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――――――――――産まれて来なければ真実(ほんとう)はよかったのに。 クラリアットの隅の、国境に近い場所。 人里離れたその地には『悪魔が住む』と言われ近づく者はいなかった。 その地を、強くかまいたちのような悪魔の風が吹きまるで茨のようにその地に入ることを拒むから。 人はその地を『凩(こがらし)』と呼んだ。 その地の奥に、ひっそりと、小さな村があった。 ある一つの民家の窓辺で、明るい空を見上げながら幸せそうに子守歌を口ずさむ女性がいた。 「…こら、窓を開けていたら風邪を引くぞ。百合(ゆり)」 「あら」 仕事から帰ってきてすぐに妻の元にやって来た夫に、彼女は幸福そうに微笑んで大きくなった自分のお腹を撫でる。 「だってあなた。空がとても綺麗。 この子が産まれて来たら、早く見せてあげたいわ」 「…そうだな。百合。 呉葉(くれば)もきっと喜ぶ」 「…そうよね。でもあの子はちょっとやんちゃ過ぎるから、この子が女の子だったら叩いたりしないようにちゃんと言わなきゃ」 穏やかに言う百合の言葉を聞きつけてか、窓の外からそんなことしないという少年の声が降ってきた。 「あら呉葉。今日はなんのお遊び?」 「遊びじゃないよ母さん!冒険なんだ冒険! それに俺、ちゃんといいお兄ちゃんになる自信あるもん」 黒髪に明るい色の瞳の、まだ幼いが活発そうな少年だ。 もうすぐ6歳になる。家族三人で暮らしてきた。 だから新しい家族の誕生をみんな喜んで心待ちにしていた。 それはこの村の人々も同じだ。周囲から隔離され、閉ざされた全てが自給自足の村。 故に村人はみんな家族同然で、この家の…五十嵐(いがらし)家の妻の百合が身ごもったと聞いた時にはみんな喜んだ。 自分の子供が出来たかのように喜んだ。百合も夫の桔梗(ききょう)も一人息子の呉葉もずっと待ち望んでいた。 けれどその子供の誕生は、悪夢のような風の吹く雪の夜に起こった。 突然百合がお腹を押さえて苦しみだしたのだ。 陣痛が始まったのだと思った夫の桔梗はすぐに村医者を呼びに行ったが、駆けつけた村医者も桔梗も…呉葉もその苦しみ方が尋常でない事に気が付いた。 百合は口から泡を吹き、両目を見開いてぴくぴくと痙攣しながら家の天井を見ていた。 いや既に失神していてなにもうつってはいなかった。 危険だと異常だと判断した医者がなんとかしようとした時、それは始まった。 ぴしりとまるで鳥の雛が卵の殻を割るように、百合の腹が裂けて血が噴き出した。 なにが起こったのかわからずに医者も桔梗も呉葉もその光景を見つめている。 最初は小さな亀裂。それがめりめりと音を立てて百合の腹を裂き、赤い血が天井や壁に飛び母を心配して側にいた呉葉を頭から赤く染めていく。 人のものとは思えない絶叫が響いた。 それは死に際の百合の悲鳴だった。 勢いよく裂けた腹の中から、もう息のない百合の腹の肉を食い破って、真っ赤な赤子が這い出てきた。 へその緒を自ら千切って産声も上げずに死んだ…そう自らが殺した母親の胸の上でその赤子が血まみれの身体で笑った。 それはまるで言い伝えの悪魔のようだった。 村人もその惨状を目の当たりにしたが同じように血にまみれながら呆然とした顔でその自分の妹を抱きかかえた呉葉と百合の亡骸の凄惨さにその場にしゃがみ込んだまま近寄ることも出来ずにいた桔梗の姿になにも言えず、また出来なかった。 村人は噂する。 その赤子はこの『悪魔の住む地』が生み出した産物だと。 言い伝えのようなわらべ唄は、『凩の悪魔は海の響きを連れてくる』と歌っていた。 そして誰が言い出したかも名付けたかもわからない程自然に、その赤子は『海響(あおと)』と呼ばれるようになる。 それから、三年。 物心も付き始めたその赤子は忌み子と扱われ、村人は隠れるように幼女の名を呼んでは避けて通るように。 父も兄もなにも与えず(言葉も温もりも)、忌み子と扱われた幼女はただ誰とも言葉を交わすことなく育っていった。 いつも汚れた男のような服を着て(それしか与えられず)、誰も切りそろえないざんばらの伸びた黒い髪に海のような紺碧の色の瞳をした少女はやがて自分の名が『海響』と言うのだと理解する。 