【“魔法騎士”と“学者崩れ”のこぼれ話】






――…お黙りなさい。いちいち貴方たちごときに言われなくたって。
――…きちんと知っている、そんなこと。私自身のことだもの。
 ほとんど悲鳴のように、けれども胸の内だけで叫ばれる言葉を、一体誰が聞きつけることがあるだろう。
 ましてそれが、誰よりもひたむきに誇り高くあろうとしている女がその身の内に、ほとんど全霊を賭して封じ込めているものであれば。
――…その器ではない、家柄と血統とで手に入れた地位。
――…知っているわ、そんなこと。自分のことだもの。
――…貴方たちなんかよりよっぽど良く知っているわ。本当は私が…
――…この地位にふさわしくない、無能者だということくらい……
 おそらく誰よりも、強くそう考えて悩み、心苦しく思ってあがいている。転んでしまった幼い子供が必死に我慢するように、痛みに泣き出すのをこらえている。
 けれどもそんな涙を余人に、まして彼女の地位に眉をひそめているだろう者たちなどに、悟られるようなことは彼女の誇りが許さない。
 年齢や性別を言い訳にして開き直れるほど、彼女の誇りプライドは安くはない。さりとて、そういう感情と現実との落差に折り合いをつけて気を落ちつけることができるほど、彼女の心は未だ成長できてはいないのだ。



 魔力国家と呼ばれるアスリース王国で魔法使い部隊に数えられるうち、もっとも異色な部隊のひとつが『マギ・アーサー』、『魔法騎士団』である。
 その名の通り、魔法を繰る騎士の部隊。魔法騎士団の魔法騎士マギ・アーサーたるには、一定の魔法を繰る力と同時に、騎士としての、武具を操る力も要求される。
 魔法を唱えるソーサレスでありながら剣を振るうこと。あるいは剣を構える騎士でありながら魔法を使うこと。人一つの身のうちに、性質の相反するこの二つの能力を両立させることはそれほど容易なことではない。まして、どちらか一方の能力だけでも極めることなど、常識的にはとうてい不可能だ。
 それで集団を結成しても、ともすればひどく中途半端なものになりかねない。それを整合させて、長期的に維持しうる組織を敢えて構想し、構築することができたのは、“魔法の国”ならばこそ、かもしれない。

 アスリースの王城敷地内。ひときわ高い壁に囲まれたその内側は、魔法騎士団マギ・アーサーのための、いわば練習場のような場所だ。
 日が落ちて辺りが暗くなった頃、そこから城外への道へ出てきたばかりの魔法騎士マギ・アーサー数人は、同僚が一人慌てたように逆走してくるのに出くわした。
「どうした? 忘れ物か?」
 そう声を掛けると、逆走してきた方は声を出すのももどかしげに頷く。と、別の一人がその肩を掴んで止めた。
「近寄らない方がいいぞ、今は」
 覗くだけ見てみろ、と手振りで示す。
 止められた騎士はいぶかりながら、戸を細く開けてそっと中を覗く。
 そのほとんど同じ瞬間。
  ゴォッ!
 耳をつんざく爆音と、それに見合うだけの爆発。
 パタン、と戸を閉めて、同僚たちの顔を窺う。
「……今度は何の魔法だった?」
「…………バースト・エンド………かなぁ? あれ」
 問われて、覗いた一人は口許を引きつらせながら爆発の正体を推測した。だが、中級程度の難易度とされるバースト・エンドの魔法そのものはともかく、“今のあれ”には通常のバースト・エンドとは比にもならないほどの力がつぎ込まれているように見えた。仮にやれと言われても、魔法騎士マギ・アーサーの中であそこまで出来る者が何人いるか。
「……アティ団長ブレイカー?」
 その魔法の主を推測してみる。他の騎士たちが、一斉に頷いた。
「何があったんだ? 今度は……」
「…さぁ? どうせ“また”、副団長サブブレイカーと何かやりあったとかじゃぁないのか?」
「先々代の団長ブレイカーに説教くらった、って聞いたぜ、俺は」
 九割九分、八つ当たりの鬱憤晴らしだろう団長の暴走のような魔法の連発に、興味本位で中を窺う者はあっても、諫めに入ろうと考える者はない。
「……ったく、いいかげんにしろよな。これだから大貴族のお嬢さんは」
 そんなふうに遠くでぼやくのがせいぜいだ。
「いつも思うんだけどさ」
 誰かがふと言った。
「なんであの人、あれだけの魔法ができるのに、魔法騎士団マギ・アーサーにいるんだ? ちくちくと俺らをいびって無くても、普通に魔法部隊でやっていけるんじゃないか?」
 剣術も特に彼女が拙いという訳でもないが、魔法一本に絞った方が楽だろうし、年齢からみても、そうすればまだまだ伸びるんじゃないだろうか。なんというか、才能の無駄遣いにしか見えないのだが。
 何度も出たことのある疑問に、別の一人が「さあね」と肩をすくめて、この話がでるいつも、誰もが言うのと同じことを言う。
「知るもんかよ。大貴族のお嬢さまが何考えてるか、なんて」

