降誕日



 大陸歴985年、アスリース城下にて。


 精霊王の子供たちは、女性型で生まれることが多い。
 その為か、集まればとても騒がしい。女三人寄れば姦しいとは、全く的を射てい
る。と、彼は思わざるを得なかった。
 それが顔に出たのか、彼は年長の姉に強く耳を引っ張られた。
「ちょっと嫌そうじゃないの? スパイクちゃん」
 最初の精霊王の子ガードルードが、皮肉たっぷりの様子で引っ張っている。
 彼女は大地の精霊で、長く美しい黒髪を持っている。光の加減で緑にも見えるその
髪に、幼い頃のスパイクはとても憧れたものだった。
「71番目のおちびさん。大人しくしていた方がいいんじゃなくて?」
 クスクスと可愛らしい笑い声をあげているのは、38番目の姉である「紅髪の」
ウィシ・ウィラだ。火炎系の精霊である。長く豊かな紅い髪を持つ彼女は、品のある
仕草でスパイクの髪を撫でた。
 今回の集まりに出席したのは、精霊王の子供たちのうちで、たったの5人だった。
それでも、集まっただけマシかもしれない。十年に一度の偉大なる精霊王の降誕の日
だ。自由の身ばかりでなく、連絡の取れない同胞たちには、生まれて以来、精霊王に
会えずにいる者もいるのだから。
 だからといって、この中で最も若輩な彼には、姉たちの集中砲火に対抗する術はな
い。
「ひでーよな。最悪だよ、今回のメンツ。オレをいじめるために集まったようなもん
じゃねえか」
「あら、生意気言うわね、スパイク。こんなに美人のお姉さまたちが揃ってるんだか
ら、お世辞の一つでも言ってみなさいよ」
 そう言ってスパイクの背中を突くのは、51番目のバティスタだ。「紺碧の導き」
と呼ばれるだけあって、彼女の深い海色の瞳は、いつも思慮深げに見える。貝殻の髪
飾りは今日のために新調したに違いなく、彼女はそれを褒めて欲しいらしかった。
 ちらりと彼女を振り返り、スパイクは姉たちの美しさに溜息を覚える。けれど、そ
れは遠慮のない美であり、彼にとってはただの身内の見栄にしか見えないのだ。
 スパイクは、今日の会合に出席したことを深く深く後悔していた。
 ここは、アスリース城下の一角。考えてみれば、精霊王の子供たちが会するには相
応しくなかったのかもしれない。何しろここは、魔法大国だ。だが、魔法大国だから
こそ、城下の一角で、こんな会合が行われているなんて、一体誰が想像できるだろう
か。
 ただ、今回の降臨の場所が、アスリース城下であっただけの話なのだが。
 市街地から遙かに離れた、人気のない墓地。その片隅に打ち捨てられたような教会
がある。精霊王の子供たちは、その場所に集まっていた。
「あーあ、やっぱり来るんじゃなかった」
 部屋の片隅で、スパイクが小さく呟いていると、教会の古ぼけたドアが開かれる。
 白壁は雨で汚れ、ドアはすっかり錆びていた。軋むような嫌な音とともに、精霊王
が姿を現す。その傍らには、銀色の精霊の娘が立っていた。
「久しぶりだね」
 彼は微笑み、子供たちに歩み寄る。
 ガードルードも、ウィシ・ウィラも、バティスタも、喜び勇んで彼に寄っていく。
バティスタなど、生まれた時以来だと言うのだから嬉しいに決まっている。
 けれど、スパイクだけは素直に歩み寄れない。
 娘たちに囲まれた王は、穏やかに微笑んで、彼女たちの言葉にいちいち頷いて返し
ている。
 娘ばかりを作った王。
 男性型として生まれた自分。
 特に望まれていなかったのかもしれないと、そんな不安がよぎってならない。親子
の情も兄弟の情もない。けれど、生まれた意味だけは失いたくない。
 スパイクが今日、この場所に訪れたのも、そんな理由だったかもしれない。
 生まれた意味を確信したかった。確実に手にしたかった。
 その反面、こうして目の前にすれば足が竦んでしまう。逃げ出したい。最後通告を
言い渡されるのは嫌だった。
「スパイク、何してるの?」
