真夏の楽園


 ACT:1  < < 記憶の傍ら > >

 晴れた空。
 遠ざかった戦乱の足。
 フラッシュのように生々しく甦るあの景色。
 何も知らず踏み入れた足。
 気持ちが悪いほど張り付いた、顔の筋肉。
 か細い声と、呼吸。
 流れ出た赤い体液。何かの蛇口のように。
 小さな、口から。
 信じられなくて、信じたくなくて。
 信じたくて。
 悲鳴は凍り付いた。
 言葉が嘘を吐いた。

「………ミス…タータ…………?」







 初めて自分の耳を疑った。


 妹の病気が、『炭素病』だと知ったときだ。



 炭素病とは風邪の悪性の病だ。
 人の吐き出す炭素を糧に成長する細菌は人の身体を蝕む。
 幼い妹はなお、その速度も速いのだと、見越されていた。
 救う術が思いつかなくなって、俺はただ途方に暮れた。
 どうしたらいいかすら、思い浮かばなくて。
 プリーストにしろ、こんな辺境にいるものでもないし、助けを求めたところでたかが傭兵風情の田舎風情。強欲な領主が許すとは到底思えないし、そもそもプリーストに末期にまで近づいた妹を救える保証はなかった。
 だから、無茶だと知っていても。
 出た結論は一つだった。
 それが妹を悲しませる結果でも、ただ一人の家族を失いたくはなかった。
 そしてその選択は急激に確かに、俺の運命を変えた―――――――





 その日も、晴れきった快晴だった。
 夕暮れ襲ってきた嵐に、慌てふためいた人々の足で泥濘の地面はぐしゃぐしゃになる。
 身体を濡らしていく、冷たい、気持ち悪いだけの雨。
 冬の大気に染みいって、凍えるように冷えたけれど。だから何だという気がした。
 ただ世界すべてが嫌いで、妹以外どうでも良かったのかも知れない。
 その時。
 ただ、世界のすべての感覚が薄皮一枚向こうの世界のように、振り切れていた。
 手に掴んでいたのは、未来でも過去でもなく、ただ一振りの剣だった。
 初めて傭兵になった時から、ずっとその手の中にあった、灰色の剣。
 視界に高く、映ったのは荘厳建つ絢爛の城。

 アスリース王宮

 まるで、天を走った光の線が合図と自分自身で示し合わせたように、自然と足は地上を蹴っていた。背後で轟音が鳴る。
 舞った木々の枝、風にもぎ取られた自然の欠片。
 城壁を蹴った足が、地上に落下するまでの僅かな間。
 地上を照らした一瞬の閃光が窓辺の誰かを浮かび上がらせた。自分自身さえも露わにするように。
 濡れて泥にまみれた草の上に落ちる音を聴く。服が雨を吸って重い。
 咄嗟に見上げた窓辺には誰もいない。
 そんなことはどうでもいい。
 人の影から隠れるように、城の敷地を駆け抜けた。
 手に握りしめた、小さな球体を強く持って。


『……なあ六花、気の毒だけどさ……ミスを救うのは………』


 名前すら覚える気もなかった、村の誰かの言葉。
 そんな事が言えるのは。

『…無理だと思う……俺達じゃあ』


 そんなことが言えるのは、お前が他人だからじゃないか。
 誰にも分からない。俺の気持ちも、妹の恐怖も。
 もしかしたら誰かに気付かれただろうかと思う。
 耳を打つ音が雨が直に自分の耳に当たる音なのか大地に降る音なのか自分の足が大地を蹴る音なのか分からなくなってきた。
 何処か騒がしい、気もする。


『……だってそんな末期の……治せるなんてビショップ様くらいしか』


「!」
 眼前の雨の霧の中。
 浮かび上がる人の黒い陰。
 六。
 不意におかしくなって笑う。
 握りしめていた球体を更に掴む。
 おかしくなる。
「お……前………!」
 遠くで叫ぶ声がした。
 遠すぎるせいか、雨のせいか、途切れ途切れにしか聞こえない。
 握りしめていた球体を思い切り放り投げた。
 一瞬の間、叫びと疑問と。
 直後訪れる小規模な閃光は雨に掻き消される。
 残った兵士達の倒れた、まだ上下する身体を起こして問う。
「ビショップの部屋は?」
 頭を掴まれて起こされた兵が虚ろな瞳で、六花を捕らえない視界で呟く。
 小さく。
「………城の奥……六階の…左側の中腹……西の塔の側の………鳥の紋様の扉」
 聞き終わってすぐ、掴んでいた手を離す。
 糸が切れたように首を折る兵士を足下に立つ。
「…西」
 呟いて、笑う。半端に。