 アティ魔法騎士団長マギ・ブレイカー――――アティ・サルトスは未だ二十歳にならない、若すぎるほどの女団長ブレイカーだ。
 整った容貌にはまだ少女らしさの名残が強いのに、深い青色の目に宿る表情と、黙っている時にはたいてい引き結ばれている口許とは、それを否定したがっている。軍務に就く時には流すか一つに束ねられている腰を被う長い赤紫色の髪は常に、戦事いくさごとの役職にあるのに信じられないほど手入れが行き届いていた。
 いつも手に白い絹の手袋を掛けていて、ほとんどの魔法騎士マギ・アーサーは彼女の素手を見たこともない、と噂されている。その様子に、剣を握るのに手が汚れるのがそんなにいやなのか、と揶揄混じりに眉をひそめる騎士も居る。
 高飛車で高慢な魔法騎士団長マギ・ブレイカー。それが、彼女に対するもっとも多い評価である。
 彼女が魔法騎士団長マギ・ブレイカーの地位に就いたのは九九七年の末、先代の魔法騎士団長マギ・ブレイカーの急な病没を受けてのことだった。
 当時、若干十七才の魔法騎士団長マギ・ブレイカーである。当然、決定までには主に宮廷政治の側面で、さまざまな議論や駆け引きがあった、と、噂されている。年齢や性別、出自など彼女自身のことだけから見ても、それが現実だろうと推測する材料は充分すぎるほどにあった。
 そもそも『アティ』という名前よりも“サルトス家の令嬢”という方が通りが良いほどだ。名家ランディ家の傍流の家系というのみならず、先々代国王カラベラクに寵用された元ロードソーサレス・カノン・サルトスの姪にあたり、幼い頃に両親を亡くしてからは彼の庇護下に入ってもいた。カノン自身はカラベラク王の引退以来、宮廷の役職からは身を退いているが、社交界などを通して、その影響力は今でも充分に健在する。
 どこで習い覚えたか、並程度の相手となら立ち会って五分ごぶよりは有利な試合を演じられる程度の剣技と馬術を身につけてはいるが、彼女は元は魔法騎士マギ・アーサーではなく、当時の無属のロードソーサレス・イライザ・ロンフォードの下でソーサレスとして奉職していた――――その辺りの経歴も、元来の魔法騎士マギ・アーサーたちとの確執の元となっている。
 アティが魔法騎士団長マギ・ブレイカーになることが決まったとき、伯父であるカノン・サルトスは祝いと称して、彼女に一振りの剣を与えた。
 “ソルリーク”という名の剣は細身で見かけ以上に軽く、けれども鋭い切れ味とそれを持続させる魔法を施された剣だった。透き通るような美しい銀色の刀身で、束もとに深い青色の宝石が埋め込まれている。特に精霊との関わりの強いソーサレスの魔法の研究をお家芸とするサルトス家が過去にいくつか生み出したとされる、精霊の力によって鍛えられた剣のひとつである。――――少なくとも外見、それは若く凛々しい女魔法騎士マギ・アーサーの姿となったアティが持つのに、よく似合っていた。

 アティ・サルトスが魔法騎士団長マギ・ブレイカーになって以来の魔法騎士マギ・アーサーたちの評価は「半分は家柄でその地位を得た団長ブレイカー」だった。――――裏を返せば、もう半分は実力だと評されていることになる。
 だが一方、社交界での評価は。
「サルトス家は魔法使いで落ちこぼれた令嬢を魔法騎士団マギ・アーサーはしらせた。しかも剣術さえ、魔法の剣の力で上げ底させて」
 剣技や馬術について言えば、通常の騎士ならばともかく魔法騎士マギ・アーサーとしては充分に合格点がついたはずだった。魔法の力も、アティの力はけっして下に置かれるものではない。落ちこぼれどころか、少なくとも一流に継ぐという程度には言って差し支え無いはずだ。
 けれどもそれは広い世界と比べての話。ランディやアヴィディアなどの、それにサルトスを含むそれらの傍流などといった、いわゆる魔法の名門一族、より強い力を求めての血流を組んできた一族の内としては、たしかに生来持つ物からして低い。まして、魔法に重きを置く国の貴族が武芸を誇って何になろう。
 そしてなによりも。大貴族サルトス家の誇りをもって上と前ばかりをよりよく見るアティの耳に、昔からより頻繁に大きな声で入るのは、社交界の人々や一族の者の、痛烈な否定の言葉ばかりだったのである。



