◆蒼銀の髪 1 ◆



――998年蒼月 

ラジアハンドの王宮では毎年、蒼月の中頃に王都や地方領の貴族を集めて舞踏会を開くのが慣わしとなっていた。
それが何時から始まったことなのかは定かではないが、一説によれば現在ラジアハンド王宮のある場所には昔、 蒼月にしか咲かない美しい花が群生しておりそれを囲みながら夜会を開いたことがはじまりだとか。
それを踏まえて、この会を『花の会』と呼びドレスには花をあしらったものを着てくる貴族も多い。
しかし現在ではその『花』は、美しい衣装で身を着飾った貴婦人達を指した、『 華』の意味で用いられることが主流のようだった。

「なーんて話は、私達にはどうでも良いことですけどねー」
王都レンズに向かう馬車の中で、ルキが唇を尖らせた不満顔でとても独り言とは言えない声量の呟きを零した。
その対面でリュエン領治安維持隊医療班隊長のルークス=ヘイナは本から目を離すことなく、 またルキの呟きに何かを返すことも無くただ本を読み続けている。
「隊長、聞いてます?聞いてるんでしょ?…何か言ってくださいよ」
相手がいることを前提にここまで長々と呟いてきたのだから、何か感想なり文句なりが欲しいところである。
「耳に入れたが、聞いていない」
ルークスは必要最低限のそれだけを言うと、再び口を噤んでページを一枚捲る。
矛盾してるじゃないか、とルキは軽く目の前の上司を睨む。
ルークスは殆ど読み終えているのか、残りのページは少なく後数分もあれば読み終えてしまいそうだった。
しかし、それを見たルキが怪訝そうな顔をした。
「…あれ?隊長、その本昨日リュエン領を出る前に買ったヤツですよね。もうそこまで読んだんですか?」
移動中も見張りや雑務をこなしていて読書する暇はそんなに無かった筈なのだが。
ルキの問いに、ルークスは相変わらず無表情でページを捲り続ける。
「いや、私は本を買うとまず結末を読むようにしているんだ」
「…どうして?」
「読み終える前に死ぬと困るだろう」
当然のように言えば、ルークスは漸くルキの顔を見た。
その時のルキの顔は呆気に取られたような間抜けなものだったが、ルークスはクスリともせずにすぐに視線を元に戻した。
「…結末が分かっているのに読んで楽しいんですか?」
「楽しみは無いが、読む価値はある。だからこの本を買ったんだ」
あらそうですか、とルークスの変人ぶりを久々に目の当たりにしたルキは咥内で呟いた。
無愛想で合理主義、冷静沈着というよりは感情が欠如しているといったほうが正しいと思われるような、読書家。
それが医療班隊長のルークス=ヘイナだった。
氷の奇人と名高い彼だが、医者とプリーストと薬師の技術を併せ持つ治療のスペシャリストである。
ここまで才のある人物だと普通だった方が逆に違和感がある、ともルキは思う。
もっとも維持隊には変人奇人が寄せ集められているため、大抵の者はすぐに慣れてしまうのだが。
ルキも工作隊から医療班に移動してもう二年が過ぎたから、彼との噛合わない会話もお手の物だ。
そんなことを考えながら、医療班用の馬車で二人っきりなため、じーっとルークスをルキは眺めていた。
すると、彼は最後のページを読み終えたところで本を閉じた。そしてルキを見遣ると、
「薬の時間だ。行くぞ」
『華の会』に出席するのはリュエン領主、ルーファン=リュエンは肺を患っていた。
そのため維持隊から医療班のルークスとルキが同行しているのだ。
そして警備担当として工作隊から隊長と副隊長を含む5名が『華の会』までの道中と会の間を警護することになっていた。