『ああ六花。これ怪しげな店で売ってたんだけどなー居るか? 何でも……』

「…役には立ったよエーリック……」

『…何でも一時的に夢遊状態にするとか。まあどうせ偽物だろうけど』

「…西の塔の傍ら……其処に」


『確か今代のビショップ様って有翼人だろ? エリヌース祭で見たこと有るぜ』


 半端な笑みは去らない。
 見上げる城。雨は更に強く。
「全くお前に教えられたことは今際役に立つよ…」
 そんな意味じゃあないんだろうけどな。
 夜は始まったばかりで、記憶の意味すら、まだ重い。



ACT:2  < < 叶わない願い > >

 多分その頃は、自分の何処かは壊れていた。
 昔から『詰まらない奴』だとか『クールで堅い』だとか散々言われたが興味がなかったと言うよりただただ人のつき合いという行為が面倒で。
 多分、ずっと壊れ欠けていた。
 多分、生まれたときから。多分、父が死んだ日から。

 窓枠を切り落として城内に侵入する。
 回廊に引かれた赤い絨毯に黒い染みが残る。壁に、水滴が飛び散る。
 当然気付かれない方がおかしいのだ。兵士はそれは出てきたが数はそう多くはなかったしその度に叩きつぶしてきた。まあ、その時ちょっとした事件がアスリース内であって、手練れの騎士達がそちらに配置されていていなかったせいかもしれない。エリヌース祭間近だったせいか。
 自分に躊躇いなど、なかったからなのか分からない。
 ただ妹さえ救えればいい。
 ビショップの手で、治して貰えるなら自分が処刑されようが良かった。
 だから誰か、なんて叫びはしない。意味がない。
 兵士の顎を手の平で跳ね上げてその間にもう一人のみぞおちに柄を埋める。
 倒れた音を聴く気もなく、踵を返そうとしたときに。
――――――音が聞こえた。
 聞いたことのない、けれど背筋が怖気に震えた。確かに何か。
 咄嗟に横飛びして絨毯に波を創る。
 直後自身がいた場所の宙空に炎が発火して消える。
「…なんだ。何処ぞの盗賊かと思いきや別件…」
 男の、けれど何処か高い感のある声。
 視界に揺れた藤の色。
「………ソーサレスか」
 淡い藤の色の髪は長く細く結われ、翡翠色の細められた双眸が面白げに六花を見据えた。
 全てを覆った藤色の手袋の指が、銃の形を示すように六花を指す。
 黒衣のローブの裾を捌いて、指が空を真っ直ぐに切った。
「腕は立つね君、けど……不法侵入は行けないね…」
「!」
「リービー・ダスト」
 刹那何もない空間から浮き出て六花に放たれた幾筋もの雹の矢を飛んでぎりぎり交わす。掠めたのか足がちりと痛んだ。
 剣を構え直す。
「ミスト」
 その間に相手が唱えた呪文に先手を取られたと察する前に視界を濃い霧が一瞬に覆う。
 構わずに床を蹴る。遠くで何か聞こえたのに、何故かそれを無視したまま霧に突っ込んだ。端から迷ってる暇などない。
「っ邪魔をするな!」
 霧が急に晴れる。抜けた。
 先に僅かに驚いたように立つソーサレス。
 情けなど存在しないように振り上げた切っ先。
 けれど落ちた先に死も傷もなかった。
 翳した手。
 笑んだ相手の口元。
「ライト・シード」
「っな…!」
 声に応えるように具現した光の盾によってあっさりと受け止められた剣に一瞬茫然とする。だが一瞬だ。すぐに飛んで離れる。霧は消えている。
 霧の残像を消すように剣を一閃する。
「終の赤、浅く眠る死を呼び覚ませ、地上に怒り灯りて争を呼ぶ」
「っ!」
 詠唱に入る瞬間に床を蹴った。
 卑怯だとか、多分どうでも良かった。


『六花って…本当ルールとか五月蠅いよな』

 もう、どうでも。
「伝う我が名は遙藤」
「―――――――」
 一瞬、剣を振り上げた瞬間浮かんだ妹の幻影に。
 笑う、少女に。眼を背けるように目を閉じた。
 振り下ろす手は、止めないままで。