どんなに避けていても耳に入ってくる村人の話し声から言葉を学び、海響は6歳になって疑問を持った。 なんでみんな自分を忌み子と言うのだろう。 なんで家族は誰も自分と話さないのだろう。 どうして母親は死んだのだろう。 そして、彼女が産まれた日と同じ悪夢のような風と雪の日の夜。 当たり前だと思っていた言葉のない食卓で、初めて海響は口を開いた。 「……なんではなしてくれないの?」 それは少女らしい綺麗な声だった。けれど桔梗も呉葉も時を止められたように固まった。 不自然な動きで自分を見る父親と兄の瞳に紛れもなく存在した恐怖の色。 「……なんで忌み子なの?」 恐怖と共に存在したのはまるで得体の知れないなにかを見るような瞳。 それでも海響は言葉を止めなかった。それは無意識に、与えられた事もなかった家族からの言葉や愛情に飢えていたからかも知れない。 どうして他の子供はみんなおとうさんやおかあさんに抱き締めてもらったりしているのに自分は、自分だけ。 「………なんでおかあさん…いないの…?」 皿の割れる音と同時に大きな音がした。 テーブルが倒れていた。何も知らず何も与えられず育った娘の首を絞めて、桔梗は泣いていた。 両手をその自分の首を絞める大きな手にそえる事もなくたらしたままで、涙を零す父親の瞳が憎しみに満ちている事に呆然とする。 「……おとうさ」 「呼ぶな汚らわしい!」 初めて自分に掛けられた父親の言葉がそれだった。 「お前が俺の娘であるはずがない百合の娘であるはずがない! お前は百合の…母親の腹を食い破って産まれてきたんだ! 俺達を見て笑っていたんだ!」 「…………お前が、母さんを殺したんだ」 「………お……にいちゃん…?」 「だから『海響』なんだよ!『悪魔が連れてくる海の響き』って意味だ! お前なんか妹じゃない!兄とかって呼ぶな喋るなこの…」 「親殺し!」 …与えられた物は忌み子の称号と悪魔の名と憎しみの言葉。 「………たすけて」 海響がそう呟いた瞬間、彼女を宙につり上げ首を絞めていた父親の身体が裂けた。 血が噴き出す。あの夜のように。地面に落とされて、再び血にまみれながら海響は不思議そうな顔をしていた。 まだ息のある父親にすがる呉葉の姿を遠く見つめていた。 その伸ばされたままの長い黒髪を背後から誰かが掴んだ。痛みに顔を歪める海響の視界にうつったのは、いつの間にか家の中に入ってきていた、斧や鎌を持った村人達の姿。 殺せと。誰のものかわからない声がする。いくつもいくつも。 沢山、聞こえる。肩に痛みを感じた。 村人の一人の鎌が海響の肩に突き刺さっていた。 呆然とした顔で、血にまみれた姿で海響はもう一度呟いた。 「たすけて」 一瞬だった。 村人全員の身体がばらばらに千切れ飛んで、あっという間に血の泉が出来た。 噴水のように溢れ出す赤い血。 唯一無事だったのは兄と辛うじて息のある父親だけ。 海響は呆然とした頭で理解した。欲しかった愛情も暖かな言葉もそんなものは存在しないのだと忘れた頭で。 ここに、いてはいけない。 「海響!」 最後に自分を呼んだのは兄の呉葉だった。 家を飛び出し、血にまみれたまま村の中を走る。 五十嵐の家に来てはいなかったおかげでまだ無事に生きている村人達が血に濡れた海響の姿を見て逃げていく。 何も知らなかったけれど、村から出る方法もあの惨劇の理由も、だけどわかっていたのは自分があの村人や母親を殺したという事。父親を傷つけた事。悪魔の名前だという事。 三日三晩なにも食べず走って一番近くの町の外れに出て来れた時、風が吹いていた。 岩だらけの道から現れた長い髪の血にまみれた少女の姿を偶然見つけた町の住民が叫んだ言葉は確か。 確かそう、『凩の悪魔』だったはずなんだけど、俺の耳には『悪魔』も『海響』も同じに聞こえていた。 あの惨劇の理由なんてわからない。だが産まれた時はともかく他の事は自分がある言葉を呟いたら起こった。 試したくなって、海響はもう二度呟いてみた。 タスケテ って。 町の住民は五人くらいいたけれどみんなばらばらになって死んだ。 その姿と血を見て、海響は産まれた時のように笑った。 ああわかった。 自分は悪魔で、『たすけて』って言うとみんな死ぬんだ。 殺されるんだ。 おとうさん…違うよねそう呼んだらいけないんだ。あの人は無事かな。 