 町並みを仄かに赤く染めていた夕陽の欠片もすっかり消えた頃。
 王城下の一隅に構えられたカノン・サルトスの邸宅では、ようやくその庭に据え付けられた背の高い灯台に火が灯されつつあった。
 本来なら陽が落ちきるより早くに灯されているはずの火だったが、今日の当番の召使いが風邪をこじらせて寝込んでしまっていて、薄情なことに召使い頭はその事実に陽が落ちるまで気が付かなかったのだ。陽が落ちてもまだ暗い庭に気が付いて、慌ててたまたま一番近くに暇そうにいた使用人が、当番の代役を命じられた。
 代役を命じられた狐色の髪をした青年には、これは普段やり慣れたことではなかった。手つきがひどく危なっかしくて、時間もかなり余計にかかっている。「なんだって僕がこんなこと」云々とぼやきながらだらだらとやっているのも、仕事の効率が落ちる要因の一つに違いない。
「貧乏くじ、おつかれさん、ルナール」
 通りすがりに声を掛けられた。この当番を言われたとき、彼の次くらいに召使い頭の側にいた男だった。そうと判って、肩をすくめて返す。
「まったく。あんたがうまく逃げたりしなかったら、僕は今頃街に出て呑んでるはずだったのにさ」
「ばぁか。俺はちゃんと他の仕事があるんだよ」
 男の言ももっともだった。このルナールという青年はカノン・サルトス邸の使用人のなかでは少しばかり特殊な立場にいる。元はアカデミー出の研究者崩れで、少しばかりの魔法ができるのと資料整理が得意なのとで、役割としては雑用が半分、邸宅のあるじの研究の補助に近いことが半分、というふう。つまるところ、暇なときにはとことん暇になる人間だった。
「ま、さすがにもうじきお終いだけどさ。
 なあ、後で呑みに出るの、付き合わないか? なんなら奢るから」
 相手はもう一度、「ばぁか」と言った。
「俺は仕事がある、って言ってるだろうが。お前さんと違って暇じゃないんだよ」
「……僕が四六時中暇みたいに言うなよ。なんだったら今度、資料あさりで書庫に詰めっぱなしのまる五日貫徹、付き合うか?」
 冗談じゃない、と男は肩をすくめて、まぁがんばれや、とパタパタ手を振って立ち去る。ルナールはそれに軽く手を振り返してから、次の灯台に向き直る。
「これで最後……と。面倒だなぁ」
 軽くため息をついて、それからふと思い立ったように姿勢を正す。
「――――ルナール・ラヴェルの名において 炎の霊に願う
  破壊を司る者よ 再生の責を負う者よ
  我が願いを聞き届け  炎の術を貸し給え――――
   ――――キャンドル・ファイア――――」
 ポン、と灯台の真ん前に炎が灯った。
「…………って、え?」
 中、ではない。だから、炎はそのまま、ぽとりと落ちる。
「うわっ、外した……ってか、ヤバい!」
 慌てて駆け寄る。落ちて下草に引火しつつある火を、慌てて踏みつける。グリグリと回して踏みにじってから、そうっと足を上げる。
 もちろん、火は跡形もなく消えている。
「…………はぁ。焦ったぁ」
 ぼけっとしながら唱えたのがまずかったか。こんなことで小火ぼやでも出したなんてことになったら、洒落にもならない。盛大に安堵のため息をはく。
 不意に、それに重なるように。
「……ッハハハ キャハハハハ」
 耐えかねて吹き出したような、高い声の爆笑がルナールの背中から振ってきた。一瞬だけぎょっとして、それから後ろを振り向く。
 少し離れた暗がりにある石造りの彫刻に、いつからなのか、人が座っていた。女性だ。その姿を遠目にでも見て名前が浮かばなかったら、よほどの新参でない限り、この邸宅の使用人として問題があるだろう。
「……あ。どうも……気が付きませんで……えっと……お、お帰りなさいませ、アティお嬢さま」
 よりにもよって屋敷の住人でもあるあるじの姪姫に、とんでもないところを見られたかもしれない。そう思えば冷や汗も出るし、しどろもどろになるのも仕方がない。
 そんなルナールの焦りなど知るふうもなく、アティはまだ笑い続けている。
「……あのぉ。ほんの出来心でして。二度とこんな横着しませんから、できればカノン様にはご内密に……」
 言ってはみたが、聞こえていそうにない。しかしそれにしても、そこまで笑うほどのことかなぁ、とルナールが思い始めた頃、不意に笑い声が止んだ。
 わずかに間があって、それから彼の背後になっているさっきの灯台に、ふっと火が灯った。一度それを振り返ってから、再び目を戻すと、アティは立ち上がっていた。
「……下手くそ」
 そう言った声はまだ笑いを含んでいた。よく見ると目の端に、涙さえ浮かんでいる。ぴん、と、白い絹の手袋に包まれた指を立てた格好でいた。
「あはは……おさすがで……」
 彼女が、ルナールより遙かに離れた場所から、いとも簡単に同じ呪文で火を灯して見せたのだ。
 よく見れば彼女はまだ魔法騎士団マギ・アーサーの制服のままだった。
「今、お帰りですか? 遅くまで、ご苦労様です」
「んー、そうでもないんだけれどね」
 この表情を魔法騎士団マギ・アーサーの団員がみたら、十人中十人が驚くに違いない。意地も嫌みも混ざらない、可愛らしい笑顔。
「貴方、なんていうの? 警備の魔法使い、じゃ、ないわよね?」
 この邸宅で働く使用人はけっこう多いし、アティは王宮へ出仕もする忙しい身だ。普段の生活にめったに関わることの無い範囲の使用人の名までは、いちいち覚えてはいまい。
「ルナール・ラヴェルといいます。一応、学者志望の研究者崩れで、こちらのお屋敷ではカノン様の研究のお手伝い辺りを中心に使っていただいてます」
「……研究者、ねぇ。やっぱり精霊とかの?」
 カノンの研究はその方面だから、そう思うのが普通だろうが。
「一応、僕の専門は伝承学です……ええっと、叙事詩とか昔話とか」
「昔話、ねぇ。じゃぁ、そういう本なんか、たくさん持っている?」
「……一応。頂いたお給金でこつこつと買い溜めてたりはしますけど」
 少し、アティは首を傾げた。
「貴方の蔵書に『片翼の天使』の物語はあるかしら? そんな昔話があるというのを、聞いたことがあるような気がするのだけれど」
 ルナールはこめかみに指を当てて、思い出すような仕草をする。
「ええと……『イハとエト』の神話のことですかね? 全集の中に一章として入っている程度のでしたら」
「ええ、それでいいわ。よければ今度、貸してちょうだい。伯父様は物語のご本なんて、持っていらっしゃらなさそうだし」
「……あ。はい」
 これは、お嬢様に既知を得た、と考えて良いのだろうか。いやいや、そうじゃなくて、ここは学者(モドキ)として、興味の無さそうだった人が伝承や物語の一端に興味を示してくれたことを喜ぶべきだろう。――――ルナールが使用人根性と研究者根性との間でやくたいもない葛藤をしている目の前で、アティはまだ邸内へ入ろうともせずに立ったまま、紺碧に染まった空を見上げていた。
 無益な葛藤を切り上げたルナールはその“お嬢様”の奇妙な様子に気が付いた。何かあったんだろうか。ふとそんなふうに思った。考えてみればさっきの大爆笑も、普通ならばやっぱり、そこまでのことではない気もするし。
 けれどもどうにも声をかけあぐねていると、少しして、アティが口を開いた。
「ルナール……だっけ」
「はい」
 名前を呼ばれたので、とりあえず返事をする。間がまた少し空いたので、なんだろう、と待ってみる。
「さっきの、呑みに出る、っていうの、ねぇ」
「……はい?」
 思いも掛けない台詞が“お嬢様”の口から出て、少々混乱をする。今度はアティはほとんど間を空けずに続けた。
「あたしが付き合ってあげようか? 奢ってくれるのよね?」
「……………………はい?」
 今度こそ、ルナールは完全に混乱パニックした。



