サルトス家番外:【墜ちてゆくのはぼくらか空か】





 それはまだ、サルトス家三男ヌエルが存命だった頃。



「カノン兄さま! アティが初めて“パパ”って呼んでくれたー!」
 三男、ヌエル=サルトスのサイレンかピンポンダッシュに等しい嬉々とした報告は、カノン=サルトス邸ではその頃よく見受けられるものだった。
 年子の兄、次男カノンにとっては迷惑以外の何物でもない。
「良かったな親馬鹿。わかったら早く帰れ親馬鹿」
 整った顔に無表情を張り付かせて、自室に押し掛けた弟に言う台詞は大抵がこうだ。
「あ! 酷い兄さま、兄さまだってなんかこう」
「お前の細君が身ごもった時、アティが生まれた時、名前を決める時」
「……へ? なに数えてるの?」
「お前がそうやって喧しくなんの報告もなく押し掛けて来た時の理由」
「…………仕事や研究の事もあったでしょ?」
「その時は前もって“来る”と報告をしていただろうに。ああ、まだあった。その細君との結婚が決まった時、どうプロポーズをしようかと悩み抜いて三日貫徹した時、」
「わーストップ兄さま! ごめんなさいもうしません!」
「それでお前の病気が治った試しがあったか。ヌエル。
 第一なんでいつも私の所に来る」
「……いや、だってなんだかんだ言いながらカノン兄さまは話聞いてくれるから」
「お前の馬鹿に突っ込むのが面倒になってきただけだ。たまにはキアラ兄様の所にでも行け。お前が私ばかり構うからと拗ねていらしたらどうする」
 ふと、自然な流れでカノンが口にした、この場にいないサルトス家長男の名前にヌエルはなんと言ったらいいかわからない顔になる。
「…どうした?」
「……うーん。カノン兄さまは平気なんだろうけど。僕はキアラ兄さま苦手だし。
 …それに」
「それに?」
 兄の名の一言で空気が重くなった事にカノンは気づいていない。
「…それに、拗ねたりしないでしょ? キアラ兄さまは」
「確かにそういう方ではないがな」
 そんなコメントをするカノンに、内心でヌエルは“違うよ”と零した。
 “キアラ兄さまは、カノン兄さまにしか関心がないから”、と。
「誰がそういう方ではないんだ?」
 急に割り込んだ男の声に、驚いたのはヌエルだけではなかった。
 その家の主であるカノンすら、驚いた表情でたった今開かれた部屋の扉の向こうに立っている人物を見つめている。
 ヌエルや、カノンとは違う、蒼の髪の。
「…キアラ兄様」
「…………」
「息災のようだなカノン。急に押し掛けてすまない」
 そう言って軽く微笑んだ、兄の言葉はヌエルを通り越していた。




 キアラ=サルトス。

 サルトス家の長男であり、25歳の年でサルトス家の家長になった男。
 下の弟、カノンとは六つ年が離れていて。
 精霊の知識、魔法の才能共にサルトス家、本家であるランディ家に認められ家長になった人物だ。
 1000年のアスリースでも政界への影響力は強く、知識に衰えを見せない。
 だがそれは、所詮他の人材と比べればの話。
 弟、カノン=サルトス以外の人間と天秤にかければの、話。


 思えば、不思議な兄弟だ。
 サルトス家の家長として長く政界に存在する長兄キアラ。
 上の兄二人程の才覚はなけれど、火災により命奪われるまで王政に関わりを残し、後にマギ=アーサーのブレイカーとなる娘を持つヌエル。
 そして、ロードソーサレス以後、政界への関わりを一切閉ざしながら、なお強い影響力と権力を維持するカノン。
 言ってしまえば、キアラが家長の命を頂いたのはひとえに弟カノンがその任命を頑なに拒んだからだ。
 カノン=サルトスの力は、下手をすれば本家の人材を脅かすほどに凄まじかったからだ。