兄は…きっと兄もそう呼んだらいけないんだと思うけど大丈夫かな。 俺は、あの人達から何が欲しかったんだろう。 ああ、そうだ。 「……………………たったいちど」 血まみれの姿で長い髪は風に流れていくけれど、海響は泣いていた。 初めて泣いた。止まらなかった。どうやっても止まらなかった。 たったいちど、だきしめてほしかった。 それから海響は髪を切り、女という、五十嵐の家の娘だという証を捨てるために男を演じて、『たすけて』という言葉も封じた。 自分に『五十嵐』と名乗る資格はなかった。 だから、悪魔らしく名乗るようになった。 『凩の、海の響きを連れてくる悪魔』―――――――――――――『凩 海響』と。 親殺しの自分に、人殺し以上の何が出来ようか。 「……海響さぁ、どっからあんな魔法学んで来たんだ?」 年も10を越え、気が付けば殺し屋の仲間になっていた頃に同業の男に聞かれた。 笑って答えた。 「悪魔から」 男は不思議そうな顔をした。 本当のことなんだ。使おうと思ったら使えた。魔法。 だから、でも、血まみれになりたくなくて、だから爆弾に頼った。 爆弾魔と呼ばれるほど。 いつしか二つ名が『爆炎の悪魔』となる程に。 それは、いつかの戦場だった。 クラリアットの自治領の中で起こった小さな内乱。 味方の、雇われた殺し屋や傭兵達があとどれくらい生きているのかわからないほどに崩れた砦と荒野。 遠く、空へと登る炎。 腹に鈍い痛みを感じて、海響はぼんやりともはや跡形もない砦の石の上にしゃがみ込んで、状況を理解しようとした。 ああ、そうだ。 失敗したんだ。 いや、一応成功はした。向こうの砦に爆弾を埋め込んで逃げてきた。 あの炎は向こうの敵陣の砦が燃えている証だ。 失敗したのは逃げる時だった。 砦から飛び出す瞬間に敵に剣で腹をえぐられた。 そのままなんとかここまで逃げては来たけれど。 こんな風に痛かったのかな。 俺に殺された母は、もっと痛かったのかな。 血の止まらない腹部を押さえて、ぼんやりとただぼんやりと空を見上げていた。 流れていく赤い血も、自分のものならいい。 「……よかった」 そう、泣きたい思いで呟いた。 「何がだ」 足音が近づいてきていた事に気が付かなかったワケではないけれど放置していた。どうせ死ぬのだ。恐れる事はない。 それでも自分を殺す相手の顔くらいは見ておこうと、海響は視線を上げた。 立っていたのは金色の髪の、年上の男だった。剣を持っている。 「…この戦争とも呼べない戦いはもう終わりだ。どちらの勝ちでもない。双方の自滅だ」 「………そっち潰したの、俺かなぁ?」 「そうだ。…お前が『爆炎の悪魔』か」 足音が更に近づく。逃げるつもりも動くつもりもなかった。 「そう呼ばれてる……お似合いじゃない?」 「『悪魔』と呼ばれるのがか?」 「うん」 「そう、呼ばれたいのか?」 おかしな人だなぁと思った。笑いながら思った。なんで早く自分を殺さないんだろう。 「……そういう、名前だもん」 「お前の名くらいは知っている。 『凩 海響』」 「だから、悪魔の名前でしょ?あれ、わかんないかなぁ」 腹を押さえている自分の指に触れる血液の暖かさが心地よかった。 ずっと、欲しかったもの。 「『凩の里の海の響きを連れた悪魔』……そういう意味なんだけど?」 「あの里の者か…?」 「……あの里の悪魔だって。わからない人だな」 相変わらず笑って言う海響に、男は剣を構えた姿勢でしゃがみ込む。剣が首筋に当てられても笑っている海響に男はどうしてか眼前の『悪魔』に不可思議な感情を覚えた。 「…………助けを請わないのか?」 「…ああ、駄目なんだぁ。それ」 「………?」 「俺、それ言っちゃいけないんだ。駄目なんだ。だからいいんだ。 貴方がそれで俺を殺してもこのまま死んでも…」 何も言えない男に、海響はまた笑う。血を吐いても笑い続けた。 「……少し今、幸せだから」 どうしてと、男は問いたがっているように見えた。 ぼやけた視界で、その男の背後から何人もの人間が武器を持って駆けてくるのが見えた。 「いたぞ!『爆炎の悪魔』だ!」 「殺せ!」 「……!」 昔、よく聞いたなと思った。けれど次の瞬間金の髪の男が言った言葉に駆けてきていた人間達だけでなく海響も驚いた。 「待て!」 彼らの足が止まる。戸惑いの色を顔に浮かべて。 