、内通罪を問われ、イースフ・ヴィーク軍団長代理の手によって逮捕・更迭された。 当人の弁明によれば、彼はかつて四年も前に王国へ反旗を翻し、鎮圧・主要家系断絶を受けたドランバーム公爵家に連なる一門の一人で、その処分への意趣返しであったという。 「まず、様々な不条理が成立すること自体が、政府・王宮の欠陥ではないのですか!? ベルナート閣下とて、その不条理は身に感じておられましょう!!」 半ば自棄のように言ったのに、ベルナートは小さく笑って応えた。 「不条理が全くなくなるようなことなんぞ、ありえんだろうよ。神々よりの試練だ、とでも思って諦めておくべきだったな」 揶揄するように、あるいは、冷笑するように。 ―――――本来、ベルナート最高位騎士が夢見ていたのはソーサレスとしての道であり、また、それについては十二分に過ぎるほどの才能を内在していた、というのは、騎士団のなかでも、今では有名な話である。 百年に一人というほどの、魔力の素質の持ち主。数少ない、国内貴族のソーサレスの大家クラン伯爵家の次男。 ソーサレスとして大成するためにはこの上なく恵まれていたはずの環境は、だが少年期に、全て裏目に出た。 ソーサレスを忌むある教会支持の大貴族による、クラン伯爵家転覆の謀略の下にでっち上げられかけた、長兄暗殺と教会破壊と国王暗殺計画の首魁、という容疑。そして、その容疑を証言者無く確定させ、家系に連帯責任をとらせるべく企まれた、その“首魁”の暗殺計画。また、何か最もらしい証拠を見せられたらしい父と兄による、“ベルナートの罪をかばうための”彼の周辺人物の左遷更迭、あるいは、処分の数々。 十二歳の少年であったにしては、ベルナートはそうしたものの知識を多く持ち、考えることができ、またある意味では冷めた目で、それらを見ていたのかもしれない。 四歳年下の妹、ファスティナに「さよなら」とだけ言って、家を出た。ステンダー家に伝わる名剣のひとつ、“ 当時の王妃に運良く謁見を許され、そこで、クラン家、ステンダー家、全ての系図からの、自らの抹消を申し出て、事情と彼の心情を察した王妃の力添えで実現する。 そうして、ベルナート少年は自らの出自と魔法使いの才能を押し殺して、騎士団への志願者として、その営舎の前に立ったのだ。 たとえ名剣の名を冠する“ 夜は、筋肉の痛む体を寝台においてから、誰からも隠れて、持ち出した魔道書の頁をめくった。―――夢を諦めきれなかったこともあったかもしれないが、それよりも、それまでと全く違う生活と修練に、せめて魔法に触っていなければ、自分を保てないような気がしたからだった。――― クラン伯爵家が兄に代替わりして、その強い要望で、養子扱いとはいえ家系に復帰したのは十五年も後、ベルナートはもう、二十七歳になっていた。 がむしゃらが功を奏して、騎士団ではそれなりの名声と地位を得ていた。 それでも、人前でソーサレスの魔法を使って見せようと思うまでには、さらに三年を擁した。 そして皮肉にさらに皮肉を重ねるように、かつて自分を騎士への道へと追い込んだ、そのクラン伯爵家の名とソーサレスの才とが、ただ純粋の騎士としては“あと三歩くらい”であったはずの最高位騎士の地位へと、彼を押し上げたのである。――――― 「どのみち、これは貴官が自ら歩む道を選んで、覚悟して進んだ道の先であるはずだ。結果を、考えなかったわけでもあるまい?」 敵内通罪は、軍法会議での判例は、軒並み極刑である。判りきっているから、捕まった時点で自刃してしまう者もある。また、この戦でもそうだったように、そのせいで多大の戦死者を出したとき、ある苛烈な司令官は、兵士たちの怒りや悲しみの生け贄に差し出して、私刑を公認してしまった者もあると、ラジアハンドの軍史には残っている。 