 960年。

 キアラ=サルトス14歳。
 その年でソーサレスとしての力、知識共に申し分ないと本家にも太鼓判を押され、行く手を阻む者は存在しないと思われた。
 賢く聡く、計算高かった。
 その頃はまだ、二人の弟に対し贔屓目もなければ、目立った嫌悪も嫉妬もなく、それなりに可愛がっていた。
「キアラ兄様」
「ん? どうしたカノン」
「えと、本で、わからない文字があって」
 この頃は素直に可愛い弟と、カノンの事を思えた。
「どれ、見せてご覧」
「あ、キアラ兄さま! カノン兄さま!」
「ヌエル、どうしたんだそんな急いで」
「え、と…?」
「ヌエル? …走った所為で用件を忘れたのかい?」
 その年で呆けられては困るよ、と。
 この頃は、ヌエルの事も可愛いと、素直な子だと思えて。
「忘れてないです! …えー………ローソ?」
「……ローソ? って何? ヌエル」
「…何かの名前ですか兄様?」
「いや、俺も聞き覚えないな。お父上が発見された新種かね?」
「えー精霊ではなくって……あ、そう! ロードソーサレスさま!」
『ロードソーサレスが“ローソ”?』
 と、ついキアラとカノンは同時に口にしてから。
 ヌエルが用件を言う前に二人して呼吸困難になるくらいには笑った。
「…にーさま…どっかの店の名前みたい……!」
「言うなカノン…!」
「そんな必死に笑わなくったって兄さま達……」
 その頃は、仲が良かった。
 可愛い弟だった。
 頼れる兄だった。そのはずだった。
 その、雨の日までは。

「…あの」
「……な、なに? ヌエル?」
「なんだ?」
「まだお顔が笑ってます兄さま…」
「いやいや遠慮なく用向きを言ってくれ。なにお前のあだ名が明日から“ローソ”になるだけだなぁカノン」
「(無言で頷き)」
「それは嫌ですー!(ぎゃー!)」

「……クレハ=サルトス殿、これはなんの地獄絵図か?(随分ちっちゃな地獄絵図もあったもんだな←小声)」
「…仲良き事はいいことです。……お気になさらずにどうか」
「……先程から連呼されている“ローソ”とかいうのがとても気になる所ですが私は。
 どう思います? ユカリ様?」
「そーゆーってる夜居(よるい)はどう思ってんだよ…」
「子供によくある間違い、ですか?」
「なんの単語の?」
 当時の家長であり、キアラ達の父クレハの横に立つ二人の男が淡々と意見を述べている。
 そうして見ればキアラは父似だ。クレハ=サルトスも蒼の髪を持っている。
 弟二人が赤い髪であるのは母がフォルツァート家の人間だからだ。
 特にカノンは母似だ。
 時にどう見てもサルトス家の人間でなければランディ家の人間でもないこの二人。
 ユカリと呼ばれた男は20歳くらいで焦げたような髪の色とは裏腹な水色の瞳で。
 夜居という名の少年といっていい男は名が体を表すかのように黒い髪黒い瞳で。
 未だ家長と自分達に気づかぬ兄弟のやりとりを見ている。
「……それはあれです。
 “ロードソーサレス”」
「…夜居君? 喧嘩売ってる?」
「いえ滅相もない」
『あ、お父さ…』
「あ、気づいた」
『まぁ…!?』
「そしてハモるか…」
「二人だけですが。カノン殿は我々の姿はご存じないらしい」
 確かに、父以外の二人を見て驚いた声を上げたのはキアラとヌエルで、カノンはきょとんとしている。
「…あ、ああ申し訳ない。カノンはあまり家から出さないもので俗世に疎く…」
「それはそれだけ将来有望という事でしょう。ロスト猊下もいい人材を嗅ぎつけたもので」
「猊下になに犬みたいな表現かましてんだお前は…」