「な、なんで…おい閂…?」 「そいつは悪魔なんだぞ!?」 悪魔。だから言ったのに、悪魔だって。何を言ってるんだろう。 「……閂…って言うんだ。名前。 …いい、名前じゃない」 もう死に損ないの戯言だったが、その言葉に金の髪の男――――閂はほんの少し驚いたように海響を振り返る。 「……………教えてあげよっか?どうして言っちゃいけないのか」 きっと意味なんてわかっていない閂から視線を逸らして、海響はちょっとだけ願った。 この男だけは死にませんように。 まだ、話す言葉が残っているから。 そうして、封じていたコトバを呟く。 「…『たすけて』」 これも一瞬の事だった。 呟いた瞬間に閂以外の人間がばらばらになって血の海を作って死んだ。 それを見て笑った。笑ったけれど喉に何かつかえて上手く笑えなかった。 「………ははっ…………ね?だから駄目だって言ったんだよ?」 海響に向き直った閂はもう手に剣を持ってはいなかった。炎を背にしていたから彼の顔はわからなかった。 だから問いかけられた言葉にまた驚かされた。 「…………ならどうして泣いているんだ」 それはとても、優しい声だった。 今まで一度も、誰も使ってくれたことのなかった声の音だった。 「……………どうして、『よかった』なんだ?『幸せ』なんだ?」 今度ははっきりと、自覚して泣いた。 笑いながら、泣く事が出来なかった。 「……血が、赤かったから……俺、ちゃんと人間なんだなって…。 わかって………うれしかった………」 なにを、自分は考えているんだろう。 でもこの男なら、自分の願いを叶えてくれるかも知れなかった。 最初で最期のお願いを。 「…お前は」 「………ねえ……抱き締めてくれないかな?」 「…………」 「最初で最期の願い事だから………誰もくれなかったから。 俺が悪魔だから……。 ………たったいちどでいいから……温もりが欲しいんだ」 精一杯笑ったけれど、涙が邪魔になった。 止まらない涙と血。遠くなっていく意識。 最期まで叶わなかったなと思った海響の身体に、その時欲しかったものが触れた。 ずっと、ずっと欲しくて仕方がなかったものが、自分を包み込んでいる。 敵なのに悪魔なのに、彼が馬鹿みたいに自分を抱き締めてくれている。 「……………………………………………あたたかい」 瞳を閉じて、笑った。心からの笑みだった。 「………………ありがとう………………………やっと」 欲しかったものが手に入った。 その呟きは、小さなものだったけれど確かに閂の耳にも聞こえていた。 徐々に冷えていくその身体を抱き締めて、閂は海響に覚えた不可思議な感情の正体を知った。 崩れた砦の炎がつきた頃、そこに閂の姿も海響の姿もなかった。 眩しいな。 そう思った。 瞳をこじ開けて、最初に見たのは白い天井。 「……地獄って案外豪華」 ぽつりと呟いた海響の言葉に、横から聞き慣れない少女の声が割り込んだ。 「お生憎様。地獄じゃないわよ」 「……?」 自分は死んだのだから、今の声は黄泉路の案内人だろうかと呆けた頭で考えながら、そちらを向こうとして腹に走った痛みに海響は顔を歪めた。 「…………………?」 なんで。 「絶対安静よ。腹部の傷、結構酷かったのよ? 閂が拾ってこなかったら本当に地獄行きだったかもね」 『閂』 「……え?なに?俺、生きてるの?」 「生きてなきゃ刺された傷が痛むわけないでしょう」 視線の先にいたのは豪華な部屋と、豪華な部屋の中央にあるテーブルの上に本を広げて座っている黒髪の幼い少女だった。 銀色の瞳が呆れたように自分を見ている。 髪に椿の花を挿した美しい少女だった。 「とりあえず生きていてくれて何よりよ。 閂もいい拾いものしてきた事」 「………なんで?」 「…その主語はなに?ただ『なんで』と言われてもわからないわよ」 「……なんで、俺が生きてるのがいいことなの?」 「生きてて欲しいから」 そのままの顔で少女は言い、それから先程までの大人びた印象を捨て、少女らしい微笑みを浮かべて。 「生きていて欲しいと願う人がいるからよ」 嘘だ。 口には出さなかった。だが少女はわかったように言葉を続ける。 「嘘だって思ったわね?でも本当よ?綺麗な名前の悪魔さん?」 椅子から立ち上がって、10歳にも満たない少女が海響が横たえられたベッドに近づいてくる。 