◆王城ラブストーリー【第一部】◆



白月某日、ラジアハンド城。

辺りに朝靄が立ちこめる早朝、その静穏にはいささか似合わない剣と剣をかち合わせる音が城の中庭に響く頃、エーリック・ステンダーとグレッタ・ルマは剣の腕比べをしていた。

陽もまだ昇ったばかりで、ラジアハンド城の隅々まで手入れが行き届いた庭で羽を休めていた小鳥が、剣の摩擦音を迷惑そうにそこから飛び去る。しかし当の本人達はまるで構わない様子でお互い間合いを計りながら、隙を探り合いながら稽古用の刃を落とした剣で勝負の時を狙っていた。

お互いに睨み合っていた時、ふっと片方が口元をゆるめた。
「…家出してる間に随分戦闘のコツを学んできたみたいだな、エーリック。9年前よりも技のキレが良くなってる。だが、そのぶん無謀さにも磨きがかかってるがな」
それを聞いたとたん、もう一人も負けじと挑戦的な笑みで言い返す。
「グレッタも昔とは剣の“重さ”が段違いだ。けど、その分細かな隙も出てきてる」
グレッタが苦笑する。そしておもむろに剣の構えを解いた。それに習うようにエーリックも構えを解くと、リラックスしたように剣の平を肩に乗せた。
「そろそろ仕事が始まる時間だ、エーリック、今日はこの辺で切り上げよう」
「なんだ、俺の実力に怖じ気づいたか?」
「よく言うぜ…」
口ではそんなことを言い合いながら、二人とも目は笑っていた。

ルンド・カヌート失脚事変によるごたごたも、ようやく沈静化をみるようになると、グレッタ、エーリックの両最高位騎士は、城の中庭近くにあるこの修練場を利用して朝から稽古をする機会に時折恵まれた。
彼らは昔からの長い付き合いと、実力の上でもお互いを認め合う者同士、今日のように手合わせをすることもあった。
そして、それが終われば談笑が始まるのも常だった。

「そういえばお前、この前のラジール軍団との合同戦闘訓練は結局どうなったんだ。
聞いた話じゃ、ラジール殿が立てた訓練計画を無理矢理変更させて、旧ルンド軍団も引っ張り込んで総当たり戦やらかしたんだってな。さぞルンドの軍の奴らは驚いただろう…」
あのルンドに引けを取らなそうな、真面目な仕事ぶりのロルフ参謀長あたりの顔を思い浮かべてグレッタは同情した。

ルンドがラジアハンド最高位騎士の任を解かれると、その下にいた通称、ルンド第五軍団は解散、エーリック軍団とラジール軍団に人員は振り分けられる手はずになっていた。のだが、『ラジール軍団はまだしも、エーリック軍団に入ったら自分は団員としての責務を果たせるかどうか不安』という悲鳴にも近い第五軍団員たちの声(エーリックは納得いかない表情でそれらを聞いていた)が無視できないほどに膨らんでしまっていたので、最高位騎士主席であるワルターをも交えた話し合いの結果、暫くはキース大隊長とロルフ参謀長の両名を長に、第五軍団は継続させることになった。しかしそのために最高位騎士が率いる軍団に対して、立場の上で劣ってしまうために、度々エーリック最高位騎士率いる軍団に引っ張り出されては、半ば強引にこういったわざわざ第五団が入らなくてもいいような合同訓練に参加させられていた。(グレッタはそれをエーリックなりの仕返しだと思っているのだが。)その頃から第五団の間で、密かにルンドを早く復帰させようとする運動が始まったとか始まっていないとか…

それと、ルンドの下にはもう一つ、名称すらない不思議な四人一組の隊が存在していた。
ロートという女性騎士を隊長としてヴァック、ヘッグ、セトと平均的に幼い青年達で構成されたルンド直属の部隊だ。
彼らは軍団員とは違ってルンドから直々に命じられたことを遂行する立場にあった。
勿論、その上官が不在の今は彼女らはこのままでは騎士としての役目を果たせないので解散となった。
そして今、彼女たちはエーリックに他の第五団員に比べて少なからず面識があるため、第五団を代表して最高位騎士になりたてのエーリックの下で働くことになった。

