Fuji【ただ一人を呼ぶ為に、僕らは犠牲を払ってる】



 ただ走っていた。
 夜の帳の中、輝かしい月の下、逃れられない罪を背負って。
(…ごめんなさい…! ごめんなさい……! ごめんなさい……………!)
 涙が零れて止まらなかった。
 溢れて、枯れてしまえばいいのに。
 全身に血を浴びた身体。
 藤色の髪が、どす黒く染まって黒く見える。
 まだ十一歳の少年は、自分の胸に押し寄せる罪悪感に押し潰されそうだった。
(………だって怖くて……!)
 こんな日が。
 石に躓いて転び、そのままその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
「………ごめんなさい…! ごめんなさい……!」
 ほとんど嗚咽に混ざって言葉にならない悲鳴は、少年の心を確かに現していた。
 こんな日が、来るなんて思ってもいなかった!
 あの幸せな日々が、ずっと続くのだと信じて疑わなかった。
 兄弟だと、そうだねと笑って過ごしあった幼馴染みの笑顔が浮かぶ。

『どうして、肩肘張るの? 人間だからって、藤は藤なのに』

「……………ヴィー」
 生きているの?
 無事でいるの?
 ルキア姉さんは? ある日森の中に捨てられていた赤ん坊の自分を拾って育ててくれた父や母は?  友人達は?
 突然の、真夜中の悪夢。
 襲ってきたのは、自分と同じ、人間―――――――――――――――。
 翼狩り。
 非情にも自分の目の前で斬り捨てられ翼をもがれていく村の有翼人達の血を浴びて、ただ恐怖に耐えきれずに、独り、逃げ出した。
 丁度その晩、藤は眠れずに一人で村の外れ近くまで来ていたのだ。
 卑怯だ。卑怯だ。卑怯だ…!
 ガールゴートの家へ、皆が無事かどうか、一緒に逃げるために戻れば良かったのに。  戻ろうとしたのに!
 ……自分は逃げてしまった。
 自分可愛さに家族を捨てたんだ!
 自分の幼馴染みであり兄弟でもあったネヴィルは、その異常とも取れる翼の大きさから格好の餌食となるだろう。



『――――――――――――藤の名前って髪が藤と同じ色だから、なんだって。  母が言ってた』
 あの何も知らなかった日、笑って話したね。
 綺麗な銀色の髪に金の瞳の君。
 大きくて美しい純白の翼。
 俺はそれが少し羨ましかったんだ。
『へーまあそんな気はしたけどー?』
『……藤は本当の“母”に会いたくなる?』
『全然』
『そ?』
『何疑うの?』
『いやっそれが本当なら申し訳ないけどいいなあと思って。  僕の母が藤の母のまんまなら本当の兄弟になるじゃん』
『…』
 ―――――――――――――それなら。
 ねえ、それならどうか神様ずっとこのままで。
 そう願わずにはいられなかった。
 ヴィー、君のそう言った言葉が嬉しくて、君の笑顔が眩しくて、人間の自分を受け入れてくれた家族が優しくて、大切すぎて。  このまま、誰も触らないで。
 このまま、ずっと時が続いていって。
 このまま、誰も壊さないで。
 ねえ神様。
 あともう少しだけでも、駄目だったのですか?
 あの幸せを、胸詰まらせる幸福を。
 続かせることは、生きることは許されなかったのですか?
(………きっと)
「…………………きっと、君は、許してくれないね」
 村の皆を、友人を、家族を、君を捨てて逃げた俺を。
 きっと君は、許してはくれないね。ねえそうでしょ? ネヴィル。
 でも、でもだけど。
 どんな非難も蔑みの言葉も受けるから、どうか。
 どうか生きていて――――――――――――――ネヴィル。
 ふざけて、半分以上本気で、君はよく高い屋根の上から俺を突き落としては地上ギリギリで受け止めて、ちゃんと途中で自分で止まらなきゃ駄目だろ! とかって言ったよね。
『――――――落ちても死なない方法ってあるかな?』
『さあ? 僕羽根あるから分かんないな。羽ばたけば飛べるもの』
『いいねえ有翼人は』
『じゃあなんで、人間に羽根がないの?』
『そういう生き物だからだよ。落ちたら死ぬの。それだけさ』
 ある日、俺がそんな事を言ったからだ。
『それだけさって…それでいいわけ藤?』
『いいだろ? どうしようもないじゃないか』
『どうしようもないってああもーくだらない』
『くだらないって何だよ』
『くだらないだろ?
 だからいいさ。僕が落ちても死なないようにしてやる』
『――――――――――――はあ?』
『じゃあ早速実戦て事でほら落ちる』
『――――――――――って待てこら此処は四階だ――――――――――――!』
 泣きながら嗤いが零れた。
 笑うなら、幸せだった頃の君のこと。
 嗤うなら、今の卑怯な自分のこと。