 雑踏の中。ほんの裏手に貧民街スラムを抱えるような下町の、時間が時間だからほとんど辻ごとに客引きの娼婦の姿さえ見えるような路地沿いの安酒場。
 傷だらけになったテーブルの一つに掛けたルナールは、自分の目の前に掛ける連れの様子を窺った。もの珍しげにメニューを眺めては、ときどき質問を投げかけてくる。
 長い赤紫色の髪は紐で一つに束ねている。服はルナールの嘆願を容れて制服から簡素な男装に替えて、それでも剣は腰に吊したまま。着けたままの白い手袋が奇妙に浮いて見える。
 少しだけ、ぼんやりとしているように見えなくもない。
 ――――…本当に来るとは思わなかったよ……――――
 ルナールの、それが素直な感想である。
 彼が出向こうとするのがどんな場所にあるどんな店か。まともなお嬢さんが、まして貴族のお姫様やお城の偉い人が出入りするような場所では絶対にない。金のない庶民や学生とかゴロツキまがいの傭兵なんかが安酒喰らうだけの店だ。安いだけが取り柄で美味い物があるわけでもない、と、ひたすら力説したにもかかわらず。
 アティは、“魔法騎士団長マギ・ブレイカー”で“サルトス家のお嬢様”は、前言を翻すことなく、“ルナールが呑みに出る”のに“付き合った”。
 簡素でもやはり服装は貴族の持ち物に違いはないし、そもそもその仕草、椅子に掛ける姿勢ひとつだけをとっても、周りから浮き上がること甚だしい。物語では王道の、お忍びの王様だの姫君だのというのは、実際にはこんなふうに見えるのか、などと、ルナールはヤケクソぎみに考えてみる。
 やがて注文して出てきた料理を、アティはどうにか食べられる、と呟きながらいくらかつまむ。それから、酒のグラスを手にして、口に運ぶ。
「…………不味い」
「……そうでしょうね」
 ルナールは苦笑した。“アティお嬢様”が酒をたしなむというのは聞いたことがなかった。そもそも彼らのような身分の人が呑む酒ならば、どこそこの何年物などという偉そうな銘柄のついた葡萄酒のような上質な物ばかりだろう。
「味でどうこうってもんじゃないですからねぇ、この種の店の酒なんて」
 酒気アルコールがあって酔えればよし、などという粗雑な酒など、彼女の暮らす“世界”にあるはずもない。
「……味じゃなきゃ、なんのために呑むのよ」
 アティは口から離した杯を両手で包むように持って、一口だけ口を付けたその液体の表面を見ながら訊ねる。
 ルナールとしては真面目に考えたこともなかったが、なるほど、もっともな疑問である。
「大人数で呑むときはまぁ、ノリと勢いですか。
 一人二人くらいの時は……酔うため、ですかね。僕なんかは酔っぱらうとけっこう、気持ちよくなれるタチなんで。あとは……」
 腕を組んで、少し考えながら。
「あとは、うん、そうだなぁ。憂さ晴らしとか、ですか」
「憂さ晴らし?」
 アティは軽く眉をひそめる。言葉の意味がわからないのではなくて、どう晴らすのかが思いつかない。
 ルナールは、説明するための言葉を探した。
「酔っぱらうと、けっこう気が大きくなりますからね。普段は怖くて言えないことなんか、叫べちゃったりするんですよね。こういうところで酒の上で、っていったら周りも大目に見てくれて、よっぽど何言ってても無視してくれるし」
 アティの表情を窺う。まだわかっていなさそうに眉をしかめている。それで、ルナールはそっと声を潜めた。
「ええっと、ナイショですよ? 例えば僕の場合、ですねぇ。
 思いっきり叱られた後なんかに…………召使い頭の悪口なんかがなってみたり…………あと、これは本当にナイショで……“カノンさまの分からず屋ー!”とか………………」
 瞬間、アティはきょとんとした顔になって、「本当に、ナイショにしてくださいね」と唇に指を当てて繰り返しているルナールを見た。それから手に持った酒杯をじっと見つめる。
「……いいわよ。ナイショにしてあげる。だから、貴方もナイショよ?
 奢れなんて、言わないから」
 おもむろに金貨を一枚取り出して、ルナールに押しつける。それから、彼が慌てるような勢いで、さっき「不味い」といった酒を一気に飲み干した。
「そこの貴方。これ、十杯くらいまとめて持ってきてちょうだい」
 空になった杯を卓に置くのとほとんど同時に、アティは店員を捕まえて注文していた。