「……それに、不条理のあとには必ず不条理がくるとさえ、世の中、限らんよ。条理と不条理、どちらかが固まって訪れるほどの条理すら、この世にはない、ということだ。 だが、心配しなくても、貴官に関しては、戦が終わったあとで正式に、公式の軍法会議は開いてやる。せめて、条理に適った方法と罪状での処刑宣告をくれてやるさ―――貴官が、条理の通りに、それまで生きていればな」 『ロポルドゥムール平原の魔法塔戦役』最終局面。 全軍に総攻撃の号令が飛んだのは、この碧月十六日の正午。 俺に続けとばかりに、先陣戦端につっきたのは、鹿毛を駆ったベルナート最高位騎士、総司令官自らである。デルオ、ロート、他幕僚陣が、司令官のほとんど暴走に近いそれに、置いて行かれてたまるかとばかりに続く。 「まだ魔法を出してくるならいらっしゃい。片っ端からたたき落としてあげるわ」 不敵に、艶然とほほえむリフィディアーナの麾下、ソーサレス大隊は例によって分散して各隊に随軍し、敵の魔法に備えている。 続いて、やっとの機会と、旧ノートル軍団団長代理、イースフ・ヴィークの激が飛ぶ。 「ノートル軍団長のご無念と初戦惨敗の汚名は戦功をもって払拭せよ! 突撃!」 「総司令官一人に戦果をさらわれては、何のために各個軍団があるかわからんぞ。後れをとるなっ」 クラウス・ステンダー軍団長の、落ち着いた低い声は、だが、熱を帯びた。傍らで、影の、とはいえ大役を果たし、恩賞と昇格をすでに約束されたトロス参謀長も、小さく笑って剣を握り直す。 逆に、大音声でけしかけるように号令をするのは、グレッタ軍団長。 「正面決戦こそ、我が軍団の最も得意とする分野だぞ! 最高位騎士閣下や他軍団に真価の最大を見せつける機会を逃すなよ!! 全軍、突撃っ!!!」 その直下には、緊張と興奮をない交ぜに頬を上気させる、ヘッグの姿もある。 「正義と神意は我らの上にこそある。敵の魔法使いに一度破れて無様を見せた上に、味方の魔法使いにまで遅れをとるような真似はするな。 突撃せよ!」 ジークラング隊長指揮下、教会付派遣騎士隊及びプリースト独立大隊も汚名を晴らさんと息をあげる。 魔法を破られ、正面からの総攻撃を受けては、それまでラジアハンド王国軍に苦戦を強いてきた魔法使いたちもひとたまりもなかった。 ほとんど呪文詠唱の暇もなく、また、雇っていた傭兵の善戦も空しく、次々に騎士団の餌食になっていく、というような有様である。 戦闘は短く、およそ一刻。首謀者の討ち死にと、それで雪崩を打つような投降者の続出とで決着がついた。 『ロポルドゥムール平原の魔法塔戦役』は総括すれば、ソーサレスたちの活躍によるラジアハンド軍の圧勝、という、数少ない事例のひとつとなった。 ・5・ ふわふわとした金髪が、そよ風に舞った。少女はそれを手で押さえて、溶かすようにして、それからまた、窓縁に少しお行儀悪く頬杖をつく。目を皿のようにして、そこを通る何者も見逃すまいとしている。 ラジアハンド王城。国王謁見の間のある建家から出てくれば、必ずここを通るはずだ。 少女――――ステンダー領王太子の長子ヘンリーの娘ノニア・ステンダーは、もうじき国王への凱旋報告の謁見を終えるはずの騎士たちの姿を待っていた。 今年、八歳になるノニアは、いったい誰の影響からか、剣を振るう事に興味を持ち、将来は騎士団へ、という夢も持っている。王宮へ来るたびに誰かしらにせがんで、騎士団営舎の周りをよく訪れたりもしていた。 そんなこともあるし、それに、今日凱旋した出征軍には、けっこう彼女にとってゆかりの人物が多い。 叔父のクラウス、父方の祖母の兄、つまり、大伯父のベルナート、その部下の、リフィディアーナお姉さま―――おばさま、と呼ぶと、ちょっと怖い―――それから………… 「……あ! グレッタお兄さま!」 