「に、兄さま! あのお二方です! ロー」
『“ローソ”?』
「ああっ! 聞かれてた!」
「それはあれだけ騒がれては。初めまして。
 キアラ殿、カノン殿、ヌエル殿。
 アスリース宮廷騎士団、団長を務めている土屋 夜居と申します」
「国王アイラ陛下直属ロードソーサレス、ユカリ=レントセッカ。
 初めましてチビ助共」
「ユカリ様? お戯れが過ぎるのでは…? 仮にもサルトス家のご令息達に対して」
「うるさい夜居」
 雨が、気が付けば降っていた。
 父は、何故かカノンだけは外に出さずにいた。
 それが、全てはカノンの秀でた力を見抜いての英才教育の為だったと。
 キアラが知ったのはこの日。
 特出した者は若いほど他に疎まれる。それを知っていたからこそ父は本家以外の人間にカノンを会わせぬようにしていたのだと。
「お初お目に掛かりますユカリ様、夜居様!」
「こうして面と向かってお会いするのは初めてですねキアラ殿。
 聞きましたよ? 既に技術ではサルトス家で右に出る者がいない程優秀だと」
「…あ、そんな私はまだ若輩者で…。
 あの、ロードソーサレス様方が何か私達に…?」
「はい、実はビショップであるロスト猊下が“一度会っておきなさい”とあまりにも誉めるものですから」
「見てみたくなって、クレハ殿への用ついでに顔見に来たんだ」
「…ユカリ様、お言葉が」
「いえ、ユカリ様は何時でも自然体でいらっしゃるのはご自身のお力の現れだ、と皆様が誉めていらっしゃいました」
「おー、いい事言うじゃないか。お前“も”将来有望かな?」
「ユカリ様?」
「……わ、わかったから首根っこ掴むなよ夜居…。遠慮ないね。ロードソーサレスに対して」
「貴方は先程キアラ殿が言われたように自由奔放すぎるので誰かが首輪をつけておかないといけないんですよ」
「うわお前それ誰の入れ知恵?」
「無属のセーズイラ様ですが?」
「……帰ったら覚えとけ」
 その会話で、特に強調されたわけでもない“お前も”という言葉が引っかかった。
 それまで、二人が話しているのは自分の事だとキアラは思っていた。
 子供故の自尊心ではない。周囲に認められるだけの確立した実力の後押しだった。
「なんでも、まだ幼いのに魔力の質がとても洗練されているとか」
「八歳だっけ?」
 ユカリがまだ小さなカノンの目線にあわせるようにしゃがんで言う。
「“未来のロードソーサレス”、“魔力の質で右に出るものなし”。
 って、ランディの家長まで鼻高々に言ってたぜ。
 カノン=サルトス」
 まだ十にも満たない子供だった弟。
 けれど猊下や本家の目に止まったのはその八歳の弟だったのだ。
 そしてそれから一年も経たない内にキアラは思い知る。
 六つも離れた弟のカノンの魔力に、対して自分の力は振りかざすにはあまりにちっぽけだったのだ、と。



 二年後。962年。
 キアラ16歳、カノン10歳。
 ようやく十の年を越えたカノンを、キアラはとても可愛がっていた。
 以前とは、違う感情で。
 カノンは強く、賢かった。
 一教えれば百を覚える。理解力と応用力に長け、それはソーサレスとしても学者としても十二分に通用し、いや。
 その年の他家の子供と比べても並ぶ者はいない位にその成長はめざましかった。
 その才能に嫉妬する一方で、キアラは弟が何処まで強くなるのか賢くなるのかが楽しみで仕方なかった。
 気づけばもう一人の弟、ヌエルの事など放ってカノンにあらゆる知識を教え構い、何時しか兄と言うよりも父のような思いになって。
 吸収の速いカノンに馴染んでいたから、ヌエルの相手は物足りなかったのかも知れない。
 ヌエルとて、頭が悪いわけではない。むしろ良かった。
 ただ、三人の兄弟の中、カノンが賢すぎたのだ。
 自然、キアラや父はカノンを構う事が多くなったし、ヌエルも自然とキアラには距離をおくようになった。
 ただ、それでもヌエルはそのカノンにはよく懐いていたのだ。
 憧れに、近かった。
「キアラ兄様。六界式はこれでいいんですか?」
「もう憶えたのかい? 早いね。…いい子だカノン」
 それが口癖になる。

“いい子だ、カノン”

 誇りだった。
 キアラの執着は最早弟の域を越えていた。

 憧れた。
 ヌエルの憧れは尊敬を越える程。

「カノン兄さま」
「ヌエル」
「…魔法教えてください。僕も立派なソーサレスになりたいです」
「いいよ。おいで、ヌエル」

 仲が良かった。
 いつか志す道は違ったけれど。


 側に、いた。





 963年。
「………お父様。……今、なんて」
「聞こえなかったか」
「だって…父上。カノンはまだ11歳です」
「だが上からのご推挙だ。つつしんで受けねばなるまい。
 それに、本家であるランディ家の家長も文句はないと仰っている」
「…お父様。私」
「大丈夫だカノン。お前ならばやっていける」
 キアラは盗み見るようにカノンの顔を伺った。
 緊張はあったが、それに勝る期待の顔。
 安堵した。
「最年少のロードソーサレスの誕生だ。
 国に仕えよ。カノン=サルトス」