「その方が緊張感があるから推しただけだ。実際にみんな嬉しそうにやってたぜ、後からラジール軍団長には怒られたけど。結果は五分五分ってとこだった。」
「嬉しそうに…ねぇ…」
それはお前だけなような気がするぞ、という言葉が思わず出かかったが、グレッタはあえて口をつぐんだ。あの合同訓練がどういう結果をもたらすのか、後々エーリックには膨大な始末書処理という形で還元される事が容易に想像がついたからだ。
「まぁ、それなりに“最高位騎士”に慣れてきてはいるみたいだな」
「ま、ね。与えられた環境に適応するのは俺、結構早いし。そのうち第五団の連中も俺を見直して向こうの方から入団を申し込むような様な事になるかもよ?」
「…お前の場合“与えられた”というより“自ら飛び込んだ”という方が正しい場合が多いと思うが…しかしそうなればロルフたちが死にそうな顔して俺に相談を持ちかける回数が少なくなるかもしれん。楽しみにしておくぜ」
視線は朝靄も晴れた空に泳がせてグレッタは言った。
「…全く期待してないだろ」
「第五団に信用されなかったのはお前の場合、経歴が経歴だったからだな。しかし俺が期待しているのは確かだぞ」
期待の意味を込めてグレッタはエーリックの背中をバンバンと強く叩いた。
「がんばれよ、ステンダー領王太子殿」
「痛ってーな。ま、俺なりにやるだけやってやるさ。それに、仕事以外にもやりたいことはまだまだあるんだ。早くこの環境に慣れて今度は睡眠時間を削る前に自力で自由な時間を作ってやる。むさ苦しい野郎ばっかりに構ってられるかよ」
意志に満ちた目で並々ならぬ決意を見せる。エーリックはその気になれば真顔で嘘を語ることも出来る男だが、口先に乗せたような軽い口調であったものの、これはまさしくこいつの本音だろうとグレッタは思った。しかし普段とは違う様子を見てグレッタは何を熱くなっているのかと訝しんでもいた。が、ふとある女騎士が脳裏を過ぎると「なるほどな」と確信に満ちた顔で指先で顎をさすった。
「その“仕事以外にやりたい事”っていうのはロートの事だろう?」
図星をつかれてエーリックはその場に固まった。暫く黙っていたが、頭を乱暴に掻くとやおらグレッタに向き直った。僅かだが耳が赤くなっている。
「…なんだよ…悪いかよ?」
「いいや、昔から恋愛は個人の自由と言うしな。とやかく言うつもりはないさ、だがなぁ…女好きのお前がまさか女っ気の薄いロートに惚れるとは思ってもみなかったよ」
グレッタの視点から見たロートという女騎士は、聡明だが仕事のこと以外では、本当にルンド直属の部隊長を務めていたのかと疑いたくなるほど率先力は失われ、大人しく控えめな女になる。そして外見は城に仕える女性の中でもかなり美しい風貌だった。確かに美人なのだが、男性との仲を噂されるということは表だって一切聞かなかった。(世話好きの女中たちが彼女とルンドとの仲をことある事に噂していた事は知っていたが、いつも当の本人たちを目の前にして仕事をしていたので、それが全く根拠のないものだということがよく分かっていた)というのも、その原因はグレッタはロートがリフィディアーナ独立大隊長とは違って、自分から“女の魅力”を出す気がないからだと考えている。かみ砕いて言えばロートは化粧も申し訳程度にするくらいで、軍服を襟元まで実にきっちり正しく着込み、その上数度しか見たことがない私服の時でさえアクセサリーを身につけることすらしていなかった。だから、ロートが(猊下が強制した事とはいえ)以前に鱗午竜の屋敷で膝上云センチというミニスカートの赤のワンピースを着て登場したときはグレッタは、にわかにそれが彼女とは信じられなかった。 グレッタがロートに対して感じることはそんな程度の事だった。