ぽん、と跳ねるようにして、ノニアは窓辺を離れ、ドレスの裾をからげて駆けだした。 「また悪運強く生き残ったのだな、卿は」 毎度恒例のごとく。 「貴官も老衰死もせず壮健のようだな。大好きな神の御許へなかなか行けず気の毒と、見舞い申し上げるべきか?」 凱旋したベルナート最高位騎士と、その形式的な報告の謁見に参列したワッカーログ最高位騎士の、王の御前を退出したとたんの言い合い。 「老衰なら卿が先だろう。年の順でな」 「魔法使いは“じじい”になるまで生きるものさ。昔語りでは、偉い魔法使いはよぼよぼの爺様だと、相場が決まっているだろうが。 神の使いとか神の騎士とかの相場は、壮絶かつ悲惨で同情を買えるような討ち死にだろう?」 「現実と昔語りを混同するか。 もっとも、卿は生き残るためなら悪魔にでも魂を売り渡すだろうから、どちらにせよ、老齢どころか永劫に死なんような気もするが」 「馬鹿を言え。悪魔なんぞに売るような安い魂はもっていない。やるならせいぜい、空売りというところかな」 「判った。卿の死因は、悪魔を詐欺にひっかけた罪で、神に裁かれるのだな。なかなかに凝った趣味だ。前代未聞の大珍事ということになるだろうよ」 もう諦めた、というように、ロートはそれを眺めていた。やはりいっそ、リフィディアーナのように、意地悪く楽しんでしまうようになったほうがいいのかもしれない。 「……にぎやかだね、相変わらず、あのお二方は」 もう慣れたような、だがやはり呆れたような声がした。少しの間を縫って親友に凱旋祝いを言いに来た、オリヴィア・アルトゥール王室警護隊長である。 「まずは、生還おめでとう、と言っておくよ、クラウス」 「そうだな。もう少しで死ぬかもしれん局面もあった」 軽く、オリヴィアは目を見開いた。 「やはり魔法相手か、それとも、まさか剣でか?」 「…………剣……だな。強敵だった」 ちらりと、その“強敵”ことグレッタに視線だけをやりながら応える。 廊下の向こうから、子供の軽い足音が聞こえてきた。 「おや。お姫様のお越しだよ、グレッタ。相変わらずの人気ぶり、なによりだ」 オリヴィアが片目を閉じてみせる。 「なんだったら、グレッタ、おまえの嫁にやれるよう、ユーサー殿かヘンリーにでも言っておこうか?」 やっと同僚との舌戦を終えてやってきたベルナートがそれを聞いて、軽く肩をすくめて言った。 「今は、将来の夢はお前の“弟子”といっているそうだが、たぶん、言葉を教えれば簡単に“お嫁さん”と言い出すと思うぞ」 「―――ベルナート閣下、ご自分の年齢感覚を押しつけないで下さい」 二十二歳差とは言わないが、十五も離れているのはちょっと、と、言うが、それは別として、懐かれること自体は嫌ではない。 「おかえりなさいませ、グレッタお兄さま。……と、ベルナート大伯父様と、クラウス叔父様も。 ノニアも、アランも、ごぶじをお祈りしていました」 この年四歳になるクラウスの長男アランの手を引いて、息を切らせながら騎士たちの前へやってきたノニアは、お辞儀をして、にこりと笑った。 クラウスは従姉とともに出迎えにやってきたアランを見やる。知らない者が見れば、この父親は息子が嫌いなのか、と心配するかもしれない。表情は特に何の感情にも感慨にも動かされず、見下ろす視線も冷めている、ように見える。 そういう表情のまま、クラウスはおもむろに一歩踏み出した。身をかがめて、ひょい、とアランの小さな体を抱き上げる。 「……また、少し重くなったか?」 淡々とした調子のまま、淡々とした口調で言った。 現実のクラウスは、単に表情をほとんど変えないだけで結構な子煩悩だった。普段の落ち着いた、淡々とした調子のまま、子供と遊んでやったりしているものだから、周りの戸惑うこと、いっさいではない。