 その年、僅か11歳のロードソーサレスが誕生した。





「カノン」
 ロードソーサレスになって半年。
 前任だったユカリはよく声を掛けてくる。
 やっかみとかではなく、単に訓練の合間だ。
 ユカリはマギ=アーサーとしての道を選び、それ故自分からロードソーサレスの座を蹴った。
 あの夜来ていた夜居には馬鹿と言われた。
「ひどいよな。俺は自分に正直なだけなのに」
「それが夜居様のお心に触るのでは…」
「うあひどいカノンまで……。こーのお子様!」
「その子供を後継にしたの誰ですか!」
 ぎゃあぎゃあとじゃれていると、王宮の向こうから人影がやってくるのが見えた。
「…あ、…キアラ兄様! ヌエル」
 とんと、地面を蹴ってカノンはそちらへ駆けていく。
「…無理ないか」
 たった11歳のロードソーサレス。
 聞こえはいいが、その分親兄弟から引き離されたということだ。
 恋しくないわけがない。


「キアラ兄様。今日はどうして?」
「お前の顔を見に来た。よかった。いい顔をしている」
「………兄様」
 その頃、カノンの世界はキアラが全てといってよかった。
 優秀な、優しい兄。
 そして可愛い弟。
 けれど世界は広がっていく。
 ゆったりと。
 早く。
 国王直属ロードソーサレスとしての定めだった。





 966年。

 女王アイラ、崩御。
 国王としてたったのはその息子カラベラク。
 カノンは彼に仕えることになった。
 14歳。
「お前は母上を存じているな」
「はい。お仕えさせて頂きました」
「そうか。俺はまだ勝手がわからん」
 言って笑った顔。
「よく教えてくれ。頼りにしているぞ俺のロードソーサレス」
「…はい…!」
 その時の笑顔は、まだ無邪気な子供のものだったと。
 後になって、カノンは思うのだ。

「貴方は…カノン、でしたね」
「ロスト猊下」
 廊下で出会った。
 エルフのビショップ。
 穏やかな笑みでこちらを見た。
「新たな陛下の元ではどうですか?」
「え……あ、これは失礼かもしれませんが」
「はい」
「………充実しています」
「それはよかった」
 幸福な日々だった。
 力を試し、認められて。




 罅(ひび)が入った。気がした。





「そうしてくれ。カノン」
「しかし陛下。これは」
「私の言葉が聞けぬか?」
「……いえ」
 いつしか、この方は変わった。
 もっと離れていたなら、気付いたかもしれない。
 けれど近くにいすぎて。
 わからなかった。
「カノン」
 呼ぶ声は絶対。
「王は私だ。駒であれ。逆らうな。私の期待を」
「…」
 真っ直ぐに。
 どこか泣きそうに。
 見つめる、血の滲んだ瞳。
「お前だけは、裏切ってくれるな」
 何処か、切実な願いのような声。
「はい…」
 頷く以外出来ただろうか。
「…………はい。はい、カラベラク陛下」
 この、本当は寂しい王に、主君に、
 裏切るなど出来るものか。
 忠誠を誓っていた。
「……誓います」
 この王に仕えることが自分の世界。全て。
 守ろう。全てをかけて。貴方が私の王。
 貴方だけが私の王。
 命をかけて守ろう。
 いつしか。
 貴方のため、死のう。


「陛下にはご壮健か」
「ザイン殿下。……はい、」
「妃殿とはうまくいっておらぬのだな」
「…」
 少し驚いた。
「驚くか。まあそういったことを私はあまり言わぬからな」
「…失礼を」
「いや、いい…。カノンと言ったか」
「はい」
「……側にいることだけが幸福かどうか、わからぬものだ」
「………………」

 いつの間にか、王となっていったあの方。

「……はい」





 969年。
 25歳の若きでサルトス家の家長となったキアラは、よく王宮にも足を運んだ。
 弟の悲劇が近いことを知っていたのかどうか。
 たまの日に、兄弟揃ってサルトス家の館にいたことがあった。