「分かってねーのはお前の方だ。ロートほど美人で可愛い女はいない」

グレッタの言葉にカチンと来たのか、間髪入れずに歯が浮くような“のろけ”を惜しげもなく披露するエーリック。ロートに惚れる前の彼が今の自分の姿を見たらどんな顔をするだろう、と考えてグレッタは内心沸き上がる笑いを何とかこらえた。
「分かった分かった、落ち着け。聞けば聞くほど本気なのがよく分かったよ」
両手の平を向けて野生の獣を落ち着かせる時のような仕草をする。しかしエーリックがロートと出会ってまだそんなに経っていない筈なのに、いつの間にこいつがロートをこんなに想うようになったのか…知りたい気もするが、聞いた後に聞かなきゃ良かったと後悔するような気もした。
「それで、ロートに思いの丈(たけ)は打ち明けたのか?」
「いや、まだだ」
「なんだ。お前にしては珍しいな…すぐ手を出さないなんて」
「…人を好色の変態みたいに言うな。ただ単に機会が無いんだ。お偉い様のお陰で粉骨砕身で仕事に入る毎日だよ」
「へぇ、逃げずに仕事しているのか?」
騎士として責務を果たすのは当然のことなのだが、それでもグレッタは少し感心した。だが、
「違う、一回逃げたらラジール軍団長に捕まって仕事を倍にされたんだ。お陰でその日は徹夜。最近じゃ逃げようにも職務中は監視があって逃げられやしない」
心底恨めしそうにラジール軍団長の不敵な顔を思い出しているエーリックを見て、グレッタは揺れ動いた心証を即座に戒めた。

話は少し過去に戻る。
エーリックが最高位騎士に任命されると、彼の執務室はルンドの執務室を借り受けるかたちで用意された。そこは壁という壁一面が本棚でぎっしり埋め尽くされていて、それ以外は綺麗に整えられた執務用の機材一式しかなかった。前の最高位騎士の性格が如実に表されている部屋に辟易したエーリックは、周りの制止もきかずに部屋の改装を行ってルンド個人の蔵書一切をラジアハンド城内の書館に寄贈してしまった。基本的に、思い立った事に忠実に従うのがエーリックという人物であった。
ガラリと空いたスペースを、さて何に使おうかと思いあぐねていたところにラジール軍団長がやってきた。仕事に慣れないうちはお前に助手をやろうと言われ、エーリックは貰えるものなら貰っておきましょうとその補佐役の名前さえ聞かずに二つ返事をすると、早速その空きスペースに自分から仕事を押しつけられる可哀想な奴のための机を運ばせた。
そしてやってきた補佐役というのが、ロートとセトだったわけである。
ラジールとしては解散したルンドの四人部隊をどう割り振るか考えていて、よくよく考えるとロートは“アクの強い”ベルナート前最高位騎士の下で軍団長次席副官としてなかなか有能な仕事ぶりをみせていた事を思い出し、それならあのエーリックの下でも十分補佐としてやっていけるのではないか、と簡単に考えた。セトも付けたのは単なる気まぐれだ。ラジールはこれで少しは仕事面がマシになるかと思ったが、しかし思いの外この人選は功を奏した。
なんと、エーリックが真面目な態度で仕事に臨むことが多くなっていたのだ。更に驚くべき事にエーリックは補佐の二人に本当に『補佐』程度の仕事しか任せず、職務中内で自分でやれることは自分でやっているのだというから、ロートとセトの二人を“人身御供”にやるような心境で送り出していたラジールは目を丸くして不思議がった。
それは本当のところ、エーリックのロート一人に対する単なる強がりだったのだが、それをおくびにも出さない彼にすっかり騙されたセトは「きっとルンド隊長の部屋で仕事してるから真面目さがエーリックさまにも移ったんですよ」と、飛躍した憶測に感動し、あらぬ事かロートまでもが、セトに共感した目で自分を見ている様なのでエーリックは泣くに泣けなかった。
余談だが、エーリックが純朴なセトを心の奥底でうっとおしく思い始めた決定的瞬間はここである。
そしてそのままずるずると真面目を装った仕事ぶりを披露していると、いつの間にかその仕事も苦ではなくなっていたという。エーリック当人には皮肉な話である。