 止める間もありはしない。いくらルナールが後で店員にこっそりと、持ってくるのは軽い酒にしておいてくれ、と頼んだにしても。
 元が酒に慣れているはずもない“お嬢様”の「まとめて十杯」が、そろそろ三組目に突入しようというのだから、もう強いのも軽いのもありはしない。
 頬がうっすらと赤くなっているくらいで顔には出ていない、というのは、たぶん単に体質のなせる技だろう。目はとっくの昔に据わってるし、手元も怪しくて、空になった杯のなかには一つ二つ、呑み干したのではなくてひっくり返したのもある。
「……傅英ふえいだって、少しくらいは判ってくれっていいじゃない。バカ正直に出ていく人がありますか。何年生きてるってのよ。ちょっとは気を回して察しなさい、鈍感! 若作りのわからず屋!!」「あいつら陰口なんか叩いてないで、言いたいことがあったら面と向かって喧嘩売ってくればいいのよ」「ギルバートさまのウンチク魔!! 無口のふりして、きっと普段から花壇の花にでも講釈してるんだわっ!!」「ネヴィルさまなんか知らないんだからっ! 布団に丁度良さそうな羽根して!」
 ルナールはお城の偉い人の名前などろくに知らないから訳が判らない。――――正直なところ、王様やビショップ様の名前ですらかなり怪しい。もっとも、多少名前を知っていたとしても、酔ったアティのどんどん支離滅裂になっていく話から人物像を結んだりしたら、大変なことになるだろうが。――――
 とりあえず、何だか知らないけど偉い人にも大変なことってあるんだなぁ、とぼんやり聞きながら、黙ってちびちびとやっていた。
「……あの、アティお嬢様、そろそろ……」
「次っ!」
「……あ、はい、どうぞっ」
 これ、バレたらやっぱりヤバいだろうな。クビなんてことにならなけりゃいいけど。
 さすがにそろそろアティの目が眠そうになっているのを見て、ルナールは、さて、どうやって誰にも見つからないようにお屋敷に入ろうか、と考え始めていた。