「まあ、目に見えるものだけが全てではないし、よくあることだよ」
「なにがですか?」
「昔、お前がよく聴いていたことだ」
 さわやかな鈴の音が聞こえる。
「お前はどうだいキシュマ」
「偉そうな口を叩くなキアラ」
「ほう、少し思いやってやればその言いぐさか」
「どこが思いやっていた」
「あの辺りがだ。まだまだ矮小だな」
「…キアラ」
「……キシュマ。キアラ兄様。その辺で」
「いいやカノン。私はどうもこいつが嫌いでね」
「キアラ。そういうのは苦手というんじゃないかい?」
「違うね」
「そうかい」
 今更だが、キシュマとキアラは仲が悪い。
 だから、カノンがロードソーサレスになった時など戸惑う反面キシュマの鼻をあかしてやれて気分がよかったのだろう。
「ん? なにか。文句でも?」
「いい度胸だキアラ。カノン、そこを退きなさい」
「……ええ…? …ヌエル。どうしようか」
「…ほっといていいと思う兄さま」
「んん。いい度胸だ」
「……ほら」
「キアラ、お前は一回負かした方がいいな」
「………………(見て見ぬ振り)」


「ああ、そういえばカノン。お前、恋人が出来たって?」
「キアラ兄様! どこから…」
「この兄の情報網を侮るな。どこのいいお嬢さんだい?」
「それは……」
「それは?」
「……な、内緒です」
「なんだと!」

 楽しかった。
 愛する兄弟。愛する女性。
 守り抜きたかった。
 ミュカレを。家族を。
 憎き相手だろうに。アスリースは。
 なのにそのロードソーサレスである自分をミュカレは愛してくれた。
 ミラーフェルトの生き残りだったのに。
 自分を愛せば生き延びた命も危ういかもしれないのに。
 だから。

 愛していた。

 守ろうと。




 ある日。
 内緒で離れの館に彼女を呼んだ。
「少しだけ、絵が描けるんだ。うまいって兄様に言われたよ」
「そう…ふふ」
「なんだ? ミュカレ」
「カノンはその兄様が大好きなのね」
「………ああ。……ああ、動かないで、」
「ええ」
 日溜まりの中。
 幸福な日々。
 それが、たった一つの彼女の姿になるなんて。
 思いもしなかった。
 それならよかった。

 どこかで判っていた。
 自分は。

 幸福は。


 いつか、あっけなく崩れると。

 そういう幸福なんだと。
 紙のように。吹けば飛ぶ。燃やせば尽きる。
 そんな。



「……いつか、君を妻に出来たらいいのに」
「……無理ね」
「はっきり言わないで欲しい。……無理だけど」
「わかってるじゃない。カノン」
「………陛下の治世に、君達ミラーフェルトはいらないんだ」
「そうね」
「この幸せが束の間とわかっている。この絵に閉じこめるような。
 不器用に。そんなことしか出来ない」
「…カノンは、馬鹿ね」
「そうだね……。馬鹿だ。いつか君達を殺す日が来るよ。
 せめて…私がロードソーサレスを退いた時まで延びてくれればいいけどね」
「……」
「でも、結ばれることは出来ないな。……そんな風には、なれないな。
 …………不毛かな」
「……でも」
「……」
「今は、幸せよ。…愛しいカノン」
「………………」
 泣きたくなる。
 一瞬一瞬が大切。
 何時来るかわかっているような幸福の悲劇。
 泣きそうに笑うよ。
「………私もだよ」

「君が、絵の裏に文字を書いてくれないかな」
「え? なんて?」
「……遺言?」
「ぷ…」
 君は笑う。
 滅びの話をしているのに。
 此処は日溜まりの中。
「悪い冗談ね。いいわ」
 貴方への言葉よ。
 そう言ってミュカレが書いた文字。


“愛する人。願わくば永久に傍らに”



 箱庭の幸福。
 いつ崩れるか、きっと知ってる。
 箱庭。

 滅びを待つ、幸福の庭。

 君と笑う。君が笑う。


 消えると知っていて笑う私達は、愚かで幸福。



 瞳があって、やっぱり笑った。







 973年。
 ついに、その日が来る。
 嬉しい、言葉を聞いたばかりなのに。嫌だな。
「第二期ミラーフェルト狩りを行う。お前が指揮をしてくれ。
 カノン」
 陛下。
 知っていたんでしょう?
 笑みが零れそう。
 知っていたから。
 滅ぶことくらい。
 なんて。悪いタイミング。
 子が産まれると、聴いたのにね。
「……嫌か?」
「………私に、発言権はおありでしょうか」
「あるなら聴こう」
「……」
 残酷な陛下。
 はっきり無いと言ってくれればよかった。
 のに。
 わかっていたのに、安い希望をちらつかされただけでほら。
 揺らぐ。
「………」
「カノン」
「…………カ」
「それとも、サルトス家と共に、滅ぶか?」
「………陛下」
「選べ。選ばせてやろう。…その時は、苦しまず、殺してやろう」
「……………それは」
 王よ。
「それは…精一杯の譲歩ですか?」
 微笑みは崩れ、泣きそうになる。
「…“さあな”」
「………………時間を」
 ください。
「陛下………貴方は、」
 残酷で。
「優しい方です……」