そういうエーリック個人の裏事情もあって彼は今真面目に仕事をしているのである。


話題には出さないものの、彼は自身が“気の置けない友人”と認めるグレッタにも言えないことがあったりした。それは彼の愛剣【ニーケ】曰く『エリーちゃん(彼女なりのエーリックの呼び名である)たら、子供っぽいシチュエーションに大人になっても憧れてるのよー。俺に本当に好きな人ができたら告白の場所は絶対前から決めているところでするんだとか言ちゃったりして、きゃ!ホント外見じゃ中身は分からないわよねv』ということである。ニーケ本人の私情を挟まずにこれを簡潔に言えば、本気の恋愛に関して彼はいわゆるロマンチストだったのだ。
しかしそれをおおっぴらにしては、後々キースあたりに揚げ足を取られるであろう事は分かりきっているし、何よりも自分の沽券に関わるから彼は口が裂けても人には相談しない。
だから執務室が同じ部屋で、今後自分とロートとの間に“偶然にも自然に”機会が訪れることを願ってはいるのだが、同じ執務室にセトがいる限りそういうシチュエーションに恵まれることは望み薄である。おいしい場所にいるようで辛い立場であった。


グレッタと別れるとエーリックは上着を肩にひっかけながら自分の執務室へと急いだ。
入り口から反対側の所にある階段を上らねばならい為に長い廊下を歩いていると、扉のない簡素な女中の休憩室の脇を通りすがる。しかし中に見知った人影を視界の端に見てエーリックは思わず歩みを止めた。間違いない、ロートだった。ロートと分かっただけで反射的に立ち止まってしまった自分に、苦笑いしながら照れ隠しに目尻の辺りを指で掻くと、早々にそこから立ち去ろうとした。だが、彼はまた不自然に動きを止めることになる。
「私の意中の人…ですか?」
ロートがうろたえ気味に小声で口にした言葉はエーリックにハッキリと聞こえた。
エーリックは無意識にその部屋からは死角になる近くの壁に背をもたれた。顔は無表情を装うために下を向く。腕組みをしたのはその方が自然だと思ったからだ。廊下の脇で、哀愁漂うような姿勢で立ち止まっている事からして不自然だということには全く気が付かない。
「ええ、ロートさまの意中の方のお名前を教えていただきたくって。私たち前から気になって気になって気になって……ロートさまもいらっしゃるんですよね!?」
少し前、ロートはエーリックと同じく執務室へと向かっていた。だがこの部屋の前を通った途端、強引に複数名の女中により部屋の中へ引っ張り込まれたのである。因みに、女中達の応対にいっぱいいっぱいのロートは元より、ここにいる女中達も話に夢中でエーリックが通り過ぎたことに気が付いてもいなかった。
「みなさま素敵で誰にしようか困ってしまいますものね」
さらに、両手で顔をおさえて頬をぽっと赤らめた女中の一人は凄いことを言った。
「ロートさまはラジアハンド騎士団の中に咲く一輪の花。何人もの騎士さまとお付き合いされていても不思議ではありませんもの!」
「そんなっ…私は一人しかっ!」
それを聞いて女中たちはにんまりとした笑みを浮かべた。声を揃えて言う。
「「やっぱりいらっしゃいますのね!」」
「うっ……」
はめられた。ロートは誘導尋問に弱かった。
黙ってしまったロートに畳みかけるように女中達は熱意の眼差しを注ぎ続けた。観念したのかロートはぽそっと一人の騎士の名を挙げた。
「…ルンド元最高位騎士様です」
それを聞いて周りは色めき立った。
「きゃーっ!やっぱりそうなんですね!?」
「ね!ね!私の思ったとおりだったでしょ!!」
「もうお付き合いされてどれくらいなんですか?」
「出会いは?」
「初キスはどちらで??」
彼女らの妄想は相手方のルンドが更迭されて城に居なくても、なんら支障はないらしい。
「わ、私はそんなことは…!」
言わなければよかったと思いつつロートは必死に否定している。はぐらかさずに答えてしまうところが普段からの真面目人ゆえの泣くべきところである。早く事実を言ってしまおうと無理やり、色の付いた会話の中に言葉を割り込ませた。
「ちょっと待って下さい!それは私が勝手に想っていただけで、今はもう終わったことなんです」
「え?それでは他にも理想の方が…もしかしてベルナートさまですか?」
今は亡き人にどうして今から想いを寄せることができるのか。
「(どうしてそうなるのかしら…)」
自分が何と答えても彼女たちは自分たちの都合の良い方向へ話を変換してしまう。そう思うと頭痛がしてきた。 ロートを置いてしばらく勝手に盛り上がっていた女中たちが一斉に振り返った。
「「出会いはどちらで?」」
「ですからっ…!」
話が堂々巡りしていた。