だが、どうやらクラウス自身は、まず、いったい何を戸惑われているのかを、いまいち判っていないらしい。 アランの下に娘がもう一人。それに、どうやら妻にもう一人、懐妊の兆しがあるとか無いとか。 物静かで冷静沈着、冷徹――――ときに冷酷とまで言われるクラウス軍団長が、実は子供が生まれるたびに、乳母の手から奪い取るようにして、しかもかなり真剣に、四苦八苦しながら子供のおむつ換えをしているのだそうな、というもっぱらの噂であるが、その真相を知るのは、親友のオリヴィア王室警護隊長他、ごくわずかな人だけである。――――……四苦八苦している、その時でさえ、傍目には妙に淡々と、冷めて見える、という真相は…――― ノニアはお気に入りのグレッタ軍団長に凱旋の祝いと、続けて、子供特有の要領を得ない、いろいろな話をひとしきりしていて、それから、やっと周りに目がいった。「あ」と声をあげてから、もう一度、ぺこりとお辞儀。 「ごきげんよう、オリヴィアおじさま」 軽く、オリヴィアの笑みが引きつった。 「…………おじさま、だよなぁ」 「……リフィディアーナ大隊長のように、騒ぎ立てれば、“お兄さま”と呼んでくれるかもしれんが?」 「……いや、それはちょっと…………」 小声でやりとりする「クラウス叔父様」と「オリヴィアおじさま」を、ノニアは不思議そうに見上げた。 九九五年碧の月。 このころはまだ、ラジアハンド騎士団の戦力は、十分に充実しているかに見えていた。 【ロポルドゥムール平原の魔法塔戦役】― 了 --------------------------------------------------------------------- 初稿:2002年3月頃 改稿:2004年12月12日 【主要登場人物一覧】 【ベルナート・クラン】 54歳。最高位騎士・第8軍軍団長。 ○996年 ステンダーの災厄で病死 【リフィディアーナ・ゴルデ】 40歳・女。第8軍(ベルナート軍団)ソーサレス大隊長。 ○1000年碧月現在 独立・弱体化したソーサレス部隊にて隊長続行中。 【デルオ】 第8軍。ベルナート最高位騎士主席副官 ○1000年碧月現在 ビショップ捜索隊に中隊長として参加。(0181/フォルクス-18)他、詳細不明。 【ロート】 20歳・女。第8軍。ベルナート最高位騎士次席副官 ○1000年碧月現在 第5軍(ルンド軍団)所属。部隊長。 【クラウス・ステンダー】 27歳。第9軍軍団長。 ○996年 ステンダーの災厄で病死 【トロス】 第9軍(クラウス軍団)参謀長。 ○1000年碧月現在 警備副隊長 【グレッタ】 23歳。第2軍軍団長 ○1000年碧月現在 最高位騎士・第8軍軍団長 【ヘッグ】 第2軍(グレッタ軍団)所属 ○1000年碧月現在 第5軍(ルンド軍団)所属 【ノートル・ネグローニ】 軍団長。戦死。 【イースフ・ヴィーク】 ノートル軍団参謀長・のち、団長代理。 ○996年 戦死 【ジークラング】 教会付派遣騎士隊隊長 ○1000年碧月現在 王室警護隊隊長 【ワッカーログ】 46歳。最高位騎士・第5軍軍団長 ○996年 戦死 【ヴァルザーク】 最高位騎士。995年年末に退役 ○1000年碧月現在 隠居生活を送っている…と思われる。詳細不明 【ワルター】 52歳。最高位騎士。第一軍軍団長 ○1000年碧月現在 最高位騎士主席(ヴァルザーク退役に伴い)・第一軍軍団長 【ラジール・レイドルフ】 52歳。警備隊長 ○1000年碧月現在 警備隊長 【ヴァック】 ヘッグとは別の隊に所属。 ○1000年碧月現在 第5軍(ルンド軍団)所属 【オリヴィア・アルトゥール】 27歳。王室警護隊長 ○1000年碧月現在 外交官 【ノニア・ステンダー】 8歳。996年病死 【アラン・ステンダー】 4歳。996年病死 |