夜になって、馬車は平原の真ん中に停車した。今夜はここで夜を明かす。
灯りの消えた領主夫妻の馬車の両側を、灯りのついた維持隊の馬車が固めている。
警護の命を与えられていない医療班も就寝して良い筈だったのだが、本を読むらしいルークスのおかげで今夜、 この馬車の灯りは消えることは無いのだろう。眠る時は灯りを消す派のルキには迷惑だったが、 どうせ文句を言っても聞いてもらえないため、我慢して眠ることにしたのだが。
毛布に包まって目を閉じようとしたところで、馬車の扉がノックされた。
そっと窓から覗いてみれば、月明かりに照らされた銀髪が見える。
「開けるな」
窓の外を見てもいないのに、ルークスはそう言い放った。外に誰がいるのか既に分かっているらしい。
「ヤツが来ると読書の邪魔になる」
しかし、ルキは聞いていない振りをしてそっと扉の鍵を開くと銀髪の主は馬車の扉を開いた。
工作隊隊長ヒオ=アーカースが、どかどかと遠慮の欠片も見せずに侵入し、ルキの隣に腰を掛ける。
「おいおいルークス、また寝ずに読書かよ。ルキが眠れないだろ?今夜はもう寝ろって」
自分が言いたかったことを言ってくれたヒオに、ルキは内心で感謝するものの、ルークスが聞き入れるはずも無い。
「別に騒ぎ立てているわけじゃない。灯りがあっても眠れるだろう」
「眠れませんよー、私、灯り消す派なんですから。というか、隊長、そうやって夜更かしして、 昼間に目を開けて寝るの止めて欲しいんですけど」
本で徹夜をした翌日には、大抵ルークスは目を開けたまま寝ているのだが、 その表情が無表情であるだけにかなり怖く、また仕事をサボろうとすると覚醒してしまうのだから厄介なのだ。
「だろ?あ、そうだ。それならお前工作隊の馬車の方に行けよ。あっちなら一晩中灯りはついてるし。
俺今日は見張りじゃ無いから、馬車交代しようぜ」
そう言ってニヤリと笑うヒオに、ルークスは無表情だったが、そこから不快の念を感じ取ることができた。
しかしそれでも話には乗るらしく本に栞を挟むと腰を上げた。
「…言っておくが、ここは私の馬車だ。変なことはするなよ」
「変なことってどんなこと?俺純情だからわかんねーな」
首を傾げて笑って見せるヒオと、眉根を寄せたままのルークスが狭い室内で睨み合う。
二人とも平均よりは長身であるために4人用の馬車だが窮屈に感じる。
しかしそれよりも、二人の話題の内容に自分が関わっていることに、ルキは僅かに目元を紅く染めて顔を顰めた。
「……あーもう、二人とも出て行ってください」
ルキが怒りを押し潰したような声を出せば、ルークスはヒオを一睨みすることを忘れることなくして、馬車から降りた。
馬車の外を歩く足音が少し遠のいた後、騒がしい声がする。
工作隊の隊員がルークスの突然の訪問に驚いたのだろう。
あの変人と一緒の空間は気まずいだろうなあ、と工作隊の隊員に同情をした。
「工作隊、可愛そうですねぇ。隊長が一緒の馬車だと眠れないんじゃないですかね」
先程思ったことを口に出してみると、ヒオが軽くルキの頭を叩いた。
「丁寧語禁止って言っただろ。肩が凝る」
「…そう言われても。…………癖なのよ、入隊時からベンガー隊長に目ぇつけられてたから」
口調を変える努力をして言った。ベンガー隊長とは、元・工作隊隊長であり、噂によれば元は王宮の騎士だったとか。
ルキは入隊直後は工作隊に配属されたためと育ちが育ちなため、礼儀作法に異常に厳しいベンガーに一年間散々扱かれて、 今の口調になってしまったのだった。殆ど洗脳に近い。ちなみにベンガーは病の所為で脱隊し、 その時工作隊副隊長だったヒオが後を継いで隊長となった。
やっぱり違和感があるなぁ、と自分でそう思っていると、ヒオが肩に腕を回してきて抱き寄せられた。
「あーぁ。面倒臭ーなぁ、貴族の舞踏会なんて。今年はレイドルフ家が取り仕切ってんだろ?
絶対どっかの料理には毒盛られてるぜ」
「…面倒臭いのは分かるけど、だったら道連れにしないでよ…アンタが指名しなかったらリュナが行く予定だったのに」
ベシ、と頬を寄せているヒオの胸を叩くと、彼の心臓の音の他に音がもう一つ混じる。
ルキの言葉にヒオは芝居がかった悲しみの表情をしてみせた。
「ひでーな、お前。俺は同行決定してたから、お前が俺に会えないと寂しがると思って手を回してやったのに」
そんなに嫌なら今すぐ帰るか、とぐい、と捉えられた顎を引かれて顔を上向きにされると、 上方にあるヒオの蒼い瞳と目が合った。窓の外の夜空に浮かんでいる蒼月の色に似た、 穏やかな蒼の瞳と少し青みを帯びた銀の髪。確か、『華の会』の昔話にあった花も、 こんな銀と蒼の色を持った美しい花だったような。
「嘘です。……半月近く会えなくなるもんね…寂しいよ、ヒオが居ないと。…私も工作隊に戻りたいなぁ…」
ヒオと交際をするようになった後も暫くはルキは工作隊に居たのだが、人員整理ということで医療班に回されてしまった。
回された理由は分かっている。自分の能力が低いためだ。
確かに手先の器用さは隊一だったが、工作隊に求められる高い戦闘能力がルキには無かった。
「良いよ、お前はそこで。工作隊なんて結局は特攻隊みたいなもんだし、危険だ」
それを聞いて、でも、とルキが口を開こうとしたところで、ヒオの顔が輪郭がぼやけるまで近づいたかと思うと唇が重なり、 口を塞がれた。しばしの静寂の後、ルキがヒオの銀髪を撫で、顔を離すよう促す。
「…明日の食事当番私だから、もう寝るよ」
「あぁ、おやすみ」
ヒオが肩を抱き直しじわりと彼の体温が伝わってきた。ルキはヒオに身体を預けると目を閉じて、その夜は眠りについた。