そしてエーリックはいつの間にかその場から居なくなっていた。


その日の執務室はとても静かだった。カリカリと羽根ペンが羊皮紙の上を滑る音しか聞こえない。元から口数少ないロートは普段通りだが、気づけば何か一つは喋っているエーリックさままで何も話さないなんてどうもおかしい。と、気になってセトはエーリックの方をちらっと見てみた。が、何か見てはいけないものを見てしまったようで慌てて視線を机に戻す。それからセトは一心不乱に仕事に取りかかった。
そのお陰で、今日の仕事は早上がりとなった。


夕方、グレッタは自分一人のための執務室で窓から差し込む暖かい斜陽に背中を包まれながら一定のペースで始末書の束に目を通していた。もうすぐ今日の分も終わると思うと、俄然身に力が入る。休憩に飲もうと思っていた暖かいスープも既に冷たくなってしまったが、これだけ背中が暖かければそんなスープも美味しく感じられるだろう、と鼻歌でも歌いたい気分で羽根ペンを動かし続ける。
そして最後の一枚に手を伸ばした時、不意に背中にゾクッとするものを感じた。
「(寒気がするな…朝の訓練の後早く着替えないのが悪かったか?)」
「……グレッタ…」
「おわっ!」
扉を開けっ放しにしていたとはいえ、気配さえ感じさせずに机のすぐ脇に立っていたエーリックに、グレッタは心臓が止まるかと思った。
地の底から這い上がってきたような土気色の顔をしている。
「入るときは一声掛けろよ、驚くじゃないか…で、どうした?」
グレッタは根が明るい性格なので、エーリックの様子が尋常でないとかあまり細かいことは気にしなかった。自分の気を取り直すと、何かの相談事だろうと(彼はその性格から人から悩みを相談されることが多かった)取りあえず近くの椅子に座ることを勧める。エーリックは大人しくそれに従った。
エーリックは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「なぁ、ロートさんと…ルンド殿が付き合ってるって本当か?」
この発言だけでエーリックはあの時ロートの話を最後まで聞かずに、一人居た堪れなくなって立ち去ったのは明白である。
「はぁ?どっからそんな話が出てきたんだ?」
「ロートさんから…」
ロートは決してそんな事は言っていない。
「へぇ、本当か?」
グレッタは本当に初耳だったので思わず聞き返してしまった。
「…俺にそれを肯定させる様なことを言わせるつもりか?…知らねーんなら…いい」
気分を害したようだ。言葉に明確な怒りが籠もっている。
ロート本人から聞いたんなら確実じゃないのか、とグレッタは話に矛盾を感じたが、フォローのひとつでも入れないとまずいと咄嗟に判断して当てずっぽうを言った。
「そ、そうだな。二人とも恋愛については奥手そうだったな。そうだ、万一両想いだったとしても何も起こらずに自然消滅したんじゃないか?実際、あいつ今居ないしな、そういう事になっているなら出ていく時に何かあるもんだろ、普通」
さすがルンドと割と親密に付き合っていた唯一の最高位騎士。勘もいいが、かなり事実に沿っている。
「そう思うか?」
エーリックの顔にしだいに血色が戻ってくるのを見て、グレッタはこいつは本当にロートから聞いたんじゃないな、と分かった。長年の相談役経験のなせるわざである。
「気になるんなら“直接”本人に聞けよ。俺に聞くな」
「あ、悪ぃ。ロートさん仕事終わってすぐ帰っちまったもんだから…」
意味もなく前髪を掻き上げる。まだエーリックの目が泳いでいるのに気が付いて、自分の行動が把握しきれていないのか、とグレッタは危ないものを見る目で目の前の男を見た。
しかし放っていく訳にもいくまい、同僚だし。
「なぁ、お前もう今日の分は終わったんだろ?これから城下まで飲みに行かないか?そうすりゃ気分も晴れるだろ」
「………そうするか」
エーリック本人も早くこの気分から脱したいと思っていた。
そういう訳で、二人は城下の行きつけの酒場で夜が明けるまで飲んだくれたのだった。