 ――――やがて。
 酔って潰れて完全に眠ってしまったアティを、ルナールは注意深く背負って帰途についた。
 意外と小柄で華奢なんだな、とふと思った。魔法騎士団マギ・アーサーの団長だというくらいだから、もっとがっしりとしてるんじゃないかと勝手に思っていた。こんな華奢な身体で――――あまり関係ないかもしれないが――――曲がりなりにも『騎士団』などと呼ばれる男たちの上に立っているのか。
 その手に着けた白い絹の手袋が目に入った。酒杯をひっくり返したりもしていたから当然、ずいぶん濡れて汚れている。それを脱がそうとして手をかけて少しずらして――――それからルナールは、そっと元に戻した。
 手袋の下の予想に違わない華奢な手に、大きいのから小さいの、古いのから新しいの、無数の傷やその跡があるのを見てしまったから。
 少なくともソーサレスの魔法の練習では、ああいう傷には絶対にならない。中級程度が限界とはいえ、一応はルナールも魔法をかじっているから、それは判る。だとすればその傷は――――たぶん、剣術か馬術の練習によるもの。
 女の人だものな、お姫さまだし。傷だらけの手なんか人には、特に男には、きっと絶対に見られたくなんか無いだろう。その程度の気なら、ルナールにだって回すことはできる。
 こっそりと、ルナールはアティを背負ったままカノン・サルトス邸に戻った。さすがに門番には見とがめられたけれど、頼み込んで事情は問わないでもらうことが出来た。
 アティお嬢様のお部屋はどこだっけ。――――知ってはいるはずだが、普段は縁がなくてほとんど忘れている記憶を掘り返す。
 もう廊下の灯りはほとんど落とされていた。僅かに残された分だけの燭台の灯りと窓から入る月明かりとを頼りにして、忍び足で廊下を進む。ともすれば鳴ってしまう靴音が異様に響くような気がして、少し身震いをする。
 それくらいだから、その目の先に黒く人影が見えたときのルナールの震え上がらまいことか。ましてその正体が――――
「……か、カノンさま」
 背負っている酔いつぶれた姫君の保護者その人だ。全身からどっと冷や汗が吹き出した。
「……あ、あのですね。別に僕が率先してお嬢様を連れだしたとかじゃぁなくって……お酒だって、僕は止めようと思ったんですけど…………」
 聞かれもしないのにぺらぺらとしゃべるのを、カノンがどう受け取ったのか。実のところ、主人が何をどう考えているのかなんて、ルナールは普段からよく判っていないけれど。
「判っている」
 声はそれだけだった。示した身振りは、アティを部屋へ「連れて行け」だろうか、それとも「連れて行ってやれ」という辺りにとっておこうか。
 どちらにしてもルナールは少しホッとして、立ち去るカノンの背を見送ってから、さらに続きを進む。
 アティは何も知らなさそうに寝息を立てていた。時々唇が動いて、何か人の名前らしきものを言うのを、ルナールは敢えて聞かないようにしていた。
 やがて、アティの部屋の前にたどり着く。軽く小さく戸を叩くと、同時かと思うくらいに勢いよく開いた。
 遅いのに心配して待ちかねていたのだろう。飛び出してきたのは、今も彼女の身の回りのことを中心になって取り仕切っている乳母だった。まずアティの様子を確認して、それからルナールを咎めるように、問いつめるように睨む。
「僕もよく判らないんですけど、なんか嫌なことでもあったみたいですよ」
 カノンの登場は予想していなかったけれど、この乳母の存在は予想していたから、そう、用意していた言葉を言った――――それでも少し後ずさりながら。
 相手はため息を吐く。
「それでも。何を考えてるの、こんな夜中にお嬢様を連れ出すなんて」
「……ご冗談。僕が誘うわけないし、誘ったところでお嬢様にその気がなきゃぁ、こんな下っ端、話すら聞いて下さるはずもないでしょ」
 乳母はそれで返答に窮した。厳然たる事実、それに勝る物はない――――さすがにちょっと、自分自身が情けないような気もするが。
「かなり呑んでらっしゃいますから、目を覚まされたらお水をたくさん飲ませて差し上げて下さいね。あと、塩気の強いスープなんかもいいかも。
 …………どっちみち、明日は起きられないような気がしますけど」
 もう一度、ため息。それからアティの身柄を引き取った乳母は再び、“お嬢様”を連れ出したに違いない青年を睨み上げる。
「本当に、もうこんなことは絶対、困りますよ、ルナール」
 怒られても、とルナールは困った表情をして首を傾げた。
「……できればそれ、お嬢様に言って下さいね。僕は「これしなさい」って言われたら何でも、はいはい、って聞くしかできない立場の人間なんで」
 アティの乳母の三つ目のため息を浴びると、ルナールは引きつった愛想笑いを置いて、這々ほうほうの体で逃げ出した。