 ただ
「逆巻け焔――――――」
 彼の紡いだ呪文と、瞬間砕け散った自分の剣と。
 それは、どちらが先だったか。
「カーマイン!」

 直後、自分を襲ったのは耐え難い激痛だった。



「――――――っぐ <」
 当然のことのように、悲鳴が口を吐いた。
 一瞬宙に投げ出された身体が痛みを伴って地に落ちる。
 焼けただれてなお熱さが皮膚を侵蝕する左肩を押さえて呻く。
 そうしてたって痛みは去らないのに、ただ額を床に擦り付ける。
 ただ痛みに体が震える。
 靴音が、酷く間近で響いた気がした。
「……とりあえず蒸発はさせてないけど…どうするつもりなの?」
「…………」
 片方の、声が遠くて聞き取れない。
「……分かったよ。とりあえず知られないように…いやもうバレたか。
 面白いこと好きだから……」
 何の、話をして居るんだろう。
 手が、動かない。
 このままどうなるんだ。
 このまま、俺が居なくなったら。
「っぐっ……あ!」
「! ……意外。まだ起き上がる気力があった」
 髪が顔にかかる。
 揺らぐ視界に映る、あのソーサレスと。
 ダークブラウンの髪の、長身の騎士。
 深い藍色の双眸が、射るように見下ろす。
 肩が、痛い。
 以上に、ただ自分が嫌いになる。
 このまま処刑されたら救えない。
 妹一人、救えない。もうそれしかないのに。
 噛み締めた奥歯が鳴る。
「何がしたいの?」
「何が……?」
 荒い息で、それでも必死に紡いだ。顔を上げることすら、支える手すら辛い。
「……妹が……炭素病で…もう…」
「…つまり、ビショップ様狙いか」
 呆れたような声に、腹が立つ。
 笑えばいい。けど、俺には。
「……俺には……それしかないんだ」
 何時だって虐げられた。
 何時だって声は届かない。
 救えない。ただ一人。
 どうして笑えるんだ。
 この現実は。
「…何故笑えるんだ……………俺は………………どうして……何一つ叶わないんだ!」
 この現実はなんなんだろう。
 自分の罪もやったこともその重さも知っているから。
 分かっているから。
「…みんな生きたいだけじゃないか…ただ妹を生かしたいだけじゃないか!
 …どうして誰も……『仕方ない』って言えるんだ……!」
 分かっているから。
 死んだって良い。
 生き地獄でもなんでも、何処にだって連れてけばいい。
 だから。
 だからどうか。
 頬を勝手に伝う、水すら痛い。
「……っくしょ……………………………」
 今頃一人で泣いているのだろうか。
 苦しいだろうか。
 誰も差し伸べる手はないのだろうか。変わらず。ずっと。
 苦しい。

「……………助けて…………………俺はどうなってもいい……!
 妹を助けて………っ <」
 ずっと雨が止まないんだ。
 闇が目にこびり付いて、何も見えない。


 …………ミスタータ…………………………………………………………………





ACT:3  < < 翼 > >

 五時間。
 それだけの時間が経過したことは、牢獄の中でも理解できた。
 湿気た空気と匂い。石を敷き詰めた冷たい壁と床と、鉄格子。
 梳かし扉には固く錠が降りていて、高い位置に一つだけ、小さな鉄格子のある窓があった。日差しはまだ差し込んでいない夜明けの薄暗さ。
 鉄格子に背をつければ冷たい感触と一緒にかしゃんと音が鳴る。
 見張りは遠くの方に二人。
 幾つか連なる牢の中には、自分以外にも数名の人間が居た。
 僅かの情けか知らないが、傷の治療はされていた。そんなことに何の意味があるんだろう。そんな同情は要らない。
 ふと、靴音がして視線だけを傾ける。
 最初に、敬礼の姿勢をとっている見張りの兵士が居た。
 それから。
「……、」
 思わず手を付いた鉄格子に垂れている、鎖が鳴る。
 視線は離れない。
 淡い藤の色の髪の、ソーサレス。
 不意に彼がこちらを向いて薄く笑った。
「今晩は」