次の日の朝、ラジアハンド城。
ロートはエーリックの机の前で小さく溜息をついた。
椅子の背もたれに、まるで遠くから投げたように制服が乱暴に掛かっている。仕事が始まる時間だというのに、エーリックはまだ今日はここへ一度も姿を現していないようだった。
「制服まで置いて…エーリック様はどこへ行ったのかしら?」
「あ、それなら僕知ってる」
自分用の机で、今日の仕事の分を整理しているセトが顔を上げた。
「ロートが早く帰っちゃった昨日の夕方頃、エーリックさまがグレッタさまと一緒に城下へ下るのを見たよ。きっと早く仕事が終わったんで飲みに行ったんじゃないかな?いつもの場所に」
少し前、エーリックがロートとセトの二人を自宅の夕食に誘ったとき、途中で用事が出来てしまってエーリックが一方的にキャンセルした事があった。その詫びに、ということで後日誘った城下のエーリック行きつけの酒場で二人に夕食を奢ったのだった。いつもの場所というのは、その酒場のことであった。
「そうなの?」
「うん。なんなら、僕が呼んできてあげようか?」
語尾を嬉しそうに上ずらせながらセトは立候補した。何を考えているかは一目瞭然だ。
「あなたに行かせたらきっと寄り道するでしょう?駄目よ、大人しく仕事をしていなさい」
机に足を掛けてつまらなそうにするセトに微笑み返すと、エーリックの制服を綺麗に畳み直して彼の机の上に揃え、ロートは呼びに行く支度をするため部屋を出た。


セトの予測通り、“いつもの場所”では大の男が二人して朝っぱらから店の端の方にあるテーブル席で突っ伏していた。夕陽が沈む前から日が昇るギリギリまで飲み明かしては、いくら酒豪の二人でもこうなる。
周りには信じられないほどの数の空瓶がゴロゴロ散乱していた。
その惨状を見てロートは無言で酒場の主に二人が飲んだ全ての代金を支払うと、エーリックを起こそうと酒瓶を踏まないように足場を確認しながら近づいた。
「…エーリック様、起きて下さい。エーリック様」
これだけ飲んだのだから、確実に二日酔いを起こしていると思ったロートは控えめにエーリックの名前を呼んで起こそうとする。しかし、泥酔状態のエーリックはそんなことでは起きる兆候もみせなかった。仕方なしにロートはエーリックの近くに屈んで、頬にかかった自分の髪を耳にかけ直してからエーリックにより聞こえるように彼の耳の近くでもう一度呼びかけた。
「エーリック様、エーリック様、起きて下さい。エーリッ……」
言い終わらないうちにロートの動きが不自然にピタリと止まる。エーリックが耳にかかる声を煩わしそうに、突然寝返りを打ったのだった。そして目蓋に朝日の明るさを感じると、気怠そうに目をうっすら開けた。
エーリックはまだ酒の中に浸っているのか、今まさに自分の唇が彼女の唇に触れていることすら分かっていない様子である。
「………………っ!!」
よって、赤面しながら自分の唇に手に当て、驚いたのはロートだけだった。
「あ…れ、ロートさん?……なわけ無いか。だってロートさんはいつも制服だし…」
そう自分に言い聞かせるエーリックだったが、実は今、ロートは私服姿だった。上司を呼びに行くだけとはいえ、城の者が昼間から城下の酒場に行くとなれば、世間体のため身分を隠すのは当然の事である。現にグレッタとエーリック本人も私服姿であったのにエーリックはその事すらすっかり忘れていた。
「現実で口にキスなんてできるわけないよな…俺が…ロートさんに…」
してきた本人に目の前で、改めてそう言われると、ロートは居たたまれなくなった。
「支払いは済ませておきましたので…早く戻ってきて下さい」
とだけ言い残して慌ただしく酒場を出ていってしまった。口を押さえながら。
それをただボーっと見送ると、エーリックはまた頭から突っ伏して、気持ちよさそうに寝息を立て始めるのだった。