 立ち去ったルナールの様子に、アティの乳母はひとつ、小さく頭を振った。もちろん、あの狐色の髪をした青年が積極的に“アティお嬢様”を連れ出して酒を飲ませたなどとは思わない。彼自身が言うように、できるわけもない。
 だからこそ、彼女のため息は深くなる。
 いっこうに起きる様子のないアティの腰から剣を、手から手袋を外して、夜着に着替えさせるために衣服に手を掛ける。
 貴族の姫君である彼女の本来ならば一つの傷もない、珠のようであるはずの肌は、ルナールの見た手ばかりでなく、至る所に傷の跡がある。さすがにそのほとんどは古い。鞭による傷跡が多い。
 魔法の指南書を辿るばかりだった少女の華奢な手に、始めて剣が握らされたのは十三の年。「アティ・サルトスの魔力の底は見えた」――――主筋であるランディ本家の家長の一言があった日から、いずれは魔法騎士マギ・アーサーの道を歩むべく、文字通りの教鞭が振るわれた。成長の遅い者には身体に叩き込むのが一番だ、というのは、どうも昨今のランディ本家の風潮らしかった。後に、本家の世継ぎの少年すら、そうして魔法を叩き込まれたのだと風の噂に聞いた。
 魔法騎士マギ・アーサーとしても使い物にならなければ下級の魔法使いとして飼い殺すしかないからそう思え。――――女の身ならば魔法や戦事いくさごとが出来ずとも、例えば政略的な婚姻の具にすることもできるだろうに、ランディ本家がアティに下した裁定は、魔法騎士マギ・アーサーの道だった。
 いつからだったろう、剣を放り出しては指南役の者に鞭打たれて、傷だらけになっては泣いてばかりの少女だったアティが、自らその道を見据え始めたのは。
『“魔法騎士団長マギ・ブレイカーの任命を頂いたのよ』
 アティから直接にそれを聞いたとき、内容よりも、それを誇らしげに、嬉しそうに言った彼女の様子に、乳母はほっとしたものだった。不本意な道を、ずっと不本意にだけ思いながら歩んでいたら、それは辛すぎる。
 夜着に着替えさせ終わると、乳母はたらいに湯を持ってきて、その身を清める。特に、アティがいつも気に掛けている髪は念入りに。――――どんなに鞭打たれても、髪には傷跡は残らないから、それに何を着ようとも、髪だけはいつでも見えるから、だから髪はいつも綺麗にしておくの。――――
 アティの枕元の台に置いた盥を少し移動させたとき、コツンと音がした。そこに立てて置いてあった、手のひらほどの大きさの肖像画に当たって、それを倒したのだ。
 立て直すために手に取る。彼女も、それにアティも知らない女性の肖像画だ。もうずいぶん前に、アティが悪戯心を起こして伯父カノンの部屋からこっそりと持ち出してきてしまったものだ。裏側に小さく、走り書きのような文字が見える。曰く“愛しき人。願わくば永久とわに傍らに”。
『誰かしらね。あの伯父さまにも意外にロマンチストなところがあるのかしら』
 そんなことを言いながら、その伯父に発覚した時の怒りを恐れて、未だに返すに返せずにいる――――まだまだ、そんな子供っぽい部分を持っている。
 そういう少女らしい感性で魔法騎士団マギ・アーサーでのこと、ことにその副団長サブブレイカーのことを、楽しそうに話していたこともあった。
副団長サブブレイカー傅英ふえいって言ってね、ハーフエルフの有翼人なんだけど、とっても綺麗な翼をしているのよ。
 アヴィディア家の誰かさんはネヴィルさまが一番だって吹聴してるけど、信じちゃダメよ。乳母ばあやだって見たら絶対、そう思うから。一番は絶対、我が副団長サブブレイカー殿に決まっているんだからね』
 一番のさかりを魔法と剣術や馬術といった武芸事の修練ばかりに費やされた少女の、遅い幼稚な初恋のような語調。余人が聞いたら眉をひそめるだろうが相手は乳母だけだったし、彼女にしてみれば、アティがそういう無邪気さを失っていないことが嬉しかった。
 そういえば最近、アティの口から魔法騎士団マギ・アーサーでのことや、その傅英ふえいという名を聞かなくなっていた。たまに出ればどうにもぶつけ所の無さそうな文句がほとんど。――――いつの間に、そんなことになってしまったのかしら。
 寝台で、アティはよく眠っている。泥酔のせいだろう、時々苦しそうに眉をしかめる他は、ぴくりとも動かない。火照った身体やにじみ出る汗を、たまに冷やしたり拭いたりしてやる。
「…………このご様子じゃ、明日はお城へのご出仕はむりだろうねぇ」
 まさか泥酔で、などと、お城どころかカノン様にだって言えやしない。なんと言いつくろおうか。
 悩む乳母の側で、寝台の脇に置いた剣ソルリークが静かに、窓から入る月の光を弾いてたたずんでいた。