『……ヴィーって、魔力高いよね』
『そう? 姉さんも高いと思うけど……』
 何時も、君が肌身離さず付けていた十字架の首飾り。
 両親に何があっても絶対に手放すなと言われていた。
 一度悪戯のつもりで取ったら、酷く慌てた様子で君は必死に俺を追ってきたね。
 そのあまりの焦りように、自分は思わず謝って君に首飾りを返したんだ。
『……………藤も覚える気、無い?』
『………今のところ無し』
『……そっか』
『得意げで残念そうだね…ヴィー』
『……いいよ。お揃いじゃなくってもさ。
 いざとなったら僕が姉さん達や藤を守るからね!』
 その言葉に、微笑みに潜む暖かな。
 あんまりにも暖かな……心に気が付いて、俺は顔が赤くなった。
 何時も、そんな時、からかう君は、その時そうはせずにただ静かに笑って言ったんだ。
『……信じてよ。  大切なんだ』
 君は本当に、家族や俺を守ろうとしていてくれた。
 俺が逃げたとも知らずに、自分が逃げることも忘れて、俺を探してはいないだろうか。

「……駄目だ。………逃げて………ネヴィル………!」

『…………勝手にすれば?』
『うん。勝手にする』
 眩しかった、君の笑顔。



 生きる気力を無くして、それでもただ惰性のように、ゴミ捨て場の残飯などを食べて生き長らえて。  そんな時だ。
 黒い、漆黒の衣服を着た男が俺を探しに来たのは。
「探していたんだよ。ようやく見つけた。
 君が…、藤=ガールゴートだね」
「!」
「待ちなさい」
 あげ損なった悲鳴が喉の奥で潰れて、逃げようとした自分の腕を容易く捕まえて、その男は酷く善良的な笑みを浮かべて言った。
「君を捕まえようっていうんじゃない。安心しなさい。
 ジギルハインの森の惨劇は聞いたよ……。同じ人間として非常に残酷だと思う」
 だからせめてもの罪滅ぼしをしたいんだ。
 そう囁くような声で。
「君の大切な幼馴染みは生きているよ」
「……ヴィーが!?」
「ああ。間違いない。そのうちに本当のことだと君にもはっきりとした形で判る。
 ……私の名は遙 恭司。
 君を養子として引き取りたいんだ」
 そしてその一年半後、彼の言葉通り、ネヴィルが確かに生きていることが証明された。  彼がこのアスリースのビショップとなる、形で。




 俺は義父の元でソーサレスとしての勉強を必死にやった。
 ビショップとなったネヴィルに会う為には、ソーサレスとなって王宮にあがる事が一番の近道だったからだ。  罵られてもいい。ただ、一目会いたかった。
 その一心で。
 俺は、義父が自分を養子にした本当の理由にすら気付かなかったのだ。
 そして俺が22歳になった時、ロードソーサレス候補に、信じられない事に自分も選ばれた。
 実力重視とは聴いていたけれど、貴族とは言えない遙家の養子の自分がまさか選ばれるとは思っていなかった反面、意地でも選ばれてやるという感情からの喜びもあった。
 995年。
「…………………義父さん? 今、なんて?」
「…………今までお前を育てて来た理由と、お前が何故ネヴィル=ガールゴートの幼馴染みだと私が知っていたのかの理由だ」
「……………嘘だ」
「………信じずともよい。だがな藤。  お前はもう、私達の共犯者だ。  もう決して彼の             」