 私の王。




「猊下には、愛する人はいますか?」
 そう、ロスト猊下に聴いたのは。
 本心だった。
 いるに決まっていると知っているから。
 その相手は陛下だろう。
 命が保証されている相手だ。
(貴方は幸福です)
 嫌味の、
 棘のように。
 言った。

“ミュカレ。審判の時が来たよ。
 もう時間がない。
 どうするべきか”

 手紙を書こうとして止めた。
 お互い、わかっていたことじゃないか。

 どうしたらいい?

 覚悟はしていた。
 気持ちを残さないよう、精一杯、一瞬一瞬を愛してきた。
 なのに。


「…………駄目だ。……愛してるんだ」
 今更、愛は棘のよう。
 捨てることなんか出来ない。
 雨が降っていた。
「………君は何処にいるんだ…ミュカレ」
 逃げられるものなら、君の手を取って走るのに。
 足枷が重くて、何も見えないよ。
 扉を叩く音に、しばらく窓の外の雨を見つめてぼーっとしていたと気付く。
「……はい……?」
「入るぞ」
「……キアラ兄様」
「………青い顔だな」
「…………」
 泣きたくなった。
 大好きな、尊敬する兄。
「……キアラ兄様……私は」
「………あの女の事か」
「……………」
「………迷うな。カノン」
「…、」
「お前は我がサルトス家の柱。……そのお前が女一人で揺らぐな」
「…………っ」
 知らないから。
「……兄様は」
 知らないから。
 本当に、誰かを愛していないから。
 知らないんだ。
「………間違っているか?」
「……………」
 首を横に振った。
 正しい。
 サルトス家の者として、それは、兄は正しい。
「…………………今だけ、兄様を嫌っていいですか」
「……いい。あとで、また好きになれ」
「…………………キアラ兄様」
 どうして、あの日一目会って、君を諦められなかったんだろう。
 一度。
 それで終わっていれば。
 よかったのに。
 どうして?



 怖いよ。ミュカレ。





 怖いよ。





 雨が止まないんだ。
 髪が、服が濡れていく。
 君は何処にいる?
 日溜まりの中。会った日が懐かしい。
(……年寄りみたいだ)
 昔を懐かしむような愛し方はしないと決めていたのに。
「カノン兄さま…!?」
「……ヌエル」
「………どうしたんですか? そんなに濡れて…ああ冷たくなって」
「……いいんだ」
「よくないです!」
 一心に、自分を慕う弟。
「………ヌエル」
「早く屋根の下に……え?」
「私は、親不孝者か?」
「…そんな、カノン兄さまのどこが?」
「………私は、……天秤にかけているんだ。
 愛する人と、お前達を」
「………」
 雨が、もう冷たくは思わない雨が、止まない。
 何も、見えなくなるよ。
「……陛下に言われた。ミュカレを選べばサルトス家は滅ぶと…私は」
 真っ暗になる。
 何も、見えないんだ。
 …ミュカレ。


 陛下。

“お前は、私を裏切ってくれるな”





「兄さま」
「………」
「現在のサルトス家の威勢はロードソーサレスであるカノン兄さまのお力によるものです」
「ヌエル………?」
 雨が、止まないんだ。
 潰されていく想い。消えていく思い。
 視界が、暗くなっていく。
「その兄さまがサルトス家の生殺与奪をいかにしようと、文句を言える者は居りますまいよ」
 ヌエルは、兄が好きだった。
 色々と判っていて、それでも兄が大好きで、心中してもいい覚悟で。
 達観したような穏やかな笑みで言う。
「好きになさって下さい。カノン兄さま」
 自由に羽ばたいていいよと。
「ぼくは、どこまでもお供します」