 肩に触れたのは、柔らかな女性の手だった。
 恐る恐る振り返れば、そこには銀色の精霊が立っていた。「宙から降る星の尾羽」
という美しい貴名をもつ2番目の姉、ヒュエイーナだ。長い銀糸の髪に、深い緑の
瞳。スパイクと並ぶと、幼さの抜けきらない少年のような体格の姉とは、まるで兄弟
のように見られる。けれど彼女は、ガードルードの次に生まれた精霊だ。つまり、彼
よりもずっと年長なのである。
 落ち着いた穏和そうな物腰だが、彼女とは仲の良いスパイクは、彼女がどんなに怖
いかを知っている。
 驚きとともに立ち上がり、彼女と向き合う。
「な、何でもねえよ。ちょっと調子良くなくて」
「気付け薬ならあるわよ。用意する?」
 珍しく優しいのは、精霊王を目の前にしているからだろう。
 大丈夫だと苦笑いして視線を外せば、その先には王の細められた目がある。
「あ、えと……」
 戸惑いながら、スパイクは足を進める。
「強くなったな、スパイカズ・スパンカー」
 王は手を差し出し、スパイクも困惑げに首を傾げてから、目一杯照れを隠してその
手を握りしめた。
「オレ、強くなった?」
「強くなった……。我が子供たちよ。君たちの成長を、私は心から嬉しく思う。頼も
しき君たちに、祝福を」
 スパイクの手をゆっくりと離して、王は静かにそう言った。
 そして、王がゆっくりと瞼を降ろし、光の渦を作り出す。彼の姿は次第に光の渦に
包み込まれて、その影は消えていく。光は飛び散り、彼の影も霧散する。教会の壊れ
た窓の隙間から、無数の光たちは飛び立ち、世界中に広がっていく。
 これが精霊王の降誕の儀式だ。
 彼の放つ光が、世界中に散らばるありとあらゆる元素に力を与えるのだ。
 精霊王の降臨が予定されている日は、この日しかない。
 子供たちが彼と会いたいならば、降臨の日に集まるしかない。しかし、この一瞬の
為に、大陸のあちこちから集まってくるのだから大したものだと思う。
「またあっと言う間ね」
 毎回、この場に出ているガードルードは、溜息を吐いて、立ち去る用意を始めてい
る。
「ねえ、スパイク。飲みにいこ?」
 そう言って飛びついてきたのは、ウィシ・ウィラとバティスタだ。左右から腕を掴
まれて、ずるずると引きずられていく。
 ガードルードと立ち話を始めたヒュエイーナは、こちらをちらりと見て、軽く手を
振っている。
 スパイクは引きずられたまま、二人の様子を見つめていた。
 また、大分会えなくなるのだろう。
 次は、十年後のこの日かもしれない。
 けれど、実際の再会はそう遠くなかった。彼女の悲劇が、スパイクを引き寄せたの
だ。けれどそれも、もう少し先の話であり、今の彼は知るよしもない。



 夜も更けると、さすがに遊楽街の光が目立つ。
 客を引く娼婦の波に、スパイクは時折引き込まれそうになったが、2人の姉はそれ
を許さなかった。スパイクは、残念そうに手を振る極彩色の女たちに別れを告げる。
黒く柔らかな髪に、街の女たちの視線が集まっていた。頭上から、水タバコを吹かし
た女が、こちらも冷やかし半分で声を掛けてくる。
 夜の街はとても優しい。
 また帰ってきていいのかもしれないと、そんな錯覚を感じさせる。
 人混みで触れる見知らぬ男の肩も、この瞬間だけは同志であるのだ。
「ここでいいわね」
 紅い髪の美しい姉は、振り返りにっこりと微笑んだ。
 スパイクは、かなり脱力した様子で頷いた。
 街の女たちのからかいを適当にかわせるスパイクはいいとしよう。
 青味のかかった短い黒髪のバティスタは、気の強そうな美貌もさることながら、男
装の麗人を思わせる黒い上下に、女たちの方が喜んでまとわりついていた。バティス
タは、女たちに優しく微笑み上手にかわす。
 一方、燃えるような赤毛が、長くウェーブがかかっているウィシ・ウィラは、レー
スの付いた茶色い簡素なドレスを着ていた。シンプルだが、上質な皮でできたドレス
