世界の果てに咲く花の名前



 あなたがいれば、それだけでいい。
 他に何もいらない。
 あなたの誓いさえあれば、世界の中心は薔薇色に染まる。
 名前を呼ぶから。
 どんな世界の果てにいても、あなたの名前を、変わらず呼ぶから。



「ご主人様!」
 そう呼ばれた彼は、少し照れたように笑った。
「そんな風に呼ぶことないよ、シェーラ」
 彼が笑う。
 だから、シェーラも笑う。
 笑うことが出来るから、今なら。
 シェーラはその笑顔を刻み込もうと、彼を見つめる。もう誰もなくしたくなかっ
た。誰かを失いたくなかった。
 名前すらなく、記憶の欠片も持たない彼でも、シェーラには唯一だった。
 何もなくていい。あなたがいればいい。生きていてくれればいい。名前なんてなく
ても、過去も何もなくても、愛することしか知らなくても。
「シェーラ、僕は……」
 彼は、戸惑いがちにシェーラを見つめ返す。
 シェーラはそれを見つめ返し、微笑みを浮かべる。
「あたしが守ってあげます、ご主人様。大丈夫ですよォ。どんなヤツが来たって、
ぜぇったいにシェーラの方が強いですもん! だから早く、名前を探しに行きましょ う」
「……そうだね」
 名前さえあれば、この人をつかまえておける。天涯の契約を結ぶために必要な名前
さえあれば、彼を拘束できる。
 いっそ心まで捕らえる出来るものならば、良かったけれど。
 綺麗な心のあなた。
 何も知らないあなた。
「シェーラはいいんです。もう、ご主人様と一緒にいる以外、何もないんです。無理
しているわけじゃないから……」
 笑顔の下で卑怯な獣が、汚れた声で嗤っている。シェーラにはそれが聞こえる。
 でも、もう何一つ離さない。
「ご主人様、もうすぐ雨が降りますよ。宿に戻りましょっ」
「また、お守り?」
 彼の視線が、シェーラの胸元で留まる。
 黄金色の長い髪が、柔らかなウェーブを描いて、胸元のペンダントがいっそう艶や
かに栄えていた。水を閉じこめたような、深い深い藍色のペンダントトップ。それが
今、淡い光をたたえて揺れている。
「そうです。ヒヤデスが教えてくれるんですよ。雨が降るって」
 この胸に息づく水は、星から降った雨の雫。
 ヒヤデスという星の、最期の吐息。
「宿に戻ろうか」
 彼の言葉に、シェーラは、ゆっくりと頷き返す。
 胸に揺れるヒヤデスの涙は、シェーラの記憶を留めるために光る。雨が降るたび
に、彼女を思い出すように。
 決して忘れないように。
 そして、シェーラは今、新しい光を抱こうとしている。目の前を歩く後ろ姿に、手
を伸ばす。届く場所にいる確信がある。
 それだけが、心を温めてくれる。
「どうかした? ねえ、シェーラザード」
 彼が振り返り、手を差し出す。その手を掴み、歩くことが出来る。
 これが幸福といわずに、何と表現すればいいのだろう。
 もう、言葉にもならないほど。



 砂漠に咲くという可憐な花に、水をあげましょう。
 甘い水がいいかしら?
 それとも、涙のように塩辛い水がいいかしら?
 答えは誰も知らないままで、時は流れ続けるもの。生まれてたった50年。それで
も、もう50年。けれどまだ、瞬きを繰り返しただけの時間。けれど、その間にも人
は流れ、消えていく。
 この手に掴むものは、砂ばかり。
 砂漠の花は、砂に還る。
 ただ、微笑みさえ浮かべて、いつか砂漠に消えるだけ。



<未来へと続く>