 それは、一番の地獄の言葉。




 ヌエル。





 闇に、染まった視界。






 雨が、止まない。
「…、決めたのね」
「ミュカレ。判っていた事だ」
「そうね。判っていて、出会ったのだわ」
「……その子は私の子か」
「ええ…。翼もなにもないの…。この子だけは守れるかしら」
「…………」
「素直ね。カノン」
 その首筋。
 手を掛ける。
 両手。締めて。
「………愛してるわ」
 ふふと笑って。
「命乞いをするところかしら…」
「……しなくていい。私を、…………」
「…なに?」
 苦しい息の中、笑う、少女のような女。
 愛しい。
「……苦しめないでくれ」
 もう、これ以上。
 苦しめるな。
 本当なら。側に。


 あの絵の、文字のように。



「……カノン」
 君が、ほら。
 笑うから。

 呟く。


「“愛する人”……」
 冷たくなっていく君を抱きながら。
「“願わくば、永久に傍らに”…………………………」
 彼女の子を抱きしめる。
 泣き声が響く。
「………泣くな」
 泣きたいのは、誰だ。





「決めたのか」
 王宮。
「……」
 手の平を開く。
 映し出される魔法の映像。記憶の映像。
 彼女の死体。
「……私が殺しました。…決めました」
 目を閉じて思う。
「私は」
 君の笑顔。

「私は貴方の駒です。貴方が私の王です。
 私は」

 誰をもう、殺そうとも。

「私だけは、貴方を裏切りません」



“お前だけは”



「ご命令を」
 微笑んで言う。

「好きに、お使い下さい。…カラベラク陛下」

 いつか、貴方のため死のう。








 それから。




「キアラ兄様」
「息災でなりよりだ。……ヌエルもいたのか」
「………」
 ほらね、とヌエルは思う。
 キアラは、貴方にしか興味がない。
「近々行われる祭りについて話したかったのだが」
「ええ」
 もう、兄を裏切らない。
 弟を。
「…どうぞ。キアラ兄様」
 弟は、愛しいから。
 兄も。


「ヌエル。帰るのか?」
「だって、キアラ兄さまのお邪魔でしょ?」
「……ヌエル」
「…なに?」
「また来い」
「え……? なに、兄さま頭打った?」
「うるさい。……お前が来ると賑やかだ」
「…………………うん」
「……ヌエル」
「うん?」
「またな」
「………うん」


 笑顔で、送り出す。
 今度会った時は、どうやって出迎えようか。
 そんな事を考えながら。
 不思議だな。ミュカレ。
 今でも、私はまだ幸せだよ。

 祭りが近づく。
 少し、弾む心。
「カノン様!」
「…なんだ?」
 悪夢に落としたような報告。




 焼け野原のような、


「………お前まで、」
 ヌエル。


「お前まで……私を置いていくのか」
 死んだとの、訃報。
「………馬鹿者」
 あの時言ったではないか。
 死ぬときは、心中したっていいと。
「…なら」
 それなら。

「せめて、私と一緒に死ねよ…………」



 もう、泣く場所もない。



 雨が、まだ止まないまま、降り出した。







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−参照−用語・キャラクター等関連ML(〜2968 時点)


 ユカリ=レントセッカ
 ―――――初出。

 カノン=サルトス
 ―――――『2859/きみのたたかいのうた(986年)−13(ネヴィル−46)』
 ―――――『2884/フォルクス・環《サークル》挿話−11-上-』
 ―――――『2894/アイム・環《サークル》挿話編ー2(後編)』
 ―――――『2948/ネヴィル−52−幕間−サルトス家の令嬢−【神さまと仲直り】』

 ロスト=グロリオ
 ―――――『2708/ネヴィル−34−幕間−【誰かの悪夢】』初出。

 カラベラク(1000年時:カラベラク=サダァイナ)
 ―――――『2343/カガリ四拾参 環《サークル》挿話編』初出。
 だと思われます。名前は出てませんが。

 クレハ=サルトス
 ―――――初出。

 ヌエル=サルトス
 ―――――『2982/フォルクス−87 −挿話 すれ違い−』初出。

 セーズイラ
 ―――――初出。

 キアラ=サルトス
 ―――――『3124/フォルクス−88−挿話−螺旋歯車加速事変-2 -下-』初出。

 ミュカレ=ミラーフェルト
 ―――――『2859/きみのたたかいのうた(986年)−13(ネヴィル−46)』初出。

 ザイン=サダァイナ=アスレイトス
 ―――――『3084/エリヌース祭(997年)/God Knights -4-0(フォルクス−閑話 ザイン―)』