 その先の言葉は、地獄だった。
 けれど。
 それを聴かされたのは拾われて二年後の事。
 ロードソーサレス候補に選ばれた時には、後戻りは出来なくなっていた。
 いつの間にか、謝ることが増えていった。
 いっそ選ばれなければいいと思いもした。
 だが、自分は他の貴族出身の候補を押しのけて、ビショップ直属のロードソーサレスに選ばれたのだ。
 穏やかな印象をしていた金色の髪の男に、激情をぶつけられても。
 ああ、としか思えなかった。
 今はただ。


 ヴィーに会いたかった………。

「遙 藤」
 アスリース王宮の大きな広間で待つよう指示されていた自分を、背後から呼んだのは変声期も訪れていない高い少年の声。
 振り返った先に佇んでいたのは、肩より短い黒髪にネヴィルと同じ金色の瞳をした。
 10歳前後にしか見えない少年だった。
「今、君なんでこんなとこに子供が? って思ったでしょ?」
「え?」
「ほら当たった。引継を急がなくちゃいけないんだから。
 さっさとしてよ」
「え? あの、君は?」
「うっわ、すっごい迷子扱いデスカ僕?
 しっつれいだね。こんな事なら君なんか後継に選ぶんじゃなかったよ」
 思いっきり不機嫌な顔をした少年が吐き出すように言う。
「…こ、うけい?」
「あー、名乗ってなかった?
 僕はバロックヒート=スフォルツェンド。
 今の…じゃない、君の前任のビショップ直属ロードソーサレス。
 ちなみに年は28歳!」
「……………………」
「無言で驚きから逃げても駄目だよ。
 わかるんだからね君が今どんっなに失礼な事考えてるか」
「………………も、申し訳」
「形だけの謝罪ならノーサンキュー。  それよりはい。引継の前にやる事あんでしょ?」
 親指でその小柄なロードソーサレスが後ろの回廊を指さす。
「……?」
 そこで初めて彼がくすりと笑った。
 なんだか嬉しそうに。
「引継と承認の儀の前に。
 顔見せってか、…………再会しておいで。
 ネヴィルとね」
 ぽんと、言われた言葉に、息が。
 止まりそうだった。
 会いたくて会いたくて。
 でも。
 ずっと会いたかった。
 銀の髪の兄弟。
 どん、と背中をバロックヒートが叩く。
「迷ってないで行く!
 ネヴィルの部屋は東の塔の最上階の一番左端!
 魔法の鍵が掛かってるけど名乗れば開けてくれる。
 返事は?」
「………………………………………………」
 すぐに、言葉なんて出てこなかった。
 けれど。
「……はい…!」
 知らず知らず、笑みが零れていた。
 逸る心が止められない。
 走り出す自分を、バロックヒートがやれやれと言った様子で肩を竦めていたけど。
 そんな事知らない。
「彼が新しいビショップ直属か?」
「うわロイド。いきなり後ろから現れるの止めて」
「心の読めるお前が何を驚くんだ」
「で、彼がネヴィル猊下の幼馴染み?」
「イライザまで……そーだよ。
 まあそうじゃなくても才能と力はずば抜けてたから僕やネヴィルが後押ししなくっても選ばれてただろうけど」
 続々と集まってきた他のロードソーサレス二人にぞんざいに言う。
「って、バロックヒート。猊下を呼び捨てに…」
「だってもう僕ネヴィルの直属じゃなくなるし。
 それに元からこうだもんねー」
 ぺろりと舌を出した少年にしか見えない元ロードソーサレスに、他の二人は溜息ではなく苦笑を零した。