 ……何故か酷く、屈辱だった。

「『ミスタータ=エリシェンヌ』、だっけ? 妹さん」
 見張りの兵を追いやって、わざと怒りを促すように彼が言った。
「……調べたのか」
「それはね、仮にも犯罪者の肉親、血は繋がってないんだっけね……。
 ひとまず家族の囲みだからね」
「……何かしたのか」
「何が?」
「何かしたのか妹に! 何かしてみろ! 俺は!」
「それで?」
「…………、」
 薄ら笑いを浮かべている。一瞬、言葉を失った。
「……何、」
「それで君はその檻の中からどうするの?
 だいたい言ってあげるけど、そもそも君が城内の彼処まで侵入出来たのは命令が出てたからだよ」
「…命令?」
「そ、巷で噂の“アスタレイク”を知ってるだろう。あの邪魔な黒瞳の盗賊を潰す為に誘い込むような警備になってたのさ。君はたまたま運が良かっただけ。まあもうひと騒動有った御陰もあるけど」
 淡々と、紡がれる言葉に今更屈辱も苛立ちも浮かばない。馬鹿でも良い。
 笑みさえ顔になく、見下ろすソーサレスの顔が遠い。
 それでもいい。助かるなら、妹が助かるなら俺は何でも。
「…………君さ、今だったら自分の命と妹の命どっち取る?」
「……………」
 不意に欠けられた言葉に茫然と顔を上げる。
 表情が凍り付いたままの彼の顔。
 不意に、おかしくなって笑う。
 迷う必要が、何処にあるんだろう。空っぽの俺に。
「……………妹」
 お前だけなんだ。ずっと。

 カシャンと、金具の音が硬質に響いた。
「じゃあ行くがいいさ」
 耳を疑った、その行為を理解できる自分の余地にも驚いた。
 手の側に落ちた、鉄の錆びかけた鍵。
 牢の。
「……何故」
「情けじゃない。俺は其処まで優しくない。
 ただ会わせてやりたいだけさ俺は」
「…………」
「行っておいで、俺は知らない。
 多分あいつなら」
 そこで初めて笑うように、笑みを刻んだ。

「君の欲しい物をくれるさ」



「藤」
 窓の外に、月が見えた。
 開け放たれた目の前の梳かし扉がキイと鳴っている。
 佇んだまま、背中に向けられる視線に、向けられた言葉に、予め笑みを刻んで振り返った。
「やあギルバート、暇そうだね」
「何のつもりだ」
「何の? 彼をわざわざ行かせたことか」
 誰かの靴音が鳴る。どちらかの。
 刻んだ笑みは去らない。笑わない男を面白そうに見遣る。
「いいじゃない。元の仕事は果たしたのさ俺は。
 アスタレイクは捕らえたじゃないか。
 第一」
「藤」
「……第一もうひと騒動ってのはそれに乗じてビショップ様が逃亡を図ろうとしたからだし。阻止は出来たろう。それに彼にはあいつは殺せない。必要だからね」
 妹の大事な大切な生命線って奴さ。
 そう言って他人事のように腕を組む。黒い長衣の裾が揺れる。
「護りたきゃ護ればいい。それがあんたの仕事だ」
 俺は知らない、それに。
 囁くように言って開いたまま揺れていた扉を軽く蹴る。ガシャンと大げさな音が響く。
「……似てるからアレ。自虐的で脆い。昔のネヴィルにさ」
 意味深に、ヤケに物悲しく響いた声に応えたのは夜の金切り声。
「まあ、ネヴィルより可愛げあるけどねー」
 風の音だけ。
 星空が、ようやく薄れてきた。
 夜明け間近。



 やな夢を、見た気がしたんだど。
「……………寝覚め悪」
 天蓋のある寝台の上でぽつりと呟く。
 カーテンの引かれた窓の外はまだ暗い。
 頭に僅かに靄がかかる。
 寝直す気もなくて起きる。
 広く、整えられた綺麗な室内。
 壁に掛けられた絵画の色は夜目には判別できない。
 ああなれば意味ないなとネヴィルは思う。
 ぼやけた頭で、寝台から降りようと片足を床に降ろした時。声が聞こえた。知らない声。
「……開けてくれ」
 知らない声だ。当の盗賊は捕縛できたとは聞いた。
 けれど部外者ならよく此処まで来れたものだ。
 彼だろうかまさか。一瞬見た、数刻前の、
 髪を掻けあげて、少しだけ強く言う。
「…いいよ」
 その扉には、一種の制約が有る。
 鍵はない。
 ただし、ネヴィルの許可がなければ開かないようにはなっている。例外もいるが。
 要は、魔法の鍵。
 開かれた先に、暗い回廊と、人の姿。
 青灰色の短髪が辛うじて判別できる。
 入った途端、勝手に閉じた扉に一瞬だけ振り返る。見知らぬ人間の動作。
 誰だろうかと思い、けれどあの窓辺から見た人間に違いないとネヴィルは思う。
 藤の奴。
「今晩は」
 不意打ちのように微笑んでみる。僅かに軋む寝台。
「僕はネヴィル=ガールゴート、貴方は誰だい?」