それから暫く日が経って、ラジアハンド王宮で『華の会』は開かれた。
花のように鮮やかなドレスを着た貴族達が、広いホールで豪勢な料理を前に楽しそうに談笑している。
そのホールの隅っこで、ルキは工作隊のヒューケン=ハンスと並んで貴族達の宴を、心底面白く無さそうに眺めていた。
「……やっぱり、私達って浮いてますよね…」
ボソリと呟くと、ヒューケンは力無く頷いた。それもそのはず、目の前の色取り取りの『華』 達の中で、飾りっ気の無い真っ黒い制服を着込んだルキ達治安維持隊員は、明らかに浮いていた。
『華の会』に同行する任務は隊長からの推薦や立候補で決められるのだが、進んで手を挙げるものは皆無である。
その理由には、やはり『目の前の高級料理を食べることも出来ずに貴族達が楽しそうにしているのを見ることが嫌だ』
『制服が田舎臭くて貴族の嘲笑の対象になる』が主なものである。
そのため、同行に選ばれた隊員には、運よく免れた者や他の部隊の者から、哀れみの視線を向けられるのである。
殆ど生贄に近い、とルキは思っていた。
「というかさ……私達って必要ないわよね。あんな立派な騎士様がいるってのに、 必要だとしても会場にいればいいのは医療班くらいでしょ…」
死んだ魚の目のような虚ろな視線のまま、ヒューケンがブツブツと呟いた。
確かに王宮内や外には王宮の警護隊の面々が、それこそルキ達が必要ないくらいに警備をしているというのに。 医療班は、いつ急に領主の体調が悪くなっても対応できるように張り付いておくべきであるけれど。
役目があるだけまだマシかな、とルキはヒューケンを横目に見ながら溜息を吐いた。




リフィディアーナ=ゴルデは、人にぶつからぬ様細心の注意を払いながらホールを歩き回っていた。
ある人物を探しているのだが、裾の長い衣装を着ている貴婦人も多いため、足元を確認しながら歩かなければならない。
これでは効率が悪いのだが仕方が無かった。ゆっくりと貴族の間を通り抜けながら辺りに目を配っていると、 後ろからぽん、と肩を叩かれた。またどこぞの貴族だろうか、と愛想の良い笑顔を用意しながら振り返れば、 そこには兄であるダリオス=ゴルデの姿があった。