「閂が貴方に死んで欲しくないの。それを聞いていたら私も貴方に生きていて欲しくなかったわ」 「……う」 「嘘だ嘘だ言うのは止めなさい往生際が悪いわね女同士腹割って話しましょうよ」 「………………はい」 その少女とは思えない迫力に押されて頷いてしまった海響に、少女は得意げに笑う。 「こんな7歳のガキに迫力で負けるなんてよく今まで男で通して来れたわね? 女なのに。貴方年は?」 「……16歳」 「じゃあ閂から見ればガキね。…さて、なんで『悪魔』なのよ? 普通の殺し屋やってた女の子じゃない」 「…普通って…あの殺し屋は普通みんな端から見ればそんなもんだと思うけど……? ……?『やってた』?」 「過去形。貴方あの場で死ぬつもりだったんでしょう。 いい機会だわ。殺し屋止めなさい」 「……………でも、俺……他に…わからない」 こんな小さな女の子に何を話しているんだろう。 「……なにが?」 「………生きる…方法……だって」 その白い小さな手が、海響の手を握った。 暖かい。 「聞いていてあげる。ゆっくり、話して」 どうして、今頃くれるんだろう。 欲しかった、ものを。 「……俺は……母親…殺して産まれてきたって………父も兄も…俺…のこと憎んでて。 みんな…俺の事『悪魔』だって……誰も…言葉かけてくれなかった」 「…………貴方の名前は、誰が?」 「…知らない。気が付いたら…そう。 悪魔の名前だって…」 気が付く。今までこんな風に自分の話を聞いてくれる人はいなかった。 「……でも」 「……?」 「でも、綺麗な名前ね」 「……悪魔の名前だよ?」 「…貴方は、人間じゃない。綺麗な、海の響きの名前。 知らないの?海は生命の母なのよ? その証の名前じゃない」 悪魔の、名前だった。 ずっとそう思っていた。 「自信持ちなさい。 いくらだってやり直しも出来る。 望んだ生き方で、いいのよ?…海響」 温かい手。優しい声。嘘じゃない笑顔。 初めて、憎しみじゃない音で名前を呼ばれた。 たったそれだけの事に、涙が溢れる。 「…ねえ、ここにいて。 私も母がいないの。兄妹もいないの。 貴方が誰殺しでもいいわ。 ……私のお姉さんになってくれる?」 それは、とても暖かい日溜まりだった。 ずっと、欲しかったものだった。 これ以上の喜びを、知らなかった。 後にこのクラリアットの第一王女だと知るその少女に、自分は捧げた。 椿姫に、永久の忠誠を。 「…お前が、素直にシャドー・ガードに入隊するとは思っていなかった」 クラリアット王宮の木漏れ日の下で閂が言った。 「…確信犯の癖に。素だったら普通殺し屋だった奴を王女と二人きりにさせないよね。 しかもクラリアット王宮に連れて行く事自体が異常」 殺し屋から足を洗い、ここにいるようになってまだ半年。 どうしても男で通したいという自分のお願いを、椿姫は聞き入れてくれた。 やっぱり、まだ胸に引っかかるから。女だという事は。 「…仕方がないだろう。椿姫たっての願いだ」 「…え?椿姫の願い事だったの?俺の事王宮に連れてきたのって」 「いやそれは俺の完全な独断」 「じゃあやっぱり異常だよ…」 どうでもいいけどバラさないでよと呟いた海響に、小さく笑って閂はなにが?と問う。 「俺が女だって事だよ」 「心配せずともバラしはせん。敵が増えても困る」 「……敵?」 ワケがわからないと眉を寄せた海響に、閂はとても綺麗に微笑んで言った。 「俺はあの日からお前に心奪われているから、恋敵が増えては困るという意味だ」 その時の自分は、とても間抜けな顔をしていたのだろう。 固まった自分をあの日のように抱き締めて、笑う閂に対して浮かぶのはどうしても困惑とやはり与えられる温もりへの嬉しさ。 けして自分からは応えないままで、海響は呟く。 「『貧しきときに受けたパンは、命ほど価値がありましょう。 七日七晩かかっても、ご恩全ては語れません』……」 「……椿姫にか?」 問いかけながらキスをしてきた閂に、心の中で『お前にもだよ』と呟きながら海響はこれから口癖になる言葉を言った。 「…いつか殺すよ?」 「お前が『愛している』と言ってくれるなら本望だな」 それは遠い日の物語。 殺し屋『爆炎の悪魔』が死んだ、10年前の物語。 990年。クラリアット。 シャドー・ガードがまだ二人だけだった頃の、お話。 |