 答えられた名に、彼に間違いないと思う。『ネヴィル』という名の、有翼種の銀の髪の青年。
 けれど、その警戒心の無さに驚きもした。
「……六花。暮咲六花」
「六花。雪の結晶の花の名前だね」
 軽く、その手が六花を手招いた。
 両足を床に降ろした体勢で座り、見上げる目の前のビショップの動作。
 驚きが去らないまま、近寄って。
「!」
 瞬間腕を掴まれて引き寄せられる。間近で囁く、剣呑色の双眸。金の。
「何がしたくて来たんだ?」
 何がしたくて。
 その響きに思わず掴まれていた手を振り払う。
 一瞬、凄く怖かった。
「君を逃がしたのは藤だな? 救いの先が城への侵入とは随分短絡的じゃないか」
「っ! 救いを求めて、望んで何が悪い!」
 払われた手を押さえて、怯まずに見上げる言葉に腹が立った。
 息が荒くなっている。
 見上げてくるビショップはただ、感情の揺らぎもないように自分を見据えて。
「ねえ……あんた、何が怖いの」
「!」
 反射的に振り上げた手が、降ろした先にはすでに彼の姿がなかった。
 シーツに沈む感触。
 手の上に舞い降りる、大きな白の羽根。
 咄嗟に窓辺を見遣る、翼を羽ばたかせて床に舞い降りる、そのただ冷静な双眸。
 どうしてか、何かに突き動かされていた。
 サイドテーブルにあった短剣を掴み鞘から引き抜く。投げ捨てた鞘の落ちる軽い音。
 何が。
 何が怖い?
 そんなの。
 飛びもしない、彼に突き出した刃の切っ先。
 何かが、振り切れていた頭で考える。瞬間まで。
 何が。

 何が怖いの。

 あの時、確かに。


 パッと、赤い鮮血が飛んだ。
「……あ」
 向けられた切っ先。刃。
 そのまま掴んだ彼の手が血にまみれている。
 掴んだままの剣を伝い、零れていく血液。
「…………『俺はどうなってもいい』、だっけ」
 酷く冷静な顔。
「聞いたよ。妹が、炭素病だって、それでこんな事したんだろ」
「……………それしか、なかったんだ」
 茫然と言葉が出た。
「……妹以外に家族は居ない…死んだ…………。
 本当の妹じゃない、けど…俺には関係がなかった」
 自分の腕まで伝う、生暖かい液体の感触。
「…………護りたかっただけなんだ」
 勝手に、頬を伝う、涙。
 もう、笑うことも出来ない。
「……………それだけだったんだ」
 ずっと、胸の奥が痛い。

『お兄ちゃん』

 ただ、生きていることを自分で知れる、証だった。
 どうか、生きていて欲しいだけ。
 神様、どうか。なんて。
 喉が張り付いたように震える。
 息が詰まるようになる。
 血が、服に染みた。
 赤い、色。
 夜明けの、薄暗さ。掴んだ、手が熱い。
 拭えない涙、自分を見据える双眸が僅かに、揺れた。

「………あんたが死んで、彼女はどうなるの?」

 返す言葉が、思いつかなかった。
「一人残されて、どうすればいいと思う?」
「………………………………………………」
 どうすれば?
 そんなこと。
「あんたは彼女が死んだら哀しいだろう。だから救おうとする。
 けど、じゃあ彼女は?」
 ミスタータは。
 茫然とする。
 初めて気付いた。
「……そんなこと、考えたこともなかった」
 一人で、どうしたらいいんだろう。
「残されて泣くのは、妹の方だ。
 ……本当に、幸せを考えていた?」
「……………………、」
 静かだと、違うことをふと思う。
 何の音もない。空気の音もない。静かすぎて。
「一度でも、自分の事を考えた?」
「………………………」
 暗闇の中の、赤い色が目に、ヤケに付く。
 あの時見た、血の色。
 薄暗い部屋の、中。
「彼女の幸せを望むのも、全部それはあんたの願いだ。
 自分が死んで、あんたの幸せは、何処に残るんだ?」
 足が、力を無くしてへたり込む。
 ずるりと滑り落ちる、血塗れの剣。
「……あんたの生きた意味は、何処に残るんだ?」
「……………………」
 痛い。
 泣いたって、仕方がないことを知っていたから泣けなかったずっと。
 誰にも触れられたくなかった。世界全部嫌いだった。
 けれど、俺はずっと、その世界に求めていた。
 助けを。
「……多分きっと……あんたは生きたいんだ………ずっと、誰かにそう言いたかった」
 側で、見ていたかった。
 妹の幸せ。
 それが自分の願いだと。
 自分の、想いだとどうしてずっと気付かなかったんだろう……。
 まだ、怒りも願いも世界にあったことを、知らなかったんだろう。全部、自分だったのに。
 どうして、この人は微笑んで居るんだろう。
 ずっと、言いたかったんだ。
 ずっと苦しかったんだ…。
「答えは出た? どうして怖かったのか」
 止まらない涙。
 薄く、淡い空の光。
 怖かったんだ、ただ。
「見透かされたことが…怖かったんだ」
 自分すら、知らずに捨てていた、自分の願い。
「じゃあ、もう怖くないな」
 何処か、暖かい部屋の空気。
「問題を出しておくよ。もう一つね」
 今、ただ妹に会いたい。
「願いは何時だって一つしか叶わない、何故だか分かるか?」
「…………いえ」
「じゃあ、考えて来い。今度会ったら、教えにおいで。
 赤丸付けてあげるから」
 不思議なほど、もう辛くない。
 痛みは、もうない。
「……はい」