 自分に貸し与えられている部屋へ戻る道すがら、ルナールは酒場でアティから受け取った金貨を取り出してみた。
「……どうしよう、これ」
 少なくともルナールにとっては、けっこうな大金だ。いくらアティが大量に呑んだとはいえ、しょせんは安酒場の安酒だ。お釣りはうなるほど来る。とはいえ、返すほど謙虚にもなれない。
「……ま、いいや。欲しかった本でも買おうっと」
 一度だけコインを弾いて宙空に廻してから、もう一度しっかりと握りしめる。もう離さないぞ、とでもいうように。
「役得、ってことでいいよな」
 そういや、アティお嬢様に本を貸すと言っていたっけ。あの様子で、お嬢様が覚えていれば、の話だけれど。だいぶ整理整頓が怪しいから、どっちにしても一度探して引っぱり出しておかなきゃ。
 それからルナールはひとつ、大きく欠伸をした。
 さて。今日は今から、どれくらいの時間、眠ることができるだろう。そんなことを考えながら、部屋へ戻る廊下を歩く。



 最後にひとつ。
 ルナール・ラヴェルと乳母との予想ははずれて、アティ・サルトス魔法騎士団長マギ・ブレイカーはこの翌日も、きちんと定時に出仕した。
 もっとも、二日酔いの頭痛と吐き気を無理矢理に押してのことだったので、普段に輪を掛けて機嫌の悪い団長ブレイカーに、魔法騎士マギ・アーサーたちはかなりいい迷惑だったようではあるが。



【“魔法騎士”と“学者崩れ”のこぼれ話】― 了

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初稿:2004年9月25日
改稿:2004年12月12日


【−参照−用語・キャラクター等関連ML(〜No.2914 時点)】

魔法騎士団マギ・アーサー
魔法騎士マギ・アーサー
魔法騎士団長マギ・ブレイカー
魔法騎士団副団長マギ・サブブレイカー
アティ・サルトス
傅英ふえい(傅英・ヴェリスーン)
  ……『2898/ネヴィル−51−幕間−【片翼のマギ=アーサー】』

カノン・サルトス
  ……『2859/きみのたたかいのうた(986年)−13(ネヴィル−46)』
  ……『2884/フォルクス・環《サークル》挿話−11-上-』

ルナール・ラヴェル
  ……『2869、2870/フォルクス−81−(ランディ家の策動アスリース行き−1)』
  ……『2902/フォルクス−82−閑話−ルナール』

片翼の天使(イハとエトの神話)
  ……『2910/ルキ 24』

ソルリーク
  ……初出