エーリックが確実に目を覚ましたのは太陽が昇りきった時だった。
「おい、エーリック起きろ!」
グレッタに肩を強引に揺すられて、エーリックは吐き気を抑えながらの最悪の気分で目を覚ました。
「うげ…気持ち悪ぃ……」
これよりも飲んだのは自暴自棄になったあの時くらいだが、今回は自分に対しての怒りのヤケ酒では無い分、純粋に飲むことを楽しんでいたので頭に酒が多く回ったらしくて、結果前よりかなり酔っていた。
「俺だって頭がガンガンするんだから我慢しろ、ほら、帰るぞ」
「……ああ…」
「すまん、支払いは幾らだ?」
エーリックを突っ伏した状態から背中を椅子の背に凭(もた)せ掛ける格好にしてやってから、グレッタは酒場の主を顧みた。
「お代なら、もう頂きましたよ」
人の良さそうな男の主が確かにそう言ったのを、グレッタは勿論のことエーリックも頭を抱えながら、頭の隅でなんとか聞いていた。
「何だって…誰が?」
「さぁ?私は見たことがない人でしたよ。…ああ、そうだ。あなたと仲の良い方ではないんですか?」
エーリックの方を向いて主は助け船を求めるように言った。
グレッタは主の視線につられるようにエーリックに振り返った。しかしエーリック本人も目を瞬(しばたた)かせるだけで、訳が分からない様子だったのでグレッタは仕方なく主人の方にまた向き直り、問いつめた。
「どういうことだ?」
「どういうことって…」
主は困ったような顔をした。そして言ってしまった。
「だって、あの方は起きた途端その女性の唇に…」
途端にグレッタの背後でガタガタッと椅子が倒れた。反射的にグレッタは背後を振り返り、思わず酒場の主と一緒に後ずさった。エーリックが椅子をはね除けてテーブルに手をつき、凄い形相で自分たちを凝視していた。
「俺が…何…したって?」
言葉を単語で区切るので余計に怖さが引き立った。
「はい。ですから…その…その黒髪の女性の方に口づけを…」
エーリックの酔いが一気に吹っ飛んだ。

「(…夢…じゃなかっ…た…!?……最悪だ…ロートさんに何て事を……べろべろに酔っぱらった挙げ句にキスするなんてどこのオッサンだよ……)」

ロマンチストも形無しである。

グレッタが目の前でエーリックの名をしきりに呼ぶのも、眼前で手を振るのも、立ち尽くしたまま硬直した今のエーリックには全く届いていなかった。



ラブストーリーの幕開けは…最悪だった。




【第二部へ続く】

======================================
筆がこんなに進むのは何故か…恐らく某日のチャットで「エーリックは…(中略)ロマンチスト」というりゅーまさんの発言が私にとってかなり衝撃的だったからだと。

エーリック・ステンダーの男を上げる番外ML、始動(笑)
とか言いつつ早くも崖っぷちですが…気にしない気にしない。

◎グレッタの名字は『ルマ』でした。私は相当『ル』という文字を名前に入れるのが好きな模様。