「……何、そのクマ」
 開口一番、ネヴィルがそう言ったので、ギルバートは思わず息を思い切り吐いた。
 何だか、疲れた。
「誰のせいですか」
「八割方僕かな」
「分かってらっしゃるなら…その手」
 ああ、と何でもないように呟いて手の平を舐める。
 その手をギルバートが引ったくって白い布を当てた。
「…藤も同罪だろ?」
「…そうですが、とにかく」
「ねえ、彼牢に戻ったんだろう?」
「……ええ」
 白い布に染みこむ血を、面白そうに見てネヴィルが言う。
 引かれたカーテンから染みこむ、朝焼けの色。
「ねえギルバート。僕しばらく逃げるの控えるからさ、お願い聴いてくれないかな、一個」
 その言葉に意外さに、二の句がすぐに接げなくてギルバートはネヴィルを凝視する。
 その彼ににっこりと笑って。
「いいじゃない。僕は此処から動けないんだから」
 他人事みたいに言う。
 空は明るい。

 夜が、終わっていく。





 ACT:4  < < 宿題の答え > >

 牢獄に戻ってから僅か三日後。
 何故か釈放された。
 妹は何とかするからと、言ってくれたビショップ、様の御陰でそんな悲壮感はなかった。
 背中に刺さる視線に押されるように王宮の広い広間に出る。
 侵入した夜はそんな余裕はなくて把握していなかったがこうして見るとかなり広い。
 なんだか足下の絨毯を踏んで良いのかつい考えてしまう。
 その時だ。
「お兄ちゃん!」
「……、」
 一瞬、本気で耳を疑ったのだ。その時。
「お兄ちゃん!」
「……タータ?」
 掠れたと分かる、自分の声。
 視界の向こうに、駆け寄ってくる危なげな足取り。
 揺れていった髪。少女。
「……ミスタータ!」
 駆け寄ってくる姿を待てずに、自分から腕の中に抱き締めた。
「ミス…よかっ……た」
「お兄ちゃん…!」
 ふと顔を上げた先に、少し機嫌も悪そうにあの藤というソーサレスが立っていた。
「やあ今日は、その様子だと分かってるようだね」
「……ああ…、いや……………有り難うございます」
 彼女が走れる事が、何よりの証。
「治したのはネヴィル。あとまだ完全じゃないからね。まだ治療は続きがあるから持って帰らないでよ」
「はい」
「それと」
 何がそんなに機嫌が悪いのだか分からないくらい機嫌の悪そうなソーサレスの人差し指が、ぴっと六花を指さした。
「君が釈放されたのは異例だっての忘れないでね。君が人一人殺してなかった御陰もあるけどギルバートは怒ってたんだから。それから君はまだ罪人。罰はあるんだからね」
「…はい」
 そんなことを言い渡されても喜びが去って行かなくて笑った六花に、ミスタータが不安げに視線を向ける。
 藤が酷く呆れたように息を吐いた。
「?」
「何でもない」
「…じゃあ、俺の罰とは……?」
 その言葉に、今度こそ藤は明後日の方向を向いて言った。
「もうすぐエリヌース祭があるから君はそれの警備と手伝い。無償で」
「…………………………はい?」
「だからエリヌース祭で人手不足だから手伝えって言ってるのさそれが罰だよ悪い?」
 思いっきり早口で言われたが理解は出来た。
 しばらく、唖然としてしまう。
 腕の中で妹が嬉しそうに笑う気配がした。吊られて笑う。
「はい…!」
 礼をして歩いていこうとする六花の背中に声をかける。
「言っておくけどこき使うからね」
「はい!」
「……全く、人の気も知らずに……」
 あんたを逃がしたせいで俺は今回の魔法班の責任者押しつけられたんだぞあれ死ぬほど面倒なんだ遊べないし。
「…逃がしたのは、俺だけどね」
 呟いて、ふと笑う。
「まあ、ギルバートで遊べただけ良いとするか♪」
 そうして歩き出す。
 日溜まりの間。