「やぁリフィ。久し振りだね」
そう毎年の決まり文句のような言葉に添えられるどこか覇気のない笑顔は相変わらずだった。
きちんとした礼服に着替えているものの、似つかわしくないのは 幼い頃から彼の旅人服姿ばかりを見ていたからだろうか。
「正確には、去年の今日振りよ。毎年この日にだけ顔を見せるっていうのは、どういうつもり?」
ゴルデ家の次兄、ダリオスは昔から旅好きで常に家には居なかった。
そのくせ兄弟の誕生日や祝い事、大事な祭りのある時にはふらりと現れた不思議な男で、 現在ではこの蒼月の祭りには決まって姿を現し気の抜けた笑顔を見せるのだ。
「なんだい。まさか40過ぎてまで誕生日を祝って欲しいのかい?それならそれで、今度からは手土産の一つでも持ってくるよ」
「結構よ。それより、お父様が顔を見せろって騒いでたわ」
そう言うと、ダリオスは、はぁ、と溜息を吐いて肩を竦めた。
「もうそろそろ50に近い男の顔を見て何が楽しいんだろうね。孫ならハインズ兄さんのところで事足りてるだろうに」
「兄さんの顔が見たいんじゃなくて、説教がしたいんじゃないの?お父様にはここ数年顔見せる前に逃げてるんでしょ」
そう言って意地悪な笑みを浮かべるリフィディアーナに、ダリオスは苦笑を浮かべるしかなかった。
しかしコホンと一つ咳払いをして辺りを見回すと、視線を彼女に戻した。
「…そういえば、ハインズ兄さんは?久し振りに顔を見たかったんだけどなぁ」
するとリフィディアーナは少し思案するように視線を宙に浮かべた後、肩を竦めた。
「多分、フランク大公のところじゃないかしら」
そう言うとダリオスは薄く笑みを浮かべて、そうか、とだけ呟いた。




ルキは相変わらずヒューケンとともに壁際でぼーっと時間を過ごしていた。
それでも舞踏会は進行し、ホールの片隅では演奏家達が音楽を奏で始め、 その周囲では数組のカップルが流れる音楽に誘われるように、小さくステップを刻んでいる。
その様子を羨ましそうに見ていたルキだったが、視界の端で誰かがこちらに近づいてくるのが見えた。
「あなた達、リュエン領治安維持隊の方よね?」
青みがかった銀髪の、若いとは言えないが美しい女性だった。外見からして王宮の人間だろう、 そんな人に声を掛けられるなんて思いもしなかったため、一瞬反応が遅れてしまった。
「……あ、ハイ。そうですけど…」
こんな舞踏会でこんな礼服でもない真っ黒い服を着ているのは、自分達だけだ、と一人内心でげんなりとする。
ルキが頷いて答えると、不意に女性はルキの方をまじまじと見て、
「…もしかして貴女、ルキ=ハーツさん?」
そう、名前を当てられて驚いた。その反応を見て答える前に彼女は察したらしく、にっこりと笑ってみせた。
「あ、知り合いから貴女のことは聞いたことがあって。……ヒオ=アーカース隊長は今何処にいるか知らない?」
表情から察したのか、彼女は先にそう言い置いてから尋ねてきた。
自分を知るなり、彼女は態度を少しだけ和らげたように感じた。
知り合いが誰かを問いたかったけれど、それよりも彼女の口からヒオの名前が出たことの方に意識が向いていた。
ヒオとどういう関係なのか。
「隊長なら、現在は奥様の衣装替えに付き添って客室の方へ」
しかし、ルキが喉元まで出しかけていた問いより先に女性に発言したのはヒューケンだった。
慌ててヒューケンを見ると少し緊張した面持ちで女性を見ていた。
それを聞いた女性はルキ達に軽く礼を言うと、ホールの出口方面へ向かって人の中に紛れてしまった。
「ヒューケン………」
別に彼女に咎めるところはないのだが、ムッとした顔付きで隣の顔を見る。
「あの人、ソーサレス独立大隊長の、リフィディアーナ=ゴルデよ」
「え……あの人が?」
そう言われて思い返せば、以前リュエン領のピクシス家とゴルデ家の婚儀が執り行われた際に、彼女の姿を見たような。
しかしそれにしても、ヒオに何の用があるというのか。
「…その独立大隊長様が、何でヒオなんか…」
ブツブツと呟きつつ悶々と悩んでいるとヒューケンが薄く笑ってルキを見た。
「…何、嫉妬?」
「………。気になるじゃないですか、普通」
「幾らなんでも年が離れ過ぎてるわよ。それに、隊長が浮気なんてするとは思わないし」
「……そうですか?」
「アンタが医療班に回された時には一人で大騒ぎしてたし、任務で出張るといっつも『帰る帰る』って煩いし。 ケンカした日には一日中部屋で死んでたわよ」
そう呆れを含んだ声でつらつらと挙げてみせるヒューケンに、聞いていたルキは嬉しいような恥ずかしいような気分で、 あはは、と軽く笑うと話題を変えるようにホールの隅を指差して、
「あ!ヒューケン見てください、あそこ!あれってルンド=カヌート最高位騎士ですよね? 確かヒューケンと同い年でしたよ〜やっぱり貴族は住む世界が違いますねぇ」
他とは違う彼の出で立ちは、ホールの中でもよく目立った。
ルキはそう笑いながら話を振るが、ヒューケンはちらりとルンドを見ただけで、殆ど無視されたようなものだった。