 ちゃんと無事?
 あの、綺麗な大きい白い翼はちゃんとある?
 幾つもの不安と、期待と。恐怖。
 辿り着いた扉の前。
 手が震える。
 けれど自分が声を掛ける前に、扉が開いて、中から背の高い男が出てきた。
「…貴殿が新たなネヴィル様の直属か?」
「……はい」
「そうか。
 俺はネヴィル様の護衛騎士のギルバートだ。
 正式に引継の済んだ後はよろしく頼む」
「………はい」
 それだけを言って立ち去っていく男。
 見送りはしなかった。
 広い、部屋の中の。
 たった一人の姿に、眼が縛られて、呼吸も出来なくなる程。
 切望していたその。
 銀色の髪。金色の双眸。
 大きな、白い翼。
 法衣を纏って、藤には気付いていないのか机に置かれた書類に目を通している。
 声を掛けたくて。
 でも喉が震えて声にならず。
 ただ立ちつくす藤に。
 ネヴィルがふと扉が開け放たれたままなのに、流れ込む風から気付いて顔を上げ。
「ちょっとギルバート。扉くらい閉めて……………」
 見て、言葉が止まった。
 自分と、暮らしていた頃とは違う。
 変声期の過ぎた青年の声。
 だけど、確かに自分の良く知る、ネヴィルの。
 いつも軽口ばかりで、毒舌で、でも笑う時の。
 あの響きは変わらないまま。
「…………ふ……………じ……………?  ……嘘」
 目を極限まで見開いて、呟いたネヴィルの声はちゃんと、聞こえていた。
 泣きそうになりながら、今度こそちゃんと言葉に出す。
「……この度より猊下の新たなる直属として」
 違う。
 言いたいのは。
 今、言いたいのは。
 こんな儀礼の言葉じゃなくって。
「………………………ヴィー……………………会いたかった……!」
 こぼれ落ちた本心。同時に流れ出す涙。
 ネヴィルの手にあった書類が床に散らばる。
 それを踏んで、それも構わず、自分に向かって駆けだしたネヴィルが。
 悲鳴のように自分の名前を呼んで。
 いきおいのついたまま自分を抱き締めたネヴィルを、同じように抱き締め返して。
 その肩に頬を寄せて、止めどなく流れる涙を最早拭おうとは思わなかった。
「………藤………良かった……………。
 ………生きて…てっ………………。



 ………ずっと……会いたかったんだ…!!」

 激情のままに伝えられる言葉。
 嘘も、偽りもない。
 声から、ネヴィルも泣いている事が判る。
「………俺を…非難…しないの?」
「……なんで」
「だって…俺、逃げた。あの夜…怖くて」
「そんなの誰だって同じだ!」
 藤の肩口に顔を埋めて、離れていた時間を取り戻すように。
 離さないと。力を込めるネヴィルの腕。
「…僕だって…逃げてしまおうかって……少しは考えた。
 ………ねえ……非難とか…そんな…悲しい事言わないで。
 やっと会えたんだよ?
 やっと………手の、届くところに藤がいるのに……。
 どうして罵らなきゃいけないの。

 ただ…! 素直に喜ばせてよ!」


「……馬鹿」
「……うん。ごめん……ネヴィル……………。
 …………会いたかった。…いるよ。側に。………きっと」
 しばらく、抱き締めあったまま。
 扉を開け放したまま。
 そうやって、泣いていた。
 お互い、顔を見るために少し離れた時には眼が赤く腫れていた。
「………酷い顔」
「ネヴィルだって」
「藤……結構伸びた? 背」
「そりゃね。今は君と同じくらいだけどそのうち追い越すよ」
「…言ってなよ」

 あ。

 くすりと笑った。
 その笑顔は。
 あの頃、よく見せてくれた。
 俺の、大好きな笑顔。

「……それより、ヴィーって呼ばないの?」
「あ、でも一応仕える立場だから。名前で呼ばないと」
「……面倒だよな。こういうのって。
 ……仕方ないか」
 溜息一つ。
「でも……一回だけ。
 呼んで…。
 それから、色々な事、話そう。
 天気の事でも、なんでもいい」
「うん………………」
 暖かい日差しの中。
 嬉しそうに微笑む君に。
 あの頃に戻ったように。

 また、泣きそうになりながら、呼ぶよ。



「……………………ヴィー」



 END