 それから何日が経過したか。
 空にはようやく、薄い灰色の月が浮かぶようになった頃だ。
 ミスタータの回復もほぼ健康に近く、少しの記憶障害が残ったもののほとんど問題もなく過ごせるようになった。
 祭りがあと僅かという所まで近づいている。空は高く遠い。吸い込まれそうな深海の空。
 涼しく晴れた。そんな日の午後。
 此処最近の日常のように、街の警備に当てられていた六花はふと空を見上げながら、本の少し昔のことを酷く懐かしく思い出していた。
 今は随分、心穏やかで静かだ。
「空が高いな」
 そう、呟いていたその日の頃。
 まだ随分、何もかも薄皮の向こうの世界だった時だ。
 そんな風に空を見上げたこともあった。
 前のエリヌース祭の時だ。あれは。



「よう、六花」
 あの日も、空が遠かった。
 黒い、黒いグローラの花弁が夜の空に舞う様が、ただ綺麗だった。
 まだ、話しかけてきた傭兵仲間に何の感慨も抱いていなかった。
「……………」
「…あ、おい無視するなよ」
 ただ面倒でうざかった。人との付き合いも、言葉さえも。
 本当はミスタータさえいればよかっただけの、あの頃の自分。
「……何だよ」
「何って、暇だろ? 灯火式見に行こうぜ」
「………いい」
「いいって。勿体ない」
 何が勿体ないんだろうと思った。
 エリヌース祭は三年に一度行われるアスリースの伝統とも言える祭りだ。
 三日間、黒の月の夜から始まるこの祭りは代々のビショップが街中に飾られた花細工の洋燈に火を灯す灯火式によって幕を開ける。
 ビショップが軸となるのが習わしであるこの祭りが、何故黒の月に行われるのかはこの祭りの元となったかつてのアスリースの王女エリヌースと関わりがあるらしい。
 が、そんなに詳しいことも知らなかったし、知ろうとは思わなかった。
「いかない。一人で行けよエーリック」
 噴水の石に腰を下ろして、ただ星の満天の空と舞い散る花を見遣る。
「そうか」
「……で、なんで隣に座るんだ」
「暇だから」
「なら行って来いよ」
「いや?」
「……………」
 やはりよく分からない。
 傭兵時代時々顔を突き合わせはした。大したこともしていないのにこいつから近寄ってくるのが常だった。
「なあそういえば、先代のビショップ様って見たこと有るか? 此処の」
 しばらく、どちらも喋らぬままに時が過ぎていった頃、ふとエーリックが言った。
「………………一応」
「どんな?」
「……………詳しくは、かなり昔だし」
 というか仮にもビショップ様掴まえてどんなはないだろうと思ったが余計な口を利く気がなかった。
「俺はエルフだったって聴いたぜ」
「……ああ、黒い髪の」
 見た目十代ほどにしか見えなかった青年。だったと思う。
 何せ十二年ほど前の話だ。交代があったのは。
 まだ子供だった自分の記憶は、酷く危うい。
「………何、笑ってるんだ?」
 ふと、見えた彼の顔が笑っていた。
「いや? さて、ビショップ様でも見てくるか」
「……見て来るかって……」
 どうしてもこのノリには付いていけないとは心底思っていたが。
 三つ年上の彼は何処か、時々違和感を抱いてしまう。そう、時々何気ない仕草。そんな簡単なことで。
 見下ろす自分にいつもの人懐っこい笑みで笑う。
「お前も遊んできたらどうだ? つまんなそうな顔してないでなあ六花」
 それだけ、言うだけ言ってとっとと行ってしまった。
 その後の日に、聴いたのだ。
「ああ六花。これ怪しげな店で売ってたんだけどなー居るか?」