舞踏会は遅くまで行われるため、ルークスと交代しながら領主の警護をすることになっていた。
そして一度交代をして会場に戻ってみると、ルークスに呼ばれた。
どうやら病気だというのに調子に乗ってルーファンが酒を飲んでしまったらしい。薬を常飲しているというのに。
他の家族の警護は工作隊に任せておいて、ルキはルークスとともにルーファンの寝かされている王宮の一室へ足早に向かった。
「……お酒は飲まないようにと再三申し上げたはずでしたよね?」
プリースト兼医者兼薬師でもあるルークスは、無表情ながら呆れを含んだ声で目の前で笑っているルーファンに言った。
「そうは言ってもだな。麗しい貴婦人に勧められれば断るわけにいかんじゃろう」
ホッホッホと嬉しそうに笑うルーファンは、酒気はルークスの手で無効化されていたが、 この調子では目を離すとまた飲酒をすることは間違いない。 色ボケ爺が、という二人の視線を気にすることなく、ルーファンはベッドから起き上がろうとした。
「ダメです。もう少しこのままお休みになっていてください」
ルキが制すると、ルーファンはムッと白髪混じりの眉を寄せた。
「何を言う。わしはもう大丈夫じゃよ、酒も飲まんと約束しよう」
そう舞踏会が始まる前に言って、結局飲んだくせに、とルークスの後ろでルキは胡散臭そうにルーファンを見遣っていた。 するとその時、不意に廊下が慌ただしくなって、バタバタと王宮では聞かれないと思っていた廊下を走る足音が、 いくつも部屋の前を通り過ぎる。ルキはルークスと目を合せると、扉から廊下に出てみた。 扉を半開きにしたまま首だけ廊下に出すと、奥から一人兵士が丁度良く走ってきた。
「あのー、何かあったんですか?」
「いえ、少しだけ」
素っ気無くそれだけ言うと緩めていた歩調を再び速めて走り去る。
客に近い扱いを受けるルキが聞いたところで答えてくれるとは思っていなかったが、 兵士の表情からして結構な大事だったように察する。ルキが部屋に首を納めて扉を閉めると、ルークスがこちらを見ていた。
「何かあったみたいですね。でも誰もここに駆け込んでこない辺り、リュエン家に関係したことでは無さそうです」
「……そういうことですから。舞踏会も早めに切り上げられるでしょうし、今夜はここでお休みになってください」
そう、ルークスが再び起き上がろうとしていたルーファンを諌めるように言った時だった。
静かになっていた廊下に再度慌ただしい足音が響いたかと思うと、バァンと勢い良く扉が開かれて、 工作隊の隊員が飛び込んできた。今しがた自分達には関係が無いと言ったばかりなのに、と ルキは肩を上下させている隊員を驚いて見遣る。
「おい、ハーツ!隊長は!?隊長は何処に行った!?」
歩み寄るなりルキの肩を掴んで噛み付かんばかりの剣幕で言う。聞こえた名前もあるが、 それに気圧されたように驚いて目を見開き、慌てて記憶を辿る。
「…さっきの休憩からは見てませんけど…」
休憩は会場の外で取り、休憩が終わってホールに戻った直後にこの部屋に移動したため、 ヒオの姿を見つけることはできなかった。嫌な予感がじわじわと背中から這い上がってくる。 小さく舌打ちをすると踵を返して扉へ向かおうとする隊員の腕を掴んで引き止めた。
「何があったんですか?」
ヒオが何かしたのか、されたのか。後者であるならまだ良い。ルキは祈るような気持ちで返答を待っていた。
「隊長が、ハインズ=ゴルデと兵数名を殺して逃げたそうだ」