は、周囲の男たちの目を引くには充分だったらしい。相当な金づると思われたらし
く、男たちがウィシ・ウィラの手を引こうと画策していたのだ。しかも、彼女も火の
精霊だけあって、相当気が強い。何人かの男に火傷を負わせるだけで済んだのは、ひ
とえにスパイクの努力のおかげに違いない。
 <ヘカテ>という黄色い看板と、小さな入り口のその店は、ウィシ・ウィラの好き
そうな落ち着いた雰囲気だった。
 カウンターから離れた、奥まった席に向かい合った3人は、運ばれてきたアルコー
ルに口を付け、ようやく落ち着いたように吐息をついた。
「あたし、ガードルードさんって苦手なのよね」
 ぼそりと言ったのは、やはり先ほどから問題を起こしかけているウィシ・ウィラ
だ。ようやく長姉ガードルードの約20分の1の人生を歩んだ彼女は、彼女自身のの
好みで、17歳程度の外見を保っている。
 全く、生意気だと思う。スパイクは彼女の表情を見てから、ガードルードの様子を
思い浮かべた。精霊にしては長寿過ぎる彼女には、全ての出来事を超越してしまった
ような感じがある。それが、ウィシ・ウィラには気詰まりなのだろう。
 ガードルードという女は、充分すぎるほどいい女だと、スパイクは思うのだが。
「わたしは好きよ。格好いいじゃない」
 バティスタは、桃色の唇を引き、笑って見せた。
 短く刈り上げた黒髪は、彼女にとてもよく似合っている。つり上がった眼差しと、
桃色のグロスを塗った薄い唇に、細い顎。スパイクは彼女の相貌がとても好きだっ
た。どこか、ヒュエイーナを思わせる気の強さも、また魅力だと思う。
 ウィシ・ウィラの、女特有の気の強さとは、また種類が違う。
「いい加減にしろよ、ウィシ・ウィラ。まるでひがみだ」
「あんたは、ヒュエイーナさんさえいればいいんだものねぇ。関係ないって顔、露骨
に分かるわよ」
 ウィシ・ウィラの嫌味たっぷりの言葉に、スパイクは眉間にしわが寄るのが分かっ
た。
 全く心外である。
「あいつのことを言うのは、お門違いも甚だしいぜ、お姉さま」
 こちらも嫌味たっぷりで返す。
 スパイクは、この姉たちに比べれば年若かもしれない。けれど、それなりに場数を
踏んでいる。5年ぐらい前から固定された外見は、21歳ほどで代わり映えはしな
い。それでも、彼の経験が外見に重みを与えてきているのは事実だ。
 子供扱いされるのは、全く心外である。
「スパイク。ウィー相手にむきになるのはみっともないから止めなさい」
 バティスタは余裕の笑みで、弟を見つめている。
 こんな時、バティスタは大人だとつくづく思うのだ。ウィシ・ウィラの言葉をあし
らい、スパイクを宥めることも出来る。やはり、ヒュエイーナと似ていると思う。
「みっともないって何よ! バティスタは、好きでフリーかもしれないけど、あたし
は早く身を固めたいの! あんな風に、……ガードルード姉さんみたいになりたくな
いの! あーあ、あたし、地霊でなくて良かったァ。伝道の娘の2代目なんて、絶対
に嫌だもの」
「ガードルードだって、好きでやってるわけじゃないでしょう? 0クラスで、当時
のまま残っているは、もう、ガードルードとヒュエイーナしかいないんだもの。早く
眠りたいっていうのが本音だと思うわ」
「じゃあ、早く眠ればいいんだわ」
「そうもいかないでしょう? もう、わたしより長く生きてるくせに、全然わかって
ないのね、ウィーは」
 一桁代の兄姉たちで、当時の姿のままでいるのは、もうガードルードとヒュエイー
ナしかいない。
 ウィシ・ウィラより年長の精霊だって、あと何人残っているだろう。
 誰もが、自分の限界を悟って、その身を元素の中に帰すのだ。けれど、2人だけは
今だ元素に戻れずにいる。
 ガードルードは、伝道の娘である。精霊王の知識を受け継ぎ、それを新たに生まれ
てくる精霊王の子供に与える役目がある。ここ数年、彼女の後を継げる地霊が生まれ