 ふ、と笑う。
 今何処にいるのか。
 あの時と同じ、黒い花弁が舞う。
「六花さん?」
「…あ、はい」
 ふと気が付くと、見知らぬ兵士の顔が前にあった。




『ネヴィル様が御用だってさ』
 王宮に戻ると、開口一番に藤にそう告げられた。
 あれ以降全く会っていなかったから礼も言えずにいたので会えることには安堵した。
「そういえば、宿題答えてなかったな…」
 ふと、その扉の前で思い出したように呟いた。
「六花です。ビショップ様」
 しばらくして、中から返答があった。
 軽く押せば開く扉。コレも魔術なのだという。
 使えない六花にとっては、酷く希薄で遠い物だ。
「やあ、久しぶり」
 室内は相変わらず広い。
 窓辺近くの、椅子に深く座って黒い神官の装いを邪魔そうにくつろげていた。
 思わず顔が勝手に綻ぶのを感じる。ひどく落ち着いた。
「……お久しぶりです」
「なんか異様に丁寧になって詰まらないな、まあいいか」
 あの夜のように手招きをされる。
 僅かに緊張して近寄ると、あの時は気付かなかった十字架の飾りが目に触れた。
「…あの、手は…平気でしたか?」
「手? あ、ああ。平気だよ。それにそもそも煽ったのは僕だし握ったのも僕なんだから」
 気に病まなくてもいいのにと、素っ気なく言う。
 けれど握っていた自分がよく分かる。あれは。
「………………………妹の事、有り難うございました」
「ん? ああ」
 本当に、何度礼を告げても足りない。
 何か、一生分の想いを救われてしまった。
 多分一生かかっても返せないくらい。
 不快ではない感触。
 暖かい。
 日溜まりの中の。
「……そういえば、出来た?」
「え? …あ、っはい?」
 急に話しかけられて少なからず慌てる。少し呆れたように見返される。
「宿題」
「あ………はい」
 願いは何時だって一つしか。
 あの時、考えて、気付いたこと。
「本当の願いは、何時だって一つしかないから」
 どうしようもなく、叶えたい、強い願いは一つしかなかった。
 何時だって。
 小さな願いは、いずれ叶ってしまうものだから。
 正解だという自信は、多分あった。
 貴方が、そう笑ったからだろうか。
「はい正解――――――」
 吊られたように笑いながら、多分互いに知って居るんだろうなと考えた。
 本当の正解かどうか。
 それはあくまで、俺と貴方の「答え」
 真実も心理も、人と時と、想いで容易く変わること。
 正しいことは、世界中全てに伝わるほど大きな物じゃない…。
 きっと。
 真理も、正解もそれは、きっと誰か一人の―――――モノ。
 きっと。



 俺にとっては、貴方が真実。
 貴方が――。

 それが例え、間違いでも。





 ACT:5  < < 巡り会う日に > >

「……辛い、ですか?」
「多分」
 風が強い日だった。
 木の葉が散って、空を埋めた。
 寒い、日だった。
 空が、蒼くて、遠かった。
「……まあ、平気じゃない? あいつあれでお前より年上だし」
「そうなんですか…?」
 バルコニーに出て、そんな事を話した。
 世界全てが静かに、なっているような錯覚がした。
「お前一九歳だろ? 藤は二十一」
「……そんなに上だったんですか」
 髪を凪ぐ、風の金切り声。
「そりゃあ」
 巻き上がっていく、風の渦。
「………………」
 藤が、追放されたのは、一昨日のことだった。
「……理由は」
「知らない」
「……そうですか」
 言葉が、見つからない。
 慰めにもならない。
 風の音だけがうるさい。
「…なあお前は」
「はい?」
「……何か、やりたいこと見つけたのか?」
「……はい」
 一番は、妹と貴方の側にいることではあるけど。
「……………世界を見て来たいです」
「雇い主探しか?」
 その笑みに、自分も笑う。
「…そうですね」


「それ」
 去り際に、テーブルの上にある剣を指で示された。
「…これは?」
「剣。前のはギルバートが壊したらしいからな。やるよ」
「…え?」
 茫然として振り返る俺に、窓辺からもう一度だけ笑う様が見て取れた。
「餞別」
 手に馴染む、鉄の刃。柄の重み。
「…………はい。有り難うございます――――――――――――――――――――――」
 それきり、会うことはなかったけれど。
 何時か話したことがある、家族の話。
 父も母も、与えられなかった愛情も、金のために売られたことも。
 妹に出会ったことも。
 何一つ、貴方のことは知らないままだけれど。





「いつか―――――――――――」
 会えるだけでいい。
 生きて。

 何時か何処かで。

 願わくばその時に、貴方が幸福であるように



 祈っています―ずっと―――――――――――………