ていないことから、彼女の役目は継続されているのだ。
 ヒュエイーナは、監査役である。精霊王の子供たちが、人間世界や自然界に悪影響
を与えないよう、間違った干渉しないよう、監視を続けるのだ。けれど、その役目も
引き継げるだけの器がない。
 2人が長く世界に留まるのは、必要なことなのである。
「わかってるわよゥ。でも、そんなの理不尽じゃない。そんな役目が必要だなんて、
精霊伝承のどこにも載ってないわ」
「伝承は伝承。現実は現実。なによ、あなたガードルードが可哀相だと思っているの
? やっぱり嫌いじゃないのね。意地張るのは良くないわよ」
「嫌いなんて言ってないじゃないの。意地悪ね」
 ぷうっと頬を膨らまして、ウィシ・ウィラはようやく大人しくなる。
 バティスタはにこにこ笑って、横に座るウィシ・ウィラの髪を優しく撫でた。ウィ
シ・ウィラの鮮やかな紅髪は色めき、感情の揺れを表すように光を反射させる。拗ね
ている様子は、人間の少女と変わらない。けれど、彼女もまた、叡智の塊といわれる
精霊の一人なのだ。紅い髪は彼女の力の源であり、彼女自身でもある。
 自分よりも年若のバティスタにからかわれたような気になり、ウィシ・ウィラはま
すます不機嫌そうに口を尖らせる。
 そして、不意に立ち上がり、
「あたし、もう帰るわ! またね、バティスタ、スパイク」
 と言った途端、スタスタと店から出ていってしまった。
 次の瞬間、店の外で、悲鳴に近い女の声がして、ざわめく声が聞こえてくる。
「派手にやったなぁ」
 さっさと出ていってしまったウィシ・ウィラが、どの様な手段で古巣に帰るのかは
見当が付く。どうせ、自慢の紅髪をいっぱいに伸ばし、道端の一般人に火傷を負わせ
ながら飛び出したに決まってる。
 はた迷惑な火霊である。
 次の会えるのは、何年後か分からない。
 けれど、その数年も瞬きのようなものだ。精霊は、肉体を持ってからの年齢を、自
らの年齢としない。長い長い年月を元素の中で生きている。ある意味、不滅の魂と言
えるのかもしれない。だが、そんな不滅の魂にも、消滅する瞬間はあるのだ。
 そんな精霊の宿命を、スパイクは、まるで人間のように哀愁を覚える。
「寂しいの? スパイク。賑やかなお姉さんがいなくなって」
「別に……。ただ、怒らせたままでいいのかよ? 根に持つだろ、あの姉さんは」
「怒ってないわよ、あの子。照れてるだけよ。気にしない、気にしない。それより
もっと飲まない? わたし、ピンクサラマンダーおかわり」
「じゃ、オレはクラリアットストリーム」
 それぞれ、カクテルのおかわりを注文すると、気取った中年のバーテンダーがシェ
イカーを降り出す。美人からの注文は、やっぱり嬉しいのか。すぐにカクテルは運ば
れてくる。もちろん、バティスタが先だ。
 ピンクサラマンダーは、ジールに桃の果汁を入れたもので、桃の甘さの後にジール
のほろ苦さがやってくる。女性に人気のカクテルらしく、可愛らしい細長いグラスに
注がれていた。バティスタは、必ずこの一杯を欠かさない。
 ピンクのグラスが、バティスタの細長い指にはよく似合う。
 スパイクは、どうもバティスタには姉弟以上の親愛を感じているらしい。そんな自
分の感情をそろそろ認めざるを得ないようだ。
 けれど、他愛のない世間話は長く続かない。
 口を開けば、人間世界の世知辛さばかりがこぼれ落ちてくる。
「あたしたちって、何のために生まれるのかしらね」
 つい口に出たという風に、バティスタが呟く。
 元素として漂ううちは良かった。人間に対する感情なんて、これっぽっちも持って
いない。ただ本能のみ。生きるということ、見守るということだけ。
「あたしは、契約なんてしないわ。天涯のパートナーなんて必要ない」
 人間なんて嘘ばっかり。
 人間なんて愛もない。
 私腹を肥やして、人を憎んで、憎まれたりして。
「あたし、この前までいた所ね、教会だったわ」
 ぼそりと、話す風でもなく呟きだした言葉は、スパイクに向けられたものであった
か。それともただの独白か。どちらにしろ、スパイクは黙ったまま。
「たくさんの子供がいたわ。あたしは、神父の手伝いをしていたの。気紛れよ」
「神父が好みのタイプだった、とか?」
 冗談交じりに言葉を挟めば、まんざらでもない微笑が返ってくる。
「いいじゃない、そんな詮索。それより、スパイク。教会って行ったことある? 孤
児院付きのよ」
 スパイクは、無縁だと首を振った。バティスタは悲しげに俯いて続けた。
「子供は大事にされているのよ。国からも給付金がある。望めば大学だって行ける
わ。まあ、あたしのいたとこは他の地区よりもましだったわけよ。でも、誰も親には
なってくれない……。それでも、捨て子は年々増えるのよ。あたし、不思議だった
わ。でも、それが現実なのよ。あたしたち精霊には、親なんて理解できない。捨てる
気持ちも分からない。邪魔なのか、望まれていないのか……」
「だから、神父のとこから離れた?」
「それだけじゃないわ。あの人は、国から援助されて、たくさんの子供に囲まれて、
幸せだって言ったの。お金には困らないし、子供たちが飢えることもない。ただ親が
いないだけで、他の子供と変わらないって。その分、家族はたくさんいるんだって。
ねえ、それって幸せなのかしら?」
「オレに、聞くなよ……」
「そうね。あたしたちには理解できない。でも、幸せなんだって。だから、やめた
の、そばにいること。あたし、何にもならないもの。必要……ないのよ」
 悲しい締め括りに、スパイクは言葉を失う。
 必要とされなければ、どんなに無意味な存在なのだろう、精霊とは。元素として存
在するわけもなく、こうして実体を持つ精霊種は、誰かに必要とされなければ、存在
する価値もない。
 価値がなければ、生きている意味もない。
 ウィシ・ウィラが躍起になって契約者を探す理由は、価値を見い出したいだけだろ
う。たった一人でいい、他の代わりがないほど必要として欲しい。ただそれだけ。
 偉大なる精霊王の子供としては、ささやかすぎる願いなのかもしれない。
 望めば、世界の王になれる可能性すらあるのに。
 ただ、精霊王の子供たちは、人間やエルフなど、生きる者に興味を示すが、自分に
関する事柄には驚くほど頓着しないのである。
 自分を大事にする必要はない。自分が消えても、それは死ではない。
 だから、精霊王の子供たちは、他者のために、弾丸の盾になることすら厭わない。
 けれどそれを、一体どれだけの人が受け入れてくれるだろう。
「湿っぽい話は嫌いなのよね……」
 バティスタは、グラスに残っていた薄ピンクの液体を飲み干すと、懐の隠しから1
0ラージを取り出し、テーブルに置いた。
「あたしも行くわ。変な話して悪かったわね。スパイクは、これからどこへ行くの
?」
 既に椅子から腰を上げたバティスタは、大きな耳飾りを揺らして振り返った。
 下から見上げる顎のラインがとても綺麗だと、スパイクは思った。
 やっぱりバティスタは美人だ。
「オレは、……相変わらず流浪でもするよ。帰る場所もない風の子だからね」
 バティスタは苦笑いし、軽く手を振って店を出ていく。
 去り際まで美しい女こそ、本当のいい女だと思う。スパイクは、敬愛する姉の後ろ
姿を追って、いつまでも店の扉を眺めていた。
 美しい女は、存在するだけで価値があるのではないかと、スパイクは常々感じてい
る。
 美しい姉たちは、存在することに意味があるのだと思う。
 では、自分はどうだろう。男を愛でて、何が楽しいのか。一部の裕福な女性にとっ
て、美しい男はステータスになるのか。けれど、女よりは価値がない。なぜなら、女
は存在することに無限の可能性があるからだと、スパイクは信じていた。それは、総
じて母性と呼ぶのが相応しいと思う。それに比べ、自分は何を生み出せるのか。
 何一つ、この手は生み出さない。
「お兄さん、連れの美人さんは帰っちゃったの?」
 しなやかな腕が背後から絡みついてくる。香水の甘い匂い。磨き上げられた両腕
は、商売の匂いがする。豊かな髪が頬を撫でる。亜麻色の柔らかなそれは、頬から首
元に絡みついて捕らえる。
 甘い匂い。蠱惑的な声音。
「安くするわよ? お兄さんも、美人さんだもの」
 優しい優しい、女の声。
 振り返って見つめれば、女は割と美しい部類に入っていた。バティスタの冴えた水
のような美貌や、ヒュエイーナの高貴な美貌とは比べようがないけれど、割と素材は
悪くない。田舎じみた化粧はまだ許せる。頬のソバカスが愛らしい。どうやら彼女
は、年齢より若く見える質らしい。大きな緑の目が、スパイクの気を引いた。
「エメラルドグリーンは嫌いじゃないよ」
 女は笑ってスパイクの腕を引く。
「あたしの目の色〜? 死んだ母親似だよ。お兄さんの好きな人も、緑の目なの?」
「もう少し、深い色かな。好きだよ、緑は」
 スパイクは瞼を伏せて、心の一番奥にある姿を思い浮かべる。
 いつだって、そこに光はある。けれど、スパイクのための光は、いつだって銀色。
そして緑色の眼差しが消えない。
「ヒュー……」
「ん? なんて言ったの?」
 スパイクは顔を上げて、若い娼婦を見つめた。そして、その頬に軽く唇を触れさせ
た。
 驚いたような彼女の腕から身を起こし、スパイクはテーブルに勘定を置いた。そし
て、更に懐から何枚かのラージコインを取り出し、娼婦の大きく開いた胸ぐらに落と
す。
「良い夢をありがとな」
 娼婦は訳が分からないと言う風に首を傾げている。それでも、数秒の会話で、これ
だけの金額を与えられたことを素直に喜んでいた。
 店の戸を開けると、外の空気はどこかしら暖かかった。



 あの日、朝日の中で目覚めた最初の日に、奇跡のような女に会った。
「スパイカズ・スパンカー?」
 彼女は、繰り返して問い掛ける。
 だから、スパイクは頷く。至上の幸福とばかりに、極上の笑みをたたえて。
「あたしはヒュエイーナ。あなたの教育係よ。しばらくの間、よろしくね」
 目の前の女は美しかった。少年とも見まごうほど凛々しい眼差しだが、スパイクの
微笑みにつられて、彼女も柔らかく破顔した。
 心臓を射抜かれた、と言うべきだと思う。
 あの瞬間、彼女の眼差しが世界の全てになった。
 目覚めと同時に覚えた感情を表現するに、その頃のスパイクは余りに幼かった。母
のように、姉のように大事に思った。だが、それだけではないと、いつからか気付く
ようになったのだ。
 世界の中心には、銀糸の光、深緑の双眸。
 それ以外は、何もいらないとさえ思った。



 そして、それは今でも続いている。
 変わりなく続く親愛。
 けれど、それはいつか終わるのだ。必要とされなければ、精霊になど価値はない。
世界に漂うだけならば、元素精霊で十分だ。生まれ、名を与えられたからこそ、必要
とされなければ生きていけない。
 スパイクは風を受けて舞う。漆黒の長い外套が風に舞う。
 ヒュエイーナはきっと、スパイクのことなど弟としか思っていない。血ではなく、
魂の繋がりによる兄弟姉妹たち。
「分かってるけどさぁ……」
 アスリース、クーテットブルグ上空で、風の精霊は頬を膨らませる。
 夜明けが近い。
「大事にしたいよな」
 誰に言うわけでもなく、一人呟いた見た。
 そして、ふと眼下に視線を落とす。城下町から人影が出てくる。朝日に煌めく、銀
色の光彩。見間違いようがない。スパイクは慌てて滑空した。



 生み出せないこの身。
 必要とされない自分。
 ならば、いつか必要とされるように、今は寄り添っていよう。
 奇跡なら、起こるだろう。
 何しろ、数多の精霊の中から、精霊王に選ばれた自分がいるのだから、奇跡など何
度でも起きるだろう